第9話
翌日も私の憂鬱は続いていた。
口を滑らせた。うっかり、あんな男のことを思い出してしまった。それがこれ以上ないぐらい私の気持ちを重くしていた。
だから、朝食の席で、
「和美、あんた今日元気ないわねえ」
と母に言われた時も、
「……悩みがあるなら相談しろ」
と父に気遣われた時も、
「あれ、姉ちゃん唐揚げ食わねーの? いっただきー!」
と弟におかずを奪われた時も、「んー」とか「あー」とか「うー」とか曖昧な相槌で濁したりなどしてしまった。
それから着替えて歯を磨いて家を出てからも、なんだか気持ちはモヤモヤしたままで。
(やっば! 絶対変だと思われた! あんなの、思い悩んでますって白状するようなもんじゃん! あー失敗したああああ!)
と一人で悶々と頭の中で後悔に身悶えたりなどもした。
その後学校で小毬ちゃんと顔を合わせても、話すことといえばずっと上の空で、とうとう昼休みに「ちょっと、カズミー!」と、可愛らしく両目を釣り上げた小毬ちゃんにとうとう雷を落とされてしまうのだった。
「カズミー、なんか、今日、変!」
「うっ……」
変なのは自分でも自覚しているだけに、正面からこうしてはっきり言われるとなかなか堪えるものがあった。
気まずくなって思わず目を逸らす。自販機で買ってきたパックのジュースをずずーっと吸い上げながら、言い訳の言葉を慌てて探す。
「えーっと……私が、変? とは? いったい、具体的に、どのようなところがどう変だと小毬ちゃんは思ったのだろう……?」
「あんまり頭良くないくせに今日に限ってそうやって妙に理屈っぽくなるところ」
「……なかなか言うよね、小毬ちゃんも」
切れ味鋭いツッコミに対して、私にできることといったら中途半端にお茶を濁すことぐらいだ。こういうときにさらっと腹芸の一つもできない自分が憎い。
内心そう落ち込んでいると、小毬ちゃんはぷりぷりした表情を引っ込めて、心配そうに言ってきた。
「カズミー、今日ほんといつもと全然違う。声も表情も暗いし、一度も男子を投げてないし、いつもはお弁当に加えてパンを二つは食べるのに今日はお弁当しか食べてないし」
「そういう日もあるって。そんな心配してくれなくてもいいよ」
「かもしれないけど、でも、心配は心配なんだもん」
不満げに小毬ちゃんが唇を曲げる。
「別に悩みとか愚痴とかなんでも話してなんてことまで言わないけど、心配ぐらいさせてくれなきゃ嫌」
「小毬ちゃん……」
「それに、カズミーはわたしにはごまかそうとしても無駄なんだもーん。幼馴染だもん、見れば色々分かっちゃう」
事実、彼女は本当に『分かっちゃう』のだろう。だからあえて踏み込んでは来ない。私の抱えてる気持ちを、無理やり聞き出そうとはしない。
小毬ちゃんはいつだって心配して、でもそれだけだ。それはきっと、彼女が『あのこと』知っているからでもあるだろうし、私が気持ちを吐き出せるその時までじっくり待ってくれているというのもあるのだろう。
「……なんだかな、いつもありがとね、小毬ちゃん」
「どういたしまして~。っていうか、カズミーはもっとわたしに感謝するべき! だから今日はドーナツに付き合ってもらうんだからね~!」
「え~……なんであんな油と砂糖と炭水化物の塊を好き好んで口にしなきゃなんないの……」
不満げに返した私の言葉は、だけど、さっきよりも少しだけ明るくなっていたんじゃないかと思う。
……ほんとに、小毬ちゃんがいてくれてよかったよ。
と、その時不意にスマホがメッセージの着信を告げた。
アプリを開いてみると、ノブからの連絡だ。その肝心の内容はというと。
「……」
「カズミー?」
どうやら私は怪訝な表情をしてしまっていたらしい。
けど、それも仕方ないと思う。だってメッセージの内容は、『今から二階奥にある空き教室まで来い』というものだったから。
それを見せると、小毬ちゃんも「おかしいね?」と首をかしげていた。
「西郷どんがこんな連絡してくるなんて珍しいね」
「うん。来いとだけしか書いてなくて、用件もろくに書いてないし」
用件不明の連絡をあの男がしてくることはめったにない。というか、普段は基本、用件のみの事務連絡以外はしない男だ。
「それで、どうするの、カズミー?」
「呼ばれたなら、行くしかないでしょ」
ノブのことだから私を呼び出すにはそれ相応の理由があるのだろう。首をかしげつつも、私は呼び出しに応じることとした。
「律儀だなあ」
と、苦笑交じりの小毬ちゃん。
それから彼女は、小さくて可愛らしい仕草で私に向かって手を振ると、
「それじゃ、行ってらっしゃ~い。わたしはここで待ってるね」
と言って送り出してくれるのだった。
* * *
(しっかしほんと、なんの用件なんだよ。それぐらいは書いておいてほしかったなあ。)
と思いながら廊下を歩く。
ま、ノブのことだ。大方、部活か柔道か道場絡みの呼び出しだろう。基本、あいつの頭にはそれ以外のことなんてないしな。
そう結論づけたところで、空き教室にたどり着く。昔は普通に教室として使われていたらしいこの部屋は、今では生徒の減少に伴い倉庫とは名ばかりのがらくた置き場に成り果てていた。
「ちーっす」
立て付けの悪い戸をガタゴトさせながら開き、中へ入る。
中には人がいた。ノブだろうか。逆光で顔は見えないが、背は高い。私よりも断然高い。輪郭は分かる。細身でシュッとしている。……え?
細身でシュッとしている?
ノブは確かに背が高いけど、細身とかシュッとしているとかって言葉がまるで似合わない、がっしりした体型だったはずなんだけど……?
男が口を開いた。
「うぃーっす!」
「……なんでいるんだよお前が」
やたらと軽いノリで片手を上げ近づいてきた男――イケメン、あるいは楠木勇一という名の男子生徒を睨みつける。
「俺がここにいるのは、俺が西郷君に頼んで芳野さんをここに呼び出してもらったからです」
「なんっ……でだよ。あんた、昨日私になんて言われたのか覚えてんの!?」
「もちろん、覚えてるよ」
「ならっ」
「俺と仲良くなるつもりとかない、だっけ。それは
そう言われ、私は思わず言葉に詰まる。
そうしてうろたえる私に向けて、イケメンがさらに言葉を続けた。
「芳野さんこそ俺の言ったこと覚えてる? 俺は君のことをもっと知りたいし、もっと仲良くなりたいし、そのためなら割となんでもしようと思ってる」
「そんなの……困る。どうとも思ってない相手に、なんでそこまでされなきゃならないの」
「どうとも思ってないから、どこかの誰かと俺を重ねて、それで突き放そうとしているんじゃないの?」
図星を突かれた私は返す言葉を持っていない。
ほんと、その通りだった。どうとも思っていないなんて、そんなことはそれこそ思っていない。むしろ、コイツに対して……コイツに重ねてしまっているあの男に対して含む感情が強くて、大きくて、無視できないからこそ、私はコイツを遠ざけたいのだ。
だけど、そんなことを白状できるわけがない。私にできるのは、苦し紛れの言葉を返すことだけだった。
「お前は……なんなんだよ。私なんかに、何を求めようっていうんだよ」
「それはもう、一番最初に言ってる。芳野さん、面白いから俺と付き合ってよって」
……そういや確かに言っていた。
「俺は芳野さんとデートがしたいよ。もっとたくさん関わって、色々楽しく話をして、なんなら喧嘩だってしてみたい。普通の恋人同士がすること全部、芳野さん相手にやってみたい」
「なっ……」
イケメンの口から紡ぎだされる言葉の数々に、私の心は思いきり揺さぶられていた。
こいつに感情なんてないはずなのに。大嫌いなはずなのに。……そしてこの、矛盾して噛み合わないもやもやをどこかへ投げ飛ばしたいはずなのに。
「だから、芳野さんが俺のこと好きとか、嫌いとか、そのどっちでもない無関心だとか、そういうのはどうでもいいんだ。俺にとって大事なのは、俺が芳野さんのことを好きだってこと。そして、芳野さんのことを振り向かせたいということ。それだけだよ」
「~~~~っ」
はっきりと告げられた言葉はどうしたって信じがたい。
私はこいつの、こういう恥ずかしいセリフを素面で吐けるところが嫌いだ。いつもヘラヘラと締まりのない笑顔を浮かべているのが嫌いだ。女にもてはやされて、誰に対しても軽々しく応じるところが嫌いだ。他にも数え上げればいくらでもある。なんなら百でも二百でも嫌いなところを見つけ出せる自信がある。
なのに、それだけ嫌っているはずなのに、なぜ私の頬は熱を帯びる? おいやめろ、これじゃまるで私が照れているみたいじゃないか。
「あれ、顔真っ赤になってるよ? もしかして照れた?」
「て、照れてない!」
「かわいいなあ」
「かわいくない!」
私をからかいながら、イケメンがくすくすと笑う。
ムキになって言い返すけれど、そのたびにさらに顔の温度が上がっていくのが悔しかった。
「あんた、ばっかじゃないの? こんなでかくて、筋肉でゴツゴツしてる女のどこが可愛いんだっての。逞しいの間違いだろ」
「あ、うん、それは分かってる。というか、別に芳野さんって別に可愛いとか美人とかって言葉の似合う容姿ではないよね。重いし」
「あんたねえ……」
たとえ事実だとしても、面と向かって言う言葉か、それは。
「けど大事なのは芳野さんの容姿がどうこうじゃなくね? たとえ筋肉だるまのメスゴリラだとしても、そのメスゴリラが俺の目に魅力的に映ってるかどうか、じゃないかなーとか思うわけで」
……人のことを、メスゴリラ呼ばわりかよ。どんだけ、バカにしてくれてんだよ。
でも不思議なことに、目の前で笑うコイツの瞳に人を小馬鹿にするような色はないように思えた。
だから、私には分からない。コイツの考えていることが理解できないし、なんで私なんぞに構うのかも意味不明だ。
遠ざけようとしても、簡単には遠くへ行ってくれない。はねのけても側に寄ってくる。イケメンとお近づきになりたい、私よりももっと綺麗で可愛くて女らしくて愛らしい女などいくらでもいるだろうに、なぜあえて私を追い回すのか。
「――って、ああ、そうか」
そこで私は合点が行く。
「お前、私のことからかってるんだな」
「は?」
「好きだの可愛いだの、思ってもないでまかせを口にして、私が狼狽える様を見て面白がってるんだろ。お前みたいな軽薄なヤツにはお似合いのくだらない遊びだな」
それなら納得だった。やけにこいつが真面目くさった顔つきなのも、きっと今にも吹き出しそうになるのを堪えているからに違いない。どうせ今頃、内心では腹が捩れてねじ切れるほどに笑い転げていることだろう。
「え? ちょ、ちょっと芳野さーん……どうしてそうなるのかなー?」
「悪いけど、私はお前とどうこうなりたいなんて思ってない。二度と話しかけないで」
こうした人種に弄ばれる趣味はない。
人の気持ちを踏みにじりながら平然としていられるような男に惹かれなどしない。
「私をからかうためにわざわざお呼び出しご苦労様。それじゃあ私、教室に戻るから」
「ちょ、待て待て待てって芳野さん! 俺からかってなんかねーし! なんか勘違いしてるし!」
空き教室から立ち去ろうと踵を返すと、慌てた様子でイケメンが私の肩を掴んでくる。
「触らないで」
その手をすかさず振り払う。
「いや、だって俺の用事まだ終わってねーし」
「残念だな。生憎私はお前に用なんてない」
「デートしようよ、芳野さん」
「……はあ?」
「ほら、俺と。デート。次の日曜日に、映画とかショッピングとか二人で行かない? って話をするために、俺は芳野さんを呼び出したんだけど?」
唐突な申し出に私は面食らう。
コイツにデートに誘われるなんて予想外もいいところで……だから、反応が遅れてしまった。
「というわけで、俺に芳野さんと仲良くなるためのチャンスをください」
「は? ……ええ!?」
「日曜日の午前十時に駅前でどうかな? とりあえずそこなら、どこ行くにしたっていくらでも動きようあるし」
「ちょ、おまっ……なんで!?」
「まあ、とりあえずそういうことで。じゃ、俺日曜日に芳野さんのこと待ってっから! 約束ね!」
「おい! おいいぃぃぃぃぃ!」
時間と場所を強引かつ一方的に告げ、イケメンは私よりも先に教室を出ていった。突然のことに、誘いを断ることすらできなかった。
だから私は、しばし呆然とした後、
「絶対、行かないんだからね!」
と叫ぶことしかできなかった。
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