それは真夜中に歌を踊るような

Lie街

路地裏の世界には奇妙な住人

私は夜の街を歩いていたのだ。それはキチガイのように。大阿呆のように、ただただ彷徨っていたのだ。私には人が分からぬ。暗澹とした暗い部分とさながらお日様のように明るい明白とした部分とがある人間は分からぬ。もはや、無防備な笑顔などはないのではなかろうか。笑顔の裏にはありとあらゆる目も塞ぎたくなるような淡々とした、海底のように深い歴然たる悪意が悪びれもなくさもしく寝そべっているような気がしてならない。

人を信じることができぬ人ほど不幸なことはない。なぜなら、それは同時に人を愛せないと言うことなのだから、いつまでもただ1つの孤独という名の悪友と手を繋いで生きていかなくてはならない。私は今日も暗黒の路地裏へと足を運ぶのだ。そこにはベニヤ板やら、空き缶やら、鼠やらが静かに息を潜めていてどことなく悲壮感を漂わせている。先の見えない(人の心とでも言うのだろうか)重重しい寂寥のはらんだ闇の中へと一歩、一歩と歩みを進めていく。私は何も闇雲に歩いているわけでも、ましてや己の欲望の赴くままにまったく、出鱈目に歩いているわけでもない。私はちゃんとした明確な理由が明瞭と存在している。それはなんというか、煌々と燃え上がる、午前2時の森で見る松明のような奇妙な程にハッキリとした光が、その路地裏の漆黒に忽然とそれでいて強烈な程に煌めいていた。

遠ざかって行く喧騒を背に歩いていくと、だんだんとその喧騒は薄れ、やがて消えた頃にまた別の、今度はいやに静かでどこか氷のように冷たい風が、私の薄手のシャツの下を微かに這い回りシャツが僅かに浮き上らせる。私はあからさまに身震いをした。そして、おずおずと辺りを見渡しながら浮浪者のように歩き始めた。

光ひとつ見えなかった路地裏を抜けると、巨大で不思議なくらいに垢抜けたこの暗闇であるはずの宵を我が物顔で見下ろす月が浮かんでいた。目がくらむほどの眩い光だった。

その月光は橋のかかる河川の上に音もなく横たわっていて、その両脇の道には古風な住宅と左側にのみ赤い提灯のぶら下がる屋台が出ていた。私は舗装されたコンクリートの道上を赤提灯を目印にヤモリのように足早に歩いていき、石でできた橋の上を素早く通過しその先の二手を右に曲がった。どことなく不気味で何軒かの家からは軋む音が少しだけ聞こえていた。或いはそれは気のせいだったかもしれない。屋台の赤いのれんをくぐると長い髭を生やした亀に似た…というよりは亀の顔をした男がのんびりとしかし、威厳を感じるような嗄れた声で私にいらっしゃい、久しぶりだねと言った。1度しか入店していない私の顔を覚えているのには(ここらでは多少変わった顔つきであることを差し引いても)少し喫驚した。亀の老人はほとんど目が見えていない、言わば半盲人だったのである。

私は狭い屋台の中で1人の芸術家の隣に腰掛けた。彼は名前をノザキと言った。ノザキは魚の顔をした男であった。ノザキの描く絵画は一部のマニアからはとても評価が高い。と言っても彼の言う芸術は私には到底分かりえないもので例をあげるとすれば(とは言っても絵画を叙述するというのは難解であるが)ノザキの作品の中に「惨憺とした光明と闇」というものがある。キャンバスの下方から上方にかけて黒と白のグラデーションになっていて、路地裏から見た月のようだった。その絵の真ん中には小さなお皿が置かれていてその上には、その皿とは対照的にあまりに大きすぎる腕がキャンバスから、その闇から抜け出すように大きく横長に描かれている。その腕には浮き出た血管が幾本も伸びていてスラリと長い指が自然な様子で折れ曲がっている。そして、白い皿の隅から青と赤の線が延びている。さらに、キャンバスの端から端へ、対角線上に黄色の太い線がのびていた。

以前、ノザキにこの絵の意味を聞くと彼はいかにももったいぶって自分の鋭く尖った顎をさすった。その後、カウンターの上の焼酎を軽く煽った。彼は両側についた大きく年輪のような目で遠くを見た。

「救われない人類への警告…それがこの絵のテーマさ」そう言ったきり彼は眠ってしまった。酔いが回ったらしい。

彼と出会ったのは私がこちらの世界に迷い込んだ時に、川の中からひょいと顔を出して、見かけない顔だなと言ったのが最初だった。私が驚愕して尻もちをついた様子を笑いながら見ていたのを今でも覚えている。魚の顔に表情があるなんて、今まで考えたことすらなかったのだから、それも相まって私の記憶にこびりついている。

それから彼はこの屋台に案内してくれたのだ。その日はまだ昼までお日様がちょうど屋台の屋根の上にあつらえたように昇っていた。それがだいたい、一年前くらいの話だ。

私は彼と話をしたくて今日ここへ来た。とても久しぶりに。彼は相変わらず少し生臭かったが、私は昔から鼻が多少悪い人間なので別段気にすることでもなかった。私は亀の老人に生ビールをひとつ頼んだ。どうもこの屋台には酒を飲みたくなる不思議な力が込められているようであった。或いは私の欲望に対する自制心の緩さからかもしれない。彼は相変わらず、もったいぶるように遠くを見ていた。彼の右目に話しかけてみると少し驚いて久しぶりじゃないか?と言った。実に二ヶ月ぶりだとも言った。どうやらこちらと元の世界では時間の流れが異なっているらしいが、そんなことは映画や小説の中ではよくある話でその類の作品を散々見漁ってきた私にはその程度のことで騒ぐ方が余程白々しかった。私は彼に単刀直入で話を聞くことにした。

「抜け出せない闇はありますか」

私は彼と同じように少し気取って遠くを見て話したがどうも彼ほど上手くはいかなかった様子で、あろう事か目の前でゲラゲラと笑いだしたのである。さすがの私も苛立ちをおぼえて立ち上がらんばかりの勢いで何がおかしいことがあろうかと怒鳴った。

彼は悪い悪いと笑いながら謝っていた。丸い目から滴り落ちる透明な涙をハンカチで拭き取りながら今度はいやに真面目になって話し始めた。

「君もそんなことを考えるのかと思うと少しおかしくってね。君はどう思うんだい?」

彼に促されるまま私は答えた。

「私はあると思います。未だに終わらない戦争、返済できない借金、自己肯定感の低さによる自殺率の増加…こういう問題は永久的に続いて行くものだと僕は考えるのです。ノザキさんはどう思いますか?」彼はいつものようにもったいぶって焼酎を飲んだ。

「ないね」

彼は吐き捨てるように言った。その一言は口から排出されたきり空中で止まっているようにさえ感じた。

「今列挙した事にも言えることなのだけどね、万物には全て終わりが付き物なのさ。けれども、人間一人の寿命ではその終わりまで辿り着けないだけの話でね。だから人っていう生き物は簡単に絶望するのさ。彼らは越えられない時間という名の壁とか辿り着けない闇の出口とか、そういうのを本能的に知っちまってるのさ」

彼は物悲しげにそう言った。そして、はかったように氷がカランと鳴った。その音が今宵の風に乗ってどこかの眠れない子供の耳に入って夜遊びを教えたような気がした。

「だいたい君はそんなことに闇を感じているのかね。いや、悪くないとは思うんだけどね。なんかこう他人事というか、漠然としているというかね。浅はかな気がしてならないんだが…」

私は少し気分を悪くしてぷいとそっぽを向いた。

「気を悪くしたならすまない。けどね、君のそれはあまりにお説教臭いんだよ。だからもっと人の心に寄り添うように生きてみればいいんじゃないかな。僕みたいに」尖った顎を擦りながら彼は得意げに話した。私は何か拍子抜けしたような気がした。いや、彼の言うことは至極真っ当だと思われるが、果たしてそれは私の暮らす世界での俗世間の意見と何ら相違ないではないか。彼は確かにいい事を言っているしそれらが間違いであるとは思えないが、故に私は何か他の答えが来るような気がしていたのだ。私は密かに失望した。それはどこか涙を流す恋人を置いて帰る男のような情けなく、さもしい失望であった。

私は彼にお礼をいい、会えて嬉しかったと言った。僕はジョッキに半分だけ入っていたビールを飲み干すと会計を済ませた。財布から小銭を取り出していると亀の老人が白い眉毛を少し上げ「あいつの話しはどうだったかな。満足いくような内容だったかい」と、やはりゆっくりと威厳のある口調で語るように話す。その問に私は少し目を逸らしてから答えた。

「正直言うと少しお門違いでしたかね。でもいいんです。それはそれで」小銭が生き物のように財布の中を泳ぎ回った。私は少し狼狽したような早口で言った。「あいつは恵まれた世界で生まれ育ったんだ。あんな絵画を描いているがそれはあいつなりの不良を演じているだけでね、本当は根の優しい真面目ないい子なんだよ」私は心のどこかで亀の老人の意見に賛同していた。

私は屋台を出た。相変わらず巨大な月が顔を覗かせている。家路につこうと元来た道を歩き出すと何やら低く唸るような声が聞こえた。

「いや、あるね」

私はその声に肩でも叩かれたかのように振り返る。しかし、そこには人影は愚か民家以外には柳の木の1本も見えない。この奇妙な世界で私はまたもや奇妙な出来事にあっている。私は今までの顛末もあり煩悶としていた。もどかしい思いを抱えていた。

「終わらない闇はあるよ」

突然また低い唸り声のような、けれどもいやにハッキリとした声が前方から聞こえた。前に向き直るとそこには龍がいた。緑色の肌に黄金色の毛が光っていて、同色の髭が風もないのにふわふわと浮いていた。前方にせり出した口からは牙が二本両端から伸びていて、ギラギラと光る目にはどことなく哀愁が漂っていた。そして、堂々たる態度で二本足を据えて立っていた。その迫力は奈良の大仏にさえ匹敵していたように思う。

「終わらない闇とは宇宙のようなものだ永遠に膨張し続ける。それを終わらせるには全てを破壊せざるおえない。しかし、どうだろう。全てを破壊すればそこに現れるのもまた闇、終わらない漆黒。闇には別の闇をもって対抗するしかない。人の闇とはもうひとつの絶対的な闇、死をもって乗り越える他ない。宇宙という存在はまさに終わらない絶望や闇を体現しているのだよ」

龍は確かに目を見て悠然とした態度で言った。ノザキとは異なった細長い切れ長な目はどこか精悍であった。また、哀というよりは愛をはらんでいるような気がしてならなかった。

私は縛られたようにその場に立ち尽くしていた。その夜は星が綺麗でしかしその光さえも月に遮られていた。川は波打ちその波紋はどこからか飛んできた枯葉によって作り出されていた。私は感動していた、今すぐ号泣してもおかしくはなかった。やはり多少なりとも恐怖も抱いていた。龍はいつの間にか姿を消していた。彼はまた、抜け出せない闇の中へと帰っていったのだろうか。

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