海辺の町にて

樹真一

第1話

「ごめんなさい、あなたとは、付き合えません」

 汗びっしょりの顔をくしゃくしゃにして、彼女はそう言った。沈黙が、打ち寄せる波に押し流されていった。


 夏は町中を包んでいた。蝉の声と潮騒だけが満たす、静かな海沿いの町だった。

 バックパックのストラップが、重く肩を締め付ける。汗が首筋を流れていく。太陽は真上にあって、真正面には数名の女の子が固まって歩いてきていた。

 見るからに敵意は剥き出しに、けれど、護身用の武器は見えないように隠して。僕は、あえて目を合わせることはしない。干渉する気がないことを全身でアピールしながら、足早に彼女たちの横を通り抜けた。ああいう人たちを、この町へたどり着くまでに何人も見てきた。

 目的があって、ここへやってきたわけではなかった。ただ、なんとなく、海のある方角を目指して歩き続けただけだ。そして僕は、砂浜に立っている。

 露出過多の写真のように真っ白な砂浜を、波が洗う。フライパンのように焼けた砂に、コーラの瓶が半分埋もれていた。コーラの味を思い出し、どれだけ口にしていないだろうと考えた。以前なら海水浴客で賑わったであろう砂浜なのに、今はもう誰の姿も見えない。

 いや、一人だけ、いる。

 ぼろぼろの小さなボートを相手に、周囲をちょこちょこと走り回っている。白いTシャツにジーンズをはいた、女子大生くらいの女の子。僕と、同じくらいだ。

 僕は、地球最後の日を見届けるかのように横たわる流木に腰掛ける。バックパックから、ぬるい水の入ったペットボトルを取り出し、一口呷る。その間も、僕の目は彼女を見つめたままだ。この夏に似つかわしくない、エネルギーに満ち溢れた彼女を。

 僕が汗をぬぐいながら彼女を見ていると、どうやら彼女の方も、僕に気が付いたらしい。

 しばらく、じっとお互いに見詰め合う。どちらも、身動きもせずに。

 僕はしかし、気にもしていないことを告げるように、もう一口、ペットボトルの水を呷る。なぜだか無性に、ポカリスウェットを飲みたくなった。

 女の子は、いったんくるりと振り返って、ボートの中からバットを取り出した。さっきすれ違った子たちと同じように。そして、それを両手で握りしめたまま、そろそろと近付いてくる。

 近付いてくることが少しばかり予想外だった僕は、両手を上げて敵意がないことを表現した。それを見て、まぶしい太陽の下、女の子は渋々とバットを下す。そして、そのままそろそろとこちらに近付いてくる。なんのつもりだろう?

 やがて、女の子の表情がはっきり見えるくらいの距離に、彼女はやってくる。彼女の表情が見えるということは、僕の表情もはっきり見えるということだ。彼女は、そして汗びっしょりの顔でにっこりと笑って見せた。

「こんにちは。この辺の人じゃない、ですよね?」

 僕は頷く。

「旅をしてる」

「へぇ、いいなぁ」

「君は、何してるの? こんな暑い中」

「舟を作ってるんです」

「舟?」

「そう。脱出用の」

 見てみると、ぼろぼろのボートには、サイドフロートらしきポリタンクがくくりつけられている。

「あとは、マストと帆を取り付けたいんです。ガソリンエンジンを付けるより、《現実的》かなって」

 確かに、長い棒と布は置いてあるが、しかし……

「……手伝えって言ってるの?」

「はい!」

 にっこりと、彼女は笑った。

「あのさぁ」

 現実的、と彼女は言った。

 だが、それはまるで現実的じゃない。この砂浜から、あのちっぽけな舟に帆を張って、果たして太平洋を越えられると思っているのだろうか? 何千キロもの航海を、あのちっぽけな舟で、補給もなく、成し遂げられると思っているのだろうか?

 いや、そんなはずはない。そんなことが不可能なのは、誰だってわかる。しかし。

 しかし、それに賭けるしかないと、彼女は信じたのだろう。それが今、行動として舟を作り上げようとする、彼女の原動力になっている。

 その行動の原動力は――なにも、彼女だけを動かすものでは、ないのかもしれない。

「……いいよ、分かった」

 僕だって、彼女と同じだ――逃げるようにして、旅を始めた。最初は自転車で、次にヒッチハイク、そして今では、歩いて移動している。次の乗り物が舟でも、なんら問題はないだろう。

「え? いいの?」

 誘っておいて、これか。すでに、何人にも断られていたんだろう。

「……この舟は、どこにあったの?」

「この浜辺に、もう二、三年くらい置いてあったかなぁ」

「地元出身なんだ」

「ですです。友達も手伝ってくれてたけど、もう付き合いきれないって……」

 泣きそうな声で、彼女は言った。すれ違った、数人の女の子たち。いや、そうとは限らないだろうが。

 泣くのだろうか。僕は、泣いている女の子の相手をするのが苦手だった。

「じゃあまず、どこまで作業が進んでるかを確認しよう。それから、作業計画を立てる。残された時間は少ないんだ、効率よくやらなきゃ」

 僕はバックパックを置いて、さっさと立ち上がった。タオルを首に巻いて、それから彼女を見下ろす。

「さ、仕事を始めよう」

 泣きそうな顔が、少し、笑った。

「はい」

 それから、僕たちは夕方まで作業する。夕日が海に沈み、その鮮烈な赤を見ながら、僕は汗を拭い、水を飲む。

「ありがとうございました」彼女は言う。「明日も、手伝ってもらえますか?」

「いいよ。どうせ暇だし」

 僕は、バックパックから寝袋とランタンを取り出す。それらを砂浜に設置し始めたのを見て、彼女が驚いたように叫ぶ。

「の、野宿する気ですか?」

「うん、そうだよ」

 今までもそうしてきた。危ない目にも何度かあったけれど、田舎に近付くに連れて、そういうことも減っていった。この砂浜で、襲われることはないだろう。

 だが、女の子は信じられないとばかりに僕の寝袋を取り上げた。なんてこった、食料や水じゃなく、寝袋を取られるなんて。

「それなら、うちに来てくださいよ!」

「え!?」

 今度は、僕は驚いたように叫ぶ。



 結局、厄介になることになった。

 久しぶりの風呂に浸りながら、僕は思っていた以上に、体に疲れが溜まっていたことを思い知る。それが、湯の中へ溶け出していく感覚が、こんなに気持ちがいいとは知らなかった。

 彼女の家はとてつもなく古い家で、薪風呂だった。だからこそ、こんな時でも温かい風呂に入ることができるのだが。

「一人で住んでるの?」

 風呂を終えて、僕のランタンで照らし出した質素な夕食を食べながら、僕は尋ねる。

「実家は実家なんですけど、」彼女――香苗という名前は、家に入る前に聞いた――は、レトルトのご飯を食べながら頷く。「都会の大学に行ってたんですけど、戻ってきたら、誰もいなくなってて」

 それ以来、少しだけ残っていた食料と、近所の畑から拝借した野菜を食べているらしい。僕は泊めてもらうお礼として、いくつかの缶詰を提供した。SPAMとシーチキン、その他いくつか。

「久しぶりのタンパク質です」

 うふふ、と香苗は笑う。僕にとってもそれは同じではあるが、そこまで喜んでくれるのなら、差し出して悪い気はしなかった。

 風呂に入り、お腹が膨らめば当然眠くなる。布団を並べて寝ることになるが、不思議と、妙な雰囲気にはならなかった。誰かがそばにいて安心できることが、単純に嬉しいのだ。そしてそれを、壊したくはないのだ。

「都会から来たんですか?」

 暗い天井を見上げて、香苗が言う。

「そうだよ」

 暗い天井を見上げて、僕は答える。

「都会は、どうですか?」

「……もう、人が住む所じゃない」

 都会には、もう戻りたくない。

「ははは。それは、そうかも知れませんね……この辺の田舎だって、そうだし」

「でも、こっちの方が過ごしやすいよ」

 屋根があり、布団があり、話をする相手がいる。

「海近いからですかねー」

 暑さだと勘違いしたのだろうか。しかし、この夏を過ごすには、 確かにうってつけの場所なのかもしれなかった。



 雨が窓を叩く。僕は、それでも雨の中に飛び出す。

 ごうごうと、強い雨だった。風もとんでもなく強く、ひょっとすると、台風なのかもしれない。

 水をためるために並べていたバケツを、ひとつ蹴飛ばした。それでも僕は、裸足で、アスファルトの上に飛び出した。着ていたシャツは、あっという間にずぶ濡れになった。

「香苗ー!!」

 僕は叫ぶ。風がそれをかき消す。

「香苗ー!!」

 ばしゃばしゃと走る。目も明けていられない。ランタンの明かりが、どうにも心細い。

「香苗ー!!」

 舟を見に行く。そこにも、人影はない。

「香苗ー!!」

 近くの畑に行く。すでにそこは、溜め池のようになっていた。

「香苗ー!!」

 四角い建物があった。正体がわからないまま、中に飛び込む。

「香苗ー!!」

 建物の中は、陳列棚が三つあり、一つは倒れていた。コンビニだった。

 そして、その隅にうずくまって、香苗が泣いている。

「香苗……」

 僕は、言葉を探す。香苗は、もう逃げようとはしなかった。

「ごめん、僕が悪かった。現実的かどうかは、問題じゃない。君が正しい、というのは難しいけれど、僕が間違っていたことは、確実だ」

 言って。こんなに薄っぺらい謝罪はないだろうと思った。でも、僕にはこう言うほかに手段はない。僕が間違っていたのは確かなのだ――香苗の心を傷付けた以上、なにがどうであろうと、間違っている。

 それを、僕はうまく言葉にできない。

「…………」

 香苗は、黙っている。あるいは、自分の放った言葉の意味と、僕が放った言葉の意味を考えているのかもしれない。

 そして、時が止まったような時間が過ぎた。雨音と強風は平均化され、耳障りなノイズにしかならない。僕の呼吸も香苗の呼吸も、その音の前には死んだように鳴りを潜めていた。

 やがて、香苗が小さく、こくりと頷く。時間が動き出す。

「ひどいこと言って、ごめんなさい……」

 香苗が謝ることではない。僕は、香苗の肩に手を置いて、黙っているしかなかった。泣いている子を相手にするのは、苦手なのだ。



 数日が過ぎた。舟には、マストが立った。帆をどうやって張るかは、なかなかいいアイディアが浮かばない。

 それでも、手を動かすしかない。時間は差し迫っているのだから。

「オールも付けたがいいかな?」

 香苗が言う。すでに、敬語は外れていた。

「手漕ぎじゃ脱出できないだろ、普通に考えて」

「でも、帆を張らないとそうせざるを得なくなるよ?」

「だから、考えてる……」

 しかし、そもそも、

「本当にこの船で、脱出できるんだろうか」

 僕がわざとシニカルに言うと、香苗はケラケラと笑う。

「できなくても、手を動かしてれば気が晴れるから!」

「楽観的すぎる」

「あなたが悲観的すぎるだけですー」

 ぷーと唇を突き出す。怒ってみせる時の癖らしかった。

「そうでもない、結構楽観的だよ。自分で思っていた以上にね」

「またまたー。絶対悲観しながらやってるはずだし」

「確かに、」そうだ。「ここへ来るまでは、悲観してた。悲観せざるを得ない、とすら思っていた」

 けれど、僕は変わった。ほんの数日の間で。

「今は、楽観している。本当に、自分でもどうしてか分からないくらいに」

 そうだ、僕は。

「僕は、君が好きになってしまったようだ」

「……え?」

「香苗、僕と付き合ってほしい。この夏を超えて、一緒に生きてほしい」

 ほら、楽観的だ。彼女とともに――この夏を超えられると、超えて生きたいと、願っている。

 だが、しかし。

「ごめんなさい、あなたとは、付き合えません」

 彼女は、汗びっしょりの顔をくしゃくしゃにして、そう言った。

 そして、彼女は泣き出してしまう。僕には、分かる。香苗が今まで積み上げてきた、脱出するという夢物語にすがって保ってきたものを、僕は、ぶち壊したのだ。

「だって、だって……!」香苗は、泣き叫ぶ。「だって、付き合っても……もう、人類は、もう……!!」

「一緒に行くんだ、南半球へ」

 香苗が、はたと泣き止んだ。僕が言った、あまりに無茶苦茶なことに、驚いているのだ。

 無理はない。僕だって、無茶苦茶なことを言っていると自覚している。僕だって、バカじゃない。でも、もし、ほんの〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇一%でも可能性があるのなら、そして、その可能性に手を伸ばしたいと思えるくらいに――僕は、楽観主義者になってしまっていた。

「でも、私……!」

「受け入れられない?」

「終わるって分かってるのに、どうして、そんなこと……」

 香苗が涙を流す。僕は、彼女の肩に手を置く。顔を上げた彼女に、これでもかと笑ってみせた。

「じゃあ、賭けをしよう」

「……賭け?」

「舟を完成させて、海へ出る。そして、僕と君は、一緒に脱出する。比較的安全と言われている、南半球の大きな大陸まで」

「…………」

「そして、二人で生き延びることができたら、僕と付き合おう」

「そんな、こと……」

「僕のことは、それほど?」

「……」彼女は、首を振った。「でも、だから……辛い思いは、もう……」

 僕は、今度こそ笑った。楽観的に。迫りくる脅威ですら、何事かと思ってしまうほどに。

「僕は、辛い思いをするつもりはないよ。本気で言ってる」

「本気で?」

「本気で」

 空に浮かんだ太陽が、呆れたように僕らを照らす。僕は、その光ですらむずがゆく感じてしまう。

「だから、さあ、舟を完成させよう」

 舟がなければ、賭けは成立しないのだ。

「今の僕の失恋が、人類最後の失恋になるかどうか。さ、賭けを始めよう」

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