第2話 身体は心の若さを映す鏡

 その数日後、午後八時。繁華街の裏通りの、汚くて薄暗い場所を四十がらみの小柄な小母おばさんが歩いていた。全身黒っぽい服を着て、顔を隠すように薄いスモークのサングラスを掛けている。昔はそれなりに可愛らしい少女だった面影が残るが、今の表情は不機嫌な山姥やまんばそのものである。斜めにしても、裏返しても、その顔から愉快な要素を見出すことはできない。

 その小母さんの脇には、ひょろりとした青年が寄り添うようにして並んでいる。年の頃は十代半ばと言ったところ。とび色の髪はサラサラで、二重瞼ふたえまぶたのくっきりとした、あどけなさが残る顔立ちだ。こちらも、服装は小母さんと同じように黒っぽくて地味だが、ワクワクを隠し切れないような笑みを浮かべている。

「そんなに早く歩かないでください。こっちは背が低いし、足腰痛いんですから。」

 長いリーチを活かしてすたすた歩く青年に、やや遅れがちの小母さんが低く文句を言った。青年は振り返って、頭を掻きながら謝る。

「ごめんごめん、佳弥かやちゃん。つい、嬉しくって。」

「何が嬉しいもんですか。こんな年寄りにされて。あと、ちゃん付けで呼ぶのはやめてください。これ言うのはもう三度目ですから、いい加減に学習してください。」

「だって、佳弥ちゃん十六歳でしょ。俺、二十七だよ。ちゃんで良いじゃん。」

「親しくもない市川さんからちゃん付けで呼ばれるのは、馴れ馴れしくて不快です。それに、私の今の見た目からして、ちゃん付けは変です。」

「じゃあ、佳弥ちゃんも俺のことは幸祐こうすけって名前で呼んでよ。そしたら、俺も佳弥って呼ぶよ。」

「十も年上の男性を名前で呼び捨てにはできません。私のことも名字で呼んでください。」

「お堅いよねえ、佳弥ちゃん。そんなだから、そんな姿になっちゃうんだろ。」

 痛いところを突かれて、小母さん、つまり、佳弥は口をつぐんだ。

 佳弥は今、すっかり四十五歳の状態である。変装ではない。髪の毛の五分の一は白髪だし、頬はややたるんでしわや染みも出てきているし、長く歩くと膝と腰が痛いし、ひどく肩は凝るし、体力も落ちている。暗いところではものが見づらい。明るくても細かい字が読みにくい。早口な高い声を聞き取りづらい。手も潤いが無くて、カサカサしている。多分、紙を素手でめくれない。テストをしていないから分からないが、おそらくは記憶力なんかも落ちていて、人の名前を思い出せなかったり、「あれをこれして」みたいな指示語の発言が増えたりしていることだろう。

「でも、面白いよなあ。変身すると、精神年齢に応じた姿に変わるっていうのは。新しい展開だよね。魔法少女ものでもそんなのは無いだろ?」

「そんな展開は要りません。実年齢で十分でした。」

「俺は若返ったから、嬉しいけどね。」

「精神がガキのまま全く成長していない証ですね。おめでとうございます。」

佳弥はつっけんどんに答えた。

 佳弥の隣を歩く青年は、市川幸祐。現在は十五歳の外見だが、実際には二十七歳だ。社会人として勤め始めてもう五年になるというのに、大人らしい落ち着きが全く感じられない。ゆっくり歩けと佳弥に言われたばかりなのに、もうきょろきょろと辺りを見回しながら佳弥を置いて先に進んでいる。何か話しかけたものの隣から反応が無く、漸く佳弥を置き去りにしていたことに気付いて戻ってきた。

 何でこんな奴と、こんな格好で、夜の街をさまよわねばならない。佳弥は心底げんなりして、ため息をついた。

 それもこれも、例のタピオカ屋で見かけたアルバイトのチラシのせいである。

 佳弥は結局、タピオカ屋の後でゴアと別れてからアルバイトの説明会に足を運んだ。会場は、怪しくも何ともないビルの中程の階にある、何の変哲もない貸しオフィスの一室だった。足元は水色のカーペットマット敷きで、壁は白く、青い事務椅子と灰色の事務机がいくつか並んでいる。大きな複合機が片隅にあって、パソコンと電話が何台か机の上にある。あまりにニュートラルすぎて、何の企業が入っていたって驚くことはないだろう。

 説明会の参加者は、佳弥と幸祐の二人だった。佳弥は制服だから、高校生であることは一目で判る。幸祐は安っぽいスーツを着ているので、平サラリーマンだろうと佳弥は判断する。そわそわして落ち着きのない男だ。好かんな、と佳弥は醒めた感想を抱く。そうして、自己紹介をするでもなく、互いに黙ったまま来客用らしき小ぶりなテーブルを囲むようにして待っていると、すぐに中年のおじさんが現れた。

「お待たせしてすみません。担当の中野と言います。」

 これまた、どこにでもいそうな、町中ですれ違っても一瞬で顔を忘れそうな中年男性である。禿げてはいない。そんな、強い印象を与えるような要素は無い。ぱさぱさのごま塩の髪を適当に分けた頭、ありきたりな眼鏡、取り立ててブサイクでもなければ美形でもない顔、中肉中背。濃灰色のスラックスに、紺を基調とした斜めストライプのネクタイと白いワイシャツ。どこをとっても、普通としか表現のしようがない。世の中のおじさんの標準像を造れと言われたらこうなるのかもしれない。

「はあ、ほう、お二方とも、なかなか見込みのあるご様子で。」

 中野はもごもごと御愛想のようなことを呟く。

「それでは、当団体、シンハオの業務内容からご説明しますね。」

そう言って、何度か使い回しているらしい、くたびれたパンフレットを机に広げた。日本地図が描いてあって、あちこちに家のマークが付いている。

「私たちは、日本全国に拠点を持っておりまして、各地でその土地に応じたツボ押しを行っております。ツボ押しと申しましても、人の身体にあるツボではなくて、世の中のツボですね。」

「何ですか、それ。」

幸祐が質問すると、中野はパンフレットを一枚めくった。作り物の笑顔を浮かべたザ・家族という風情の老若男女が、モデルハウスような綺麗な住宅の前でわざとらしく肩を寄せ合っている写真が中央に座している。そのザ・家族の周囲に、吹き出しがいくつかちりばめられている。

「人の身体のツボと同じなのですが、世の中のツボを押しますと、様々な良い結果が得られます。例えば、災害被害の緩和、交通事故の減少、犯罪の抑止、自然環境の改善、経済活動の発展、などなど、こちらにあるとおりですね。」

吹き出しには、中野が読み上げたことが書いてある。

 胡散臭い、と佳弥は口に出さずに考える。そんなうまい話があるわけないではないか。具体的に何をするのか知らないが、ツボを押すだけで、世の中の不具合に対する万能薬みたいな効果が得られるものか。これはもしかして宗教の類か、と警戒を強める。

「ツボ押しには色々な方法があるのですが、慣れるまではこちらで細かく指示をいたしますので、ご安心下さい。簡単なものから始めて、徐々にスキルアップして頂くことになります。」

「最初のうちだったら、どんなことをするんですか?」

 幸祐は興味津々で質問をする。

「例えば、ですが、石を積んで頂いたり、水を撒いて頂いたり、ということになりますね。そういうのを、二人一組で回ってもらいます。簡単でしょう?」

「はあ、簡単ですね。そんなのでツボが押せるんですか。」

「ええ。ただ、その程度だと効果も弱いのですが。経験を積んで、もっと複雑な仕事をお願いするようになりますと、こちらに記載してあるような効果が目立って表れることもあります。」

 表れることもある、か。と佳弥はやはり口に出さずに考える。ツボとやらが真実かどうか知らないが、何をしたって大した効果は無いのだろう。だが、効果の有無は一介のアルバイトが気にすることではない。水撒きをするだけで時給九百円が手に入るなら、簡単なものじゃないか。どんな影響が出るかなんて、そんなのは雇う側が考える話だ。アルバイトなんて、物を考えぬ歯車として、黙々と指示に従えば良い。

 ただ、バイトの話で釣っておいて、最終的に宗教の勧誘や高額な商品の購入を迫られるというパターンでは困る。あるいは、ツボ押し要員を新たに勧誘すると、紹介料が手に入って儲かるんですよ、というマルチ商法も嫌だ。うまい話には裏がある。佳弥はそう信じている。

 この、少し頭のねじの緩そうなアンちゃんに適当に質問させておいて、中野とやらの様子をよくよく窺う必要がある。佳弥は口を閉ざしたまま、疑り深く周囲に目を配った。

「もちろん、頭から信じるのは難しいことだと思います。ちょっと電波系か中二病っぽく聞こえますしね。」

「あはは、中野さん、ご自分でおっしゃっては駄目でしょう。」

「いえいえ、よくバイトさんに言われるもんですからね。まあ、私たちもそれくらいの自覚はしておりますよ、という話で。その上で、アルバイトのご希望をお伺いするわけですよ。」

 中野は笑いながら、パンフレットをめくった。待遇があれこれと書いてあるページが出る。

「時給は九百円からスタートで、スキルアップに従って加算されます。皆さん数カ月経つと大分慣れますので、その頃には十円上がりますかね。今一番のエースは、時給二千円プラスの、難しい案件の場合は特別手当で日当を五千から一万円付けています。」

「うわ、かなり良いですね。僕の給料より多いかもしれませんよ。」

 まじか、と佳弥は思う。バイトの給料の良さと、幸祐の薄給っぷりの両方に。

「まあ、これはトップクラスの場合ですから、かなりの例外ですが。おたく様も、頑張りと適性があれば、夢ではないかも…というところですね。」

「頑張りますよ。」

 この男はどうやらバイトをすることに決めたらしい。他に給料があるのにバイトする必要があるということは、金遣いが相当荒いのか。その割には、身だしなみは平凡でさほど金をかけているようには見えない、と佳弥は心の中で訝しむ。

 他人のことはさておき、今のところ、中野の話は実際的で、ツボ押し自体の胡散臭さ以外はまともに見える。嘘もついていなさそうだ。佳弥の心もバイトをする方向で傾き始めてきた。

「それから、シフトは基本的に週三日以上ですが、初めのうちは都合が悪ければ当日キャンセルも可能です。難しい、その人にしかできないような仕事を任されるようになりますと、さすがに責任を持って取り組んで頂く必要が出てきますが、そこまで行くには、まあ、早くても何年か掛かりますから、当分は考えなくてよろしいかと。」

「なるほど。」

「スマホはお持ちですよね?シフトの申告については、当社専用のアプリがありますので、そちらをダウンロードしてご利用ください。ツボ押しの方法についても、電話か、もしくはアプリを通して連絡することになります。」

 やけに現実的ではないか。信用して良いのかも、と佳弥の心が微かに傾き、その揺り戻しがすぐに訪れる。

 いや待て、アプリを通して、変な教義の配信があったりすると厄介ではないのか?「神の子は復活せり。祈れ!けがれを捨てよ!」みたいなのは御免だ。佳弥は疑いの目を捨てない。石橋を叩いても渡らない、それが佳弥である。

「事情があってお辞めになるときも、アプリでご連絡くだされば結構です。それまでの給与は計算して振り込みます。」

「確か制服支給でしたよね。制服は郵送か何かでお返しするんですか?」

「いえいえ、制服もアプリで支給しています。お辞めになりますと、アプリにログインできなくなりますので、制服も着用できなくなります。」

 そこで漸く、幸祐の顔にもはてなマークが浮かんだ。

「ああ、ご説明が遅れましたね。このアルバイトの業務中は、アプリを通して変身する必要があるんですよ。皆さんの身の安全のため、ですので、これは必須です。」

 当たり前のような顔をして、さらっと中野は説明した。変身、が返信、でないことは幸祐がすぐに確認する。さすがの幸祐も、これには面食らってどうコメントを返したものか戸惑っているようである。

「ですから、バイトの皆さんから中二病ぽいって言われるんですよね。まあ、仕方がないところです。何でしたら、今試してみますか?テスト用のスマホとIDがありますから。」

 幸祐と佳弥は顔を見合わせた。正確に言うならば、幸祐が一方的に佳弥に視線を合わせてきた。どうする、とその眼が問いかけてきているが、佳弥は無視した。

 中野は二人が何も言わないうちに、席を立ってテスト用のスマホを取りに行った。

「おい、君、やってみる?」

 幸祐が佳弥に小声で尋ねた。挨拶も無いうちに「おい、キミ」呼ばわりは無かろう、と佳弥は感じるが、年上だし仕方がないと諦める。初対面なら、長幼の序は大切に。

「いいえ。薄気味悪いのでやりません。」

「じゃ、俺やってみて良いかな。」

佳弥はそこでやっと幸祐の方を向き、その顔をまじまじと眺めた。やってみたくてたまらない、と大書してある。うずうずしている。二重のくっきりした目が輝いている。

 何だこいつ、と佳弥は引く。目に暗いベールが降り、あからさまな警戒心を幸祐に見せる。

「好きにしてください。私は遠慮しますから。」

低めの声で冷たく佳弥は言い放った。

 そこで中野がスマホを二台手に持ってやってきた。器用に両手で同時に操作して、アプリを立ち上げてから幸祐と佳弥に手渡す。

「使い方は簡単です。変身のボタンをタップすれば完了です。」

「掛け声とかポーズは?」

「ははは、それはお好みに応じて、ですね。大方のバイトさんは人知れず静かに変身するみたいですよ。私は立ち会わないので、実際どうだか分かりませんけど。」

 よし、と言って幸祐は立ち上がった。佳弥は受け取ったスマホを机に置いて、幸祐の様子を観察する。事と次第によっては、バイトをお断りすることになるだろう。

「へーん、しん、と。」

そう呟いて、幸祐は画面に出ている大きな変身マークをタップした。

 その直後、足元の影がするっと立ち上がって、暗幕のように幸祐の全身を足先から頭の上まですっぽりと包み込んだ。かと思うと、あっという間にまた元のように足元に流れ落ちて、影に戻る。少女が変身して戦うアニメのような、あるいは、特撮で変身するヒーローのような、まばゆい光や華やかな背景、あるいは賑やかなBGMは一切無い。まばたきしていたら見落としそうな、静かな一瞬である。

 しかし、幸祐の様子はすっかり変わっていた。服は全身影のような黒衣で、心なしかさっきより縮んでほっそりしている。少年のような体つきだ。それに、顔も若い。というより、幼い。もともと、二重のくりっとした目と丸い輪郭のために童顔ではあったが、若く見えるのと実際に若いのは違う。

「お、何だか服が変わった。さらさらして肌触り良いですね、これ。にしても、変身ってあっという間ですね。確かに、これにポーズ付けるのは恥ずかしいなあ。」

本人は自分の顔が見えていないので、若返りに気付いていないらしい。黒い衣装にだけ気を取られて、うきうきとしている。

 中野がまた席を立って、どこかから手鏡を持ってきた。

「大分お若くおなりですね。まあ、十五歳というところですかね。」

 渡された手鏡をのぞき込んで、幸祐はひゃっほーと大声を上げた。そればかりか、片手を高くつきあげて、跳ね回った。佳弥は思い切り顔をしかめる。小学生男児か、こいつは。

「すごいですね、この変身。若返るんだ。びっくりですよ、中野さん。これ、どういう仕組みですか。」

「そこは当社の企業秘密なので、正社員に登用されてから勉強してください。そういう道も一応ありますのでね。」

「すごい、すごすぎる。マジで中二病じゃないですか。俺、魔法少年になってしまった。」

 そこで幸祐はぴたっと佳弥を見据えた。佳弥は心底嫌そうな表情を浮かべている。それに気付いて無視しているのか、気付いていないのか、スマホを佳弥の目の前に差し出す。

「ほら、君も。」

「嫌です。あなた、見た感じ、十歳以上若返りましたよね?私がそれだけ若返ったら、幼児ですよ。」

「ああ、そこは心配要りませんよ。変身するとですね、その人の精神年齢に適合した肉体になるんです。」

 中野が横から説明を加えた。

「おたく様の場合、そうですねえ、かなり上に行かれるんではないかと思いますよ。」

佳弥をじっと眺めて、中野はにやりと笑った。

 それを聞いて、佳弥からは変身とやらを試す気が完全に失われる。かなり上って、どれくらい上か。プラス十では済まないのか。そんなババアになった自分の姿を、手鏡でとくと御覧じろと?うら若き乙女に対して、何たる屈辱。

 絶対にお断りだ。佳弥は幸祐の手ごとスマホを中野に突き返した。

「すみません、私にはこのバイトは無理そうです。」

「あー、そうですよねえ、特に女性ですと、成熟した精神の方はそうおっしゃいますなあ。ですが、勿体ない。おたく様と、こちらの方、なかなか相性が良いのですがねえ。」

「はあ?冗談じゃありません、精神年齢が十五歳のガキンチョの相手なんてしてられませんよ。」

「ガキンチョとは何だよ、君だってまだそんなもんだろ?」

 幸祐が口をとがらせる。確かに、佳弥は十六歳。一歳しか違わない。だが、女子は精神的には男子よりも概ね早熟と相場が決まっている。男子の十五歳なんて、女子の十六歳に比べたらダンゴムシのようなものだ。

「オバサンになるなんて、絶対に嫌です。」

「円熟した美女になるかもしれないじゃん、ほら、とにかくお試しだって。」

 そう言うと、幸祐は無理やり佳弥の手を取って、スマホを握らせた。佳弥が振り切る隙を与えず、そのままもう片方の手で画面に触れさせる。

 今度は、佳弥の影が音も無く伸びて、そして、すぐに縮む。やはり、ほんの一瞬の早業である。

 そうして現れた黒衣の佳弥を見て、幸祐は力なく口を半分開き、視線をさまよわせ、申し訳なさそうにうつむいた。

「…ごめんなさい。無理をさせました。俺が悪かったです。」

 素直に謝る幸祐が不気味で、佳弥はたじろいだ。自分で自分の顔は見えない。一体、いくつくらいになってしまったのか。

 そういえば、何だか腰が痛い。こんな鈍痛、初めてだ。目もかすむ。目をこすろうとして手を上げて、視界に入った手の甲のしわと染みに佳弥は絶句した。キャー、とか黄色い悲鳴を上げなかった自分を褒めたい、と思う冷静な自分も心の中にいるが、残りの半分は思う存分キャーと叫びたくてたまらない。無邪気に叫んだら、少しはスッとしただろうに。こういうときは、自分の分別が邪魔臭い。

 手鏡を見るのは怖い。やめておこう。きっと、これは相当の加齢だ。傷口を抉る必要はない。どうせ、このバイトはしないのだ。

「中野さん、この私の推定年齢はいくつですか。」

手の甲を見つめたまま、地面に落ちた泥のように落ち着いた声で佳弥は尋ねた。

「そうですね、四十五くらいですね。お見事です。その実年齢で、そこまで精神が老成しているとは。大したもんですよ。」

「分かりました。ではこのバイトは辞退します。」

佳弥は手の中のスマホの画面を見た。さっきは変身のボタンが出ていたが、同じ場所に解除のボタンが出ている。これを押せば良いのだろうと目星をつけて、静かにタップすると、案の定影が伸び縮みした。手の甲を確認すると、十六歳にふさわしい、つるりとしたもち肌が戻ってきていた。

 佳弥は大きく息を吐いた。自分は約三十年後、あの手の持ち主になるのだ。まあ、それは仕方がない。誰だって歳を取るし、歳を取れば体は衰える。だが、一瞬で、十代の残りも、二十代も三十代もすっ飛ばして、いきなり四十五歳は嫌だ。受け容れられるものか。断固、拒否。

 佳弥はスマホを机に置き、バッグを持って立ち上がった。幸祐はまだ黒衣の十五歳のまま、うなだれている。そうやって申し訳なさそうにされるのが、余計に腹立たしい。自分は若返って喜んで、他人には辱めを与えて。こんちくしょう、とまだ名も知らぬこのアンポンタレを憎く感じる。行きがけの駄賃に、張り倒していってやろうかしら。佳弥は腕に力を込めて、幸祐を睨みつけた。いやしかし、と思い留まる。一応年上だし、初対面だし、知らずにやったことではあるし。でも、殴りたい。

 逡巡する佳弥に睨まれて、幸祐は顔を上げて目をぱちぱちとしばたかせた。手に持ったままのスマホをタップして、さらっと変身を解く。実年齢相応の外見に戻ると、幸祐は突然にこりと笑った。

「君、歳取っても綺麗だったな。今とは別人、って感じじゃなかったよ。」

「それは、私の外観が現在既に老けているっていうことですか?」

佳弥は拳を握り締めた。やっぱりぶん殴ってから帰ろう。

「違う違う。綺麗に年齢を重ねる人っているじゃん。女優さんとか。そういう感じ。俺は良いと思ったよ、君の三十年後。」

ほう、と佳弥はほんの少しだけ感心したように呟いた。そして、握りしめていた拳を解き、手を開いて、そのまま全身の力を込めて幸祐の頬を平手で張った。ぱあん、と軽快な音がオフィス全体に響き渡る。

 佳弥はすうっと目をすがめて、呆然としている幸祐を見遣った。

「三十年後を褒められて、喜ぶと思ったか。女子高生なめんな、おっさん。」

冷え冷えとした声で言い捨てて、佳弥は幸祐と中野に背を向けた。どんなからくりだか知らないが、精神年齢が四十五歳だとか、年取るとあんな干からびた手になるとか、腰痛持ちになるとか、無礼にもほどがあるではないか。むかっ腹が収まらない。とっとと帰るべし。

「まあ、お待ちなさいな、お嬢さん。」

 中野がのんびりと声を掛けた。中野にもムカついてはいるが、幸祐ほどではないので、一応佳弥は振り向いてやった。

「やはり、かなりの適性がありますよ。どうです、お仕事?」

「お断りしましたよね、さっき。聞いていましたか?」

「聞いていましたよ。でもね、おたく様にとっても悪い話じゃないはずですよ。」

佳弥はデイパックを肩に掛け直した。バイトとしての待遇が悪くないことは分かったが、あんな変身をさせられるのは御免だ。悪い話以外の何物でもない。とはいえ、中野も仕事で言っているのだろうから、無視するのも失礼だ。もう一言だけ話を聞いて、それから帰ろうと決めた。

「変身後の年齢は、その時々の精神年齢を反映します。つまり、おたく様の心が若くなれば、変身後の姿も若返るわけです。心が老けているのが気になるのであれば、心を若くするように努めればいい。変身すれば、その努力の成果を分かりやすい形で自己点検することができるんですよ。」

「じゃあ、このバイトのことは心が若くなった後で考えます。失礼します。」

 身もふたもない返答をして、佳弥は軽くお辞儀をした。これで、この怪しい会社ともお別れである。二度と来るものか。

 その手を幸祐がぐっと掴んだ。

「待てよ。折角だから一緒にやろうよ。」

凍てつく波動とともに、佳弥は幸祐に視線を向ける。

「あなたのバイトに私は関係ないでしょう。勝手に一人で楽しんでください。」

「いや、俺も君と相性がいい気がするんだ。」

「女子高生の手を握ったまま下らない口説き文句をほざいて、タダで済むと思っているんですか。お金取りますよ。」

「だって、離すと帰っちゃうだろ。文句あるなら、タピオカくらいなら後でおごるよ。」

こいつもカエルの卵信奉者か。佳弥の視線の温度が更に二十度くらい下がった。タピオカと言えば女子が軒並み食いつくだろうという軽薄な考えが、一層不愉快だ。佳弥はいわゆる女子力なるものが自分にはさほど芳醇に備わっていないことくらい了承しているが、それでも明け透けに下心を丸出しにされたら警戒する程度に女子ではある。

「私はあなたが嫌いです。相性が良いはずがありません。手を放してください、この破廉恥下衆野郎。」

「安心してよ、君が若い女の子だからっていう理由で誘ってるわけじゃないから。」

「じゃあ、何なんですか。相性なんて一方的に言われても信じませんよ。」

「君、正直で真面目じゃん。それって、仕事の相棒としては最高の資質だろ?」

 幸祐は人懐っこい笑みを浮かべた。悔しいが、心の年齢四十五歳の佳弥には真似できない表情だ。ずるい、と佳弥は少し羨んで、口をつぐんだ。

「そういうわけでしたら、お二方とも採用ということで良いですかね。」

 佳弥が怯んだ隙に、中野は雇用契約書と労働条件通知書をファイルから取り出した。どういうわけだ、と佳弥が突っ込みを入れる間も無い。ペン立てからボールペンを二本取り出して、さあ署名しろと言わんばかりに二人に差し出す。

「履歴書などの書類は後日の提出で結構です。当社に必要な資質は、拝見すれば概ね分かりますので。それと、勤務条件で不明な点があれば、今のうちに質問しておいてください。」

「副業でも大丈夫ですよね?」

「もちろんです。ああ、他のお仕事の方で兼業禁止であるかどうかは、ご自分で職場に確認してくださいね。」

「それなら、頑張って許可は取ってきました。」

 佳弥の手を掴んで離さないまま、幸祐は労働条件通知書を読み、雇用契約書にサインした。精神年齢がガキである割には、整った字を書く。

「ほら、君も。」

そう言って、またにっこりと笑う。佳弥が叩いた頬は赤くなっているが、それを気にしている素振りは無い。

 佳弥はぶうとふくれて、幸祐の手を振り払った。

「君って呼ぶの、やめてください。私には竹本佳弥っていう名前がありますから。」

佳弥はやけくそで、雇用契約書に名前を書きなぐった。将来に役立つからと、硬筆は小さい頃からしっかり修練してきたので、乱暴に書いてもさして字が崩れなくて、自分でムカつく。クソ真面目か。

「俺、幸祐。市川幸祐。よろしくな、佳弥ちゃん。」

差し出された手を握ることなく、佳弥は制服のポケットに両手を突っ込んで拒絶の意を示した。

「ちゃん付けで呼ばないでください。気持ち悪いです。」

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