夜にけぶる

よいち

夜にけぶる

 虫が寄ってくるかもしれないと思い、部屋の電気を消した。

 薄いオレンジのチェックの柄がプリントされたスリッパを足に引っ掛ける。ベランダに出ると、夏の暑さなど感じられないような、寧ろ少し肌寒いほどの生ぬるい風が肌を撫でる。

 もう残暑とは言えないのかもしれない。鈴虫がうぃんうぃんと耳朶を打つ。心地よい鳴き声だ。それを壊さないように、付けたイヤホンからはしっとりめの音楽を流そう。そう、少し昔のバンド。もうこの世界に居ない人の歌を。癖になる歌声を。

 納得する一曲を探し当てて煙草をポケットから取り出す。パジャマ代わりに着ているジャージは高校時代のものだ。

 手のひらサイズの箱から煙草を一本取り出し口に咥える。黄緑色の百円ライターの火を付けた。ゆっくりと息を吸い込む。紫煙が口を占める。息を吐き出せば煙が顔の周りを怠慢な動きで流れていく。

 外国製の煙草。いつか友人が吸っていたものだ。あの時の甘い匂いが忘れられないで、探していたあの煙草だ。しかし、思い出補正だったのか、思ったより甘い匂いもしないし味も甘くなかった。

 音楽に身をもたげながらベランダの向こうを眺める。もうすぐ日付を超える。街灯の周りには羽虫がたかっているのが見えた。時々車やバイク、自転車が通り過ぎていく。向こうからも私が見えているのかもしれない。どこへ行くのか、軽装をした男女が河川敷を歩いていくのが見える。

 空はうっすら紫がかっているようにも見えた。月も星も見えないような夜空だった。雲が空を隠しているのだろうか。

 弟の部屋の明かりがついた。寝ていると思ったので驚く。ベランダにいるのが見つかってしまうだろうか。少しドキドキしながら煙草を一本吸い終える。

 果たして、何事もなく弟の部屋の明かりがふっと消える。安心したような、なんだか寂しいような。二本目を箱から取り出す。

 私を知る家族や、友人や、バイト先の人、きっと誰も私が煙草を吸っているとは思わないだろう。そんなものに手を出すような人には見えないだろう。

 大人しくて、優しくて、波風を立てないような、真面目な子。多分、そう。それが私だ。変わろうにも変われない私だ。変わろうとも思わない、私。

 だから、こうやって煙草を吸いたくなる。

 貴様らは私の何を知っている。私がどんな人間か、理解しているつもりにでもなっていたか。そんなの全部嘘っぱちだ。全部、全部、ぜんぶ。嘘を信じて満足してればいい。

 私はこうすることでしが自分を保てない。人の中に溶け込んで、その輪郭が曖昧になり、地球のどこかにいる誰かになってしまうその瞬間から抜け出すにはコレしか思い浮かばなかった。

 空しいと言われようが、こんなことで自分を見失わないでいられるなら安いものだ。

 煙草の火がちりとその身を削り短くなっていく。肺が煙で満たされる度に私は死に近づく。

 夜が更けると共に、私は死んでいく。少しずつ。確実に。

 三本目の煙草を吸い終えても、河川敷を歩いて行った男女は帰って来なかった。

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夜にけぶる よいち @yosame_hiiragi

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