最終章 秦の愁天武 天に在って願わくば①

 2

「天武さま。見えて来ましたわ。あれが崑崙山ですのよ」

 花芯が聳える山を見つめて嬉しそうに告げた。

「懐かしいですわ。私、香桜にここに囚われましたのよ! 思い出しても苛々しますわ」

 馳道を通り抜け、四輪車は他人目を避けて進んでいる。

統一した土地は手に負えないまでに膨れ上がり、人民を把握する術はない。

 残るは恐怖政治だが、秦の忠臣たちは、こぞって反対した。

 元々、政治などには興味がなかったはずが、いつしか王として動かされていたような気さええする。

 七国統一から十年は穏やかに過ぎた。途中で慣老が寿命を迎え、子もすくすくと育ち、天武は可愛がった。

 しかし、問題は翌年に起こった。

『太子さまへの教育係が必要でございますな』という李逵を始めとする重臣たちのほんの一言が、殷徳に伝わり、元々燕の太子と婚姻していた未亡人は、すぐさま手を打った。

「太子を導くには、太子であった者が適任」と、あろうことか、殷徳妃が我が子の教官にと連れてきたのは、あの姫傑であった。

 姫傑は一命を取り留め、宦官に成り代わり、豹変していた。

落ち着いた、物静かな宦官の長、地位を太監と言うらしいが、殷徳の夫代わりにずっと阿房宮の宦官として、息を潜めていた。

 確かに、これほどの適任はおらぬだろう。

 太子とは、国のすべてを受け継ぐものであり、当然のことながら敵国の状勢も把握しなければならない。その上で、王が死ねば、即、動く必要があり、常に危険に晒される。

(あやつは普通に〝殷徳妃の直下、趙皇、元の名を姫傑でございます〟と言うたな……)

 生きているとは思わなかった。それも、牙を捥がれたかのように大人しい態度にも驚いた。淑妃に置いた西蘭も驚いていたのを思い出す。

 西蘭は西姫と名を変え、庚氏の取りなしもあり、貴妃として後宮に押し込めた。

 不思議な魅力があり、いつしか淑妃として名を連ね、捕えて三年後に同衾し、天武の子供を身ごもっている。

 だが、生まれると、子供は毒殺されてしまった。西蘭は再び天武の種だけを欲しがった。

「あんたを抱いていると、落ち着くんだ……」牀榻で何度もまぐわっている内、年を重ねるごと、双方への恨みはなくなった。

否、巡遊を果たし、花芯と交わると、怒りが消えていると気付いたのは、ほんの五年前。ちょうど信宮の建設を終え、すべての宮を天道で繋ぎ、更に巨大宮殿〝阿房宮〟の建設が始まった。陵墓もほぼ、第一段階の建設を終え、秦の長城も完成間近。

通貨も、車軌も、統一を終えた。地方の集権制度も、県を制定し、成し遂げている。

むろん、戦いは少なくはなかった。

天武は四十路を大きく超え、子の天亥は十七歳となる。もうじき元服だが、父の出番はないらしい。

 知らぬうちに天亥は姫傑が気に入ったらしく、父である天武よりも懐いていた。

面白くないところへ、楚の決起と斉からの匈奴の急襲。秦は戦いを余儀なくされる。

 人員と食糧を最前線へ送り、斉を徹底的に滅ぼすつもりが、和平となった。

 結局、完全なる滅亡を迎えた国は楚と趙。斉については、匈奴の猛攻勢により、奪還は叶わず、領土の一つを許してしまい、秦軍の痛手は大きかった。

(こんな時に陸睦がおれば……香桜がおれば)と何度なく思い、日々を過ごしたことか。

 天武に残されたのは、花芯と共に仙人の地を巡る巡遊だけだ。

 行く場所に石碑を建て、証とする。

 仙薬があると騙した方士は、片っ端から処分した。そうすると、今度は情報が流れてこない。

 花芯も、妙齢の美女になった。淑妃・西姫が表に出られぬ立場な以上、庚氏の信頼を得て、花芯は堂々と天武に寄り添う権利を与えられている。

 天武を乗せた四輪車が静かに止まり、たた、と変わらぬ身軽さの花芯が天武に駆け寄った。

「ここが、崑崙山……霧が深いな」

 天武は短く切った髪を揺らし、周辺を見回す。

(だが、終焉を迎えるに、相応しい山ではあるな)

 秦の朝議には普通に参加し、何食わぬ顔で、崑崙に向かう。秦の連中は、天武の思惑など、読めぬだろう。

 誰も、自分の傷など理解できはしないのだ。傷つけた者どもに、最期など見せるものか。

「その体で登るのは、無理ですわ」

 心配し続ける花芯の手を掴み、天武は微笑んだ。

「どうしても、来たかったのだよ、済まない。まだまだ体は動くし、戦いにも出向ける。しかし、日ごとに衰えを感じ始めたのも事実だ。しかし、庚氏のヤツ……「なら、行けば宜しいわ」と冷たく言いおった」

 花芯は無言になった。

 天武はふと、若い頃の花芯とのやり取りを思い出した。

(何か言いかけていなかったか?)

 花芯は貴妃服を引っかけないように、山地を歩いていた。どうして動けるのか、言葉にし難い恐ろしさと、霊気が充満している。

 ――荊軻の骸を擲ったのは、燕山か崋山のほうだったか。

 笑いを零した天武に、花芯が首を傾げて見せた。

「いや、随分と殺したな……と思うてな」

「同じくらい、天武さまは愛しましたわ」

 ――また不可解な言葉を使ってきた。花芯はことあるごとに、愛していると使う。

「私は知っていますわ。天武さまは、本当はお優しいのよ」

「やめぬか」

「いいえ、やめませんわ」と変わらぬ気丈さで、花芯は言い返した。

「かっこつけるのも、ここまでですわよ」

 言い飽きたが、花芯の言葉はいまいち理解し難い。そう言えば、逆に翠蝶華の言葉は瞬時に理解できた。

 ――どこで何をしているのか。もしかすると、あの憎き劉剥と共に行ったのかも知れぬな……。

 むっと、花芯の頬が膨らんだ。

「おまえ、いくつになっても、表情が変わらぬ。樽に入れて、ゴロゴロやるぞ」

「ぐ……そ、そんな言葉には、惑わされません! 卜占術師を甘く見ないでください、ですわ。天武さま、どうして、巡遊の目的を偽りますの? 言えば宜しいのよ。仙人探しなどではなく、豊穣と皆の泰平のために、身を削っていると。秦以外の国の反感を買うことはありません」

眼を向けた天武に気付き、「何ですの」と花芯が頬を赤らめた。

「賢くなったな、おまえも」

「誤魔化さないで! 翠蝶華さまも言ってらしたわ。『天武は、どうしても悪鬼になろうとする』って。もういいの、もう休んでいいの……」

 はは、と軽い笑いを零し、天武は花芯の手をしっかりと握った。

 とても頂上には行けまい、と、足を止めた。それでも、山麓からは、雄大な風景が見て取れた。

 美しく流れる渭水に、山脈の逞しい姿。

 合間の空は青いが、秋の色を滲ませ、雲は綿菓子のように、優しく伸びて拡がっていた。白銀の靄は紅葉の始まった木々に覆い被さり、人の入れぬ源林の匂いがする。

 すべてに黄金の光が注がれ、花芯の髪を蜂蜜色に染めて輝く。

 辿り着いた華清池

「休む、か……そうだな。永遠は確かに、この手にあるのだろう」

 遠く、雄大に命を今も産み出している黄河を想う。

 今こそ、問いたい。

〝私は、未来を拓けたか?〟

「ふん、答など、ありはしないがな」

 花芯の柔らかい腕が、天武を囲った。

「お伝えしなければならないことがありますわ……よく、お聞きになって」

 天武はゆっくりと顔を上げた。花芯の涙溢れる瞳に視線が釘付けになった。もう潮時だろう。天武は花芯の髪を撫でた。

「さすがの私も、冥土の土産に、絶望を連れ行くなどは、嫌だがな」

「ご存じでしたの……」

 天武は変わらぬ皮肉を返す。

「おまえの隠し事が下手な性質は、とうに見抜いておるわ。すでに手は打った。私が戻らなくば、庚氏と殷徳は処刑されるであろう。長年、太子を謀った罪は死であろうからな。心を許せる者どもに言い聞かせた。庚氏には、西蘭の子供を殺した疑いもある。殷徳妃は悪業が多すぎた」

 天武はきっぱりと言い切り、ふ、と笑った。

「しかし、美しいな。こんなにも美しい世界を、私は生きたのだな」

 片腕を伸ばすと、秋風が肌に触れた。

「なぜに天界などを思い描いたのやら……」

「永遠は、誰しも求めますわよ……それは、きっと」

 花芯に寄りかかり、天武は眼を閉じた。

 様々な人々が瞼に浮かんでは、消えてゆく。

 愛おしい翠蝶華、憎き李劉剥に、叡珠羽。香桜に花芯、慣老、李逵、奔起、華陰の遊侠供。庚氏、天亥、殷徳妃……斉梁諱に妹の遥媛公主、口のきけぬ舞子。

 趙の猛者、孟黎に王の姫傑、正妃西蘭……不思議と、思い出す彼らはすべて優しい笑みを浮かべている。

 たくさんの過ぎた人影の中から、ゆっくりと這い出た三つの影があった。

 ――荊軻、樊於期……それに白起・陸睦だ。

 荊軻の手が差し出された。

「天武さま……お休みになりましたの?」

 花芯の声が小さく響く中、天武はただ、荊軻と見つめ合った。

 ――そなたが悪いのだ。どうして、あのとき、一言でも助けて、と言わなかったのか。お陰で、私は……っ。

「伝えたいことがある……」

 光の中の荊軻と白起は、静かに頷いた。

 天武は手をついて、ようやく、涙を落とした。

 休めなかった元凶の罪悪感が、胸を埋め尽くして、膿になった。

「そうだ……渭水の戦いでは、私は負けていた。意地を張ってしまったが……仙人に助けられた上での勝利だった」

 武将の手が優しく差し出されたまま動かない状況に気付いた。

「許す……と?」

 知的そうな瞳が、天武を見下ろしていた。

「最初から、そなたには敵わぬな。荊軻」

 天武の髪は、若かった頃のように溌剌と伸び、瞳は一瞬きらっと輝きを増して行く。

 まるで懺悔を受け取るかのように、荊軻と樊於期、陸睦の姿は消え、様々な人々が通り過ぎた。

(花芯、知っていた。庚氏の腹の子が誰のものであるか――……それでも、私は子を殺せなかった。殺せなかった以上、愛するしかあるまい)

 天亥は、途中から気付いたのだろう。いや、殷徳と姫傑が日々、追い詰めたのだ。

 それでも、父と呼び、慕ってくれた。庚氏も、迷いながらも、日々を送っているのは知っていた。

 ただ、庚氏は珠羽を愛しすぎただけで。

 ――死ぬ時は、野垂れ死にだと覚悟していたのだがな。

 天武は変わらず覗き込む仙女の顔を、ただ、見つめるばかり。

(永遠か……私も、永遠で在りたかった――天に在って願わくば……)

 天武は眼を閉じ、再び開いた。体が重いのは、仙人になれると信じ、口にし続けた秘薬であろう。

 瞼が重い。ようやく、休める。

 天武は静かに眼を閉じる。

 ――私は、精一杯、生きたのだと……私の死を持って、この世界が平和であればいい。

 大切なものを大切と言う、そんな権利など持ち合わせておらぬから――。

(私は、この世界を愛していた……死を恐れるほど、この世界が好きであったのだ)

 ふと、意識が途絶える瞬間、宙に浮かび、天武を見下ろす存在に気がついた。

「そなた……やはり……」

 悠か過去に別れた笛吹きの表情。龍が舞い上がって彼の者に従う様は、羨ましかった。

「私は、仙人になるのだ……そうして、永遠に、この世界を……」

 大きな天剣が、夕日を反射して光った。

『ご苦労だった、愁天武よ』

 声が響いて、世界は閉じた。

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