燕の桃花蓮 古来より、女性は花、舞う蝶は男

 しかし翠蝶華の連行を兵士に命じてから、一刻後。

 天武は怒り紛れに、再び皇宮を出、庭を横切り、永巷への回廊を進んでいた。

兵士たちは貴妃を連れて来られなかった。「それでも秦の私の兵か」と怒鳴りつけてやったが、見れば頬に赤い引っ掻き傷。


 まさかと思い、訊ねてみると、翠蝶の仕業であった。


「私は無理強いが嫌いですの。用事があるならば、出向きなさいと伝えるがいいわ!」


 強気な翠蝶華は高飛車でありながらも、毅然とした響きを伴って兵士に言い返した。その上、更に翠蝶華は背中を向けてしまい、屈強な男が強引に連れ出そうものなら、短剣を構えて、見事に舞ったという。


 見た者は、しきりに「赤い蝶」と口にしていた。だが、蝶とは普段は男性を示すものだ。古来より、女性は花、舞う蝶は男の代名詞である。


 ――剣舞の使い手だと言っていたな。


 漢の女は皆、ああも闊達なのだろうか……と天武は、とうとう腰を上げたのだ。

 ついでに、完成したばかりの後宮と繋がれた回廊を点検することにした。


 後宮と皇宮の間取りは、敢えて同じに仕立てた。まるで番(つがい)のように、二つの宮は並んで建てられているが、現したいものを上手く表現できなかったのは明らかだ。


 二つの宮は、気をつけて設計したにも拘わらず、完成度は全く異なってしまっている。これでは駄目だと、天武は落胆する。設計を思いついたときに広げた想像の翼は、どうやっても上手くはためかない。


表現したいものは、こんな小さな世界ではなかった。それには、資金が要る。今回は燕や韓の残り財産を上手く使用できたが、渭水の畔に計画している宮殿を作るには、相当の資金と、労力が必要だ。


 やがて辿り着いた永巷は、陽が落ちれば暗く、死霊がざわめく。当然ながら、女が二晩も過ごす場所ではない。


 地下に下りるための階段にいる牢番から鍵を受け取り、翠蝶が選んだ牢の前に立った。微かに女が動く気配。天武はある一点に向けて、嘲りのような声を響かせた。


「居心地は、どうだ。快適だろう」


 格子に寄りかかるようにして、翠蝶は腕を抱え、気だるげに天武を睨んでいる。暗がりに二つの瞳が浮かび上がるかのように、煌めいた。



「兵士たちを、随分と手酷く追い払ってくれたようだな」

「短剣を振り回しただけですわ」


「ほう。私にも、是非とも見せて貰いたいものだ。そなたの舞う姿に、興味がある」


 翠蝶が眼を見開いた。格子に掛けられた指に乱暴に手を乗せ、強く掴んだ。


「格子越しに見つめ合うのも、やがて飽きる。そなたが出ないなら、私が行くか」

「天武さま! 王が牢に入ろうなどと、聞いたことがございません」


 制止しようとする兵を手で抑え、天武はにやりと眼を細めた。翠蝶は、また見た覚えのない表情だ。驚きつつ、愉しんでいるような、そんな表情。


頬を赤らめ、扇子で口元を覆って、爪先をとんとんと打ち付ける。さすがに参ったかと思えば、鍵の開いた扉を自分で開いて、天武を迎え入れて見せた。


「ようこそ。秦の王のお部屋は寒々しくて、何もご用意できませんけれど、ゆるりと参られるが宜しいでしょう」


 今度は天武が眼を見開いた前で、翠蝶は鳳仙花を塗った爪で唇を撫でて見せる。娼婦の仕草だ。嫌悪感がして、天武は手を振り払った。


 あら、と翠蝶の手が止まる。顔を背けて天武は呟いた。


「すまぬ。触れられるのは嫌いだ」

「まあ。女がお嫌い?」


 天武は頭を軽く振ると、ちらりと辺りを窺った。

 翠蝶華には真っ向勝負をさせる気にする何かがある。


燃え滾る情熱は、常に紅の衣装に現れており、いつでも瞳は何かを封じ込めたように強い耀を反している。


「ずっとここにおったか?」

「おりましたわ。ご自分で鍵を掛けたのでは? 私はここで、ずっと女好きの李劉剥の愚か者をどう締め上げてやろうかと考えて、うきうきしておりましたから」


「そなたの言い方は、愛するものへの想いとは聞こえないな」


 翠蝶は口唇をへの字に曲げ、頬を僅かに膨らませた。


「お話するのも嫌ですわね」


 踵を返した姿に、天武は言葉を投げ掛けた。


「逢いたいとは思わないのだな」


 貴妃の肩が、僅かに震える。翠蝶は少し、俯き加減になったようだ。見え隠れする耳の飾りが、少しずつ振り幅を大きくした。


 聞きたい内容は、本当は違う。天武は翠蝶を尋問するつもりだった。漢の間諜の可能性がある。それであれば、貴妃を殺す理由も分かるのだ。


 実際に後宮では、貴妃が死んで行っている。原因は分からぬままだ。もしや、燕の怨霊が跋扈しているのか。

 だが、天武の唇は、全く想定しない言葉を弾き出してゆく。


「素直になれば良いものを」

「……っ…」


 右手に短剣を構えた翠蝶が振り向いた。一瞬、避けきれず、天武の髪がぱらりと落ちた。


剣を抜いたとして、狭い牢で翠蝶を刺さずに牽制できる自信はない。暗がりの中で、一筋、光が走った。黄金色の光を頼りに、天武は手套を食らわす。


「痛い…っ」


 声がして、カランと短剣が冷たい石牢に打ち付けられ、靜かになった。


「すまぬ。本気を出してしま……」


 かっとなった瞳が、天武を捉える。


 頬に振り翳される瞬間、天武は翠蝶の細い手首を掴み上げた。シャランと幾重にも巻いた腕の飾りが音を立てた。


「莫迦」


 ……もう何を言われても驚くつもりはない。だが、莫迦……。


涙目の瞳を見つけ、天武は手を緩めた。


「怖がらせたか」

「別に、怖くなんかありませんわ」


 乱れた衣服を片手で手早く直すと、翠蝶は顔を顰めた。


 掴まれた手が痛むのだろう。だが、手を離せば、恐らく頬に平手が舞う。こちらも死活問題だ。そもそも、秦の王たる男が、やすやすと唾吐きを許した。これ以上、虚仮にされる理由はない。

 暗がりでは、どうにも表情が窺えない。天武は翠蝶の手を引き、階段を駆け上がった。


「泣かせた詫びだ」


 今宵は仲秋。見事に円になった満月が、庭園を照らしている。後宮の庭に繋がる回廊を歩き、天武は足を止めた。


 夜空を彩る噴水から溢れた水飛沫。地下水脈を持ち上げ、勢いのままに地上に顔を出した水の遊戯だ。燕の後宮にあったものを真似たが、規模はもっと大きくした。


 渭水の水音はなんと清らかに響くのだろうーー……。


「大水法というらしい。水勢のなせる技とでも言おうか」


天武の誇らしげな言葉に、翠蝶の目は、初めて尊敬の眼差しに変化した。


「月に輝いて、何て水が美しいの。跳ねた水飛沫が宝玉のよう」


 翠蝶は赤く染めた睫を震えさせて、天武を見上げた。 


「貴妃がお亡くなりになりましたの?」

「なぜ、それを」


 翠蝶は、ふん、と顎を反らせて、牢番を見やった。


「先程、聞いただけですわ。ここにいますとね、勝手に情報が流れてくるのですわ。何やら、王が妃嬪に迫られて、狼狽している……とかね」


「くだらぬことを吹き込む莫迦は、誰だ。斬る」


「まあ、罪のない笛吹きまでもを殺すのね。お可哀想」



 ――香桜か。



 燕で見つけた笛吹きは、香桜という。秦の皇宮に居着いた一風変わった男である。


「酷いね、っていいながら、一曲、聴かせてくれましたのよ。素晴らしい音色でしたわ」


 うっとりと言った翠蝶の手を引くと、天武は一気に引き寄せた。小さな肩を胸板に近づけて、髪を撫でる。

 驚いたのは翠蝶も同じのようだ。眼を見開いて、睫を揺らして天武を見上げている。


「そなたの李劉剥とやらを、見つけ出してやろう」


 翠蝶が天武の心を読んだかのように、呟く。


「卑怯ですわ……」


(言うと思ったよ)


 心は読ませないつもりだったが、翠蝶に看破されるなら、許せる。


「そなたの探し人をここに連れて来たら、後宮に入れ。翠蝶華妃として、私に仕えよ」

「嫌ですわ」


「私は、言葉を違えぬ。必ずや、そなたの想い人を探してやろう」


 つうと翠蝶の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。だが、翠蝶は自らの手で滴を拭って天武の手を振りほどく。


「施しは私の性に合いませんの。……後宮には行きますわ。ただし、貴妃など、真っ平。私は剣舞の宮妓ですし、後宮の貴妃たちの眼を愉しませることで手を打ちますわ」


 翠蝶は初めて、縋るような瞳を向けた。


「それと、漢をお守り下さいませ。まだまだ楚に比べれば、矮小な町でありましょう。秦の足下にも及びませんわ。甘く見ていると、痛いメに遭いましてよ。弱きものを護るからこそ、王と名乗れるのですわ」


 二人の視界に同じように互いが映る。奇妙な感覚が天武を襲った。翠蝶は艶めかしく、空に両手を掲げてみせる。


 ――何という自由な女だ……。夜すらも操っているように見える。


「笛の音ですわね」


 遠くから響く笛の音に、翠蝶が気付いた。天武も同時に遠くを見やる。

 笛の音は少しずつ大きくなってゆく。遠くから濃紺の上襦が翻るのが視界に飛び込んだ。艶やかな衣装は、やはり秦のものではない。


(では、何処だ……得体の知れない趙の国か)


 横笛を構えた指には、いくつもの環が填められている。月光を跳ね返し、あたかも星屑が指先で遊ぶような、幻想を醸し出す。香桜の持つ独特の雰囲気は、夜空に近い。


「お楽しみのところ、失礼致しますよ」


 一言、断って香桜は笛を胸元に仕舞い、天武の足下に膝をついた。


「後宮におられる殷徳妃が、待ちかねている様子でございますが」


「すぐに行くと伝えよ。翠蝶華を女官部屋に案内してやって欲しいのだが」


 天武の一言に、香桜は翠蝶の手を取った。翠蝶華はおとなしく歩いて行った。

消えてゆく二人を見送り、天武は背中を向けた。



 貴妃たちが死に絶えてゆくのかはどうしても、謎であった。

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