観察■記録NO.003■

『○月☆日・雨のち雨

「村町さん、村町さん……」

 看護師さんの呼び声がして、私はベッドの中で目を覚ましました。──と言っても、どうやら、それは私に対する呼び掛けではないようです。

 その声はカーテンの向こう側──隣りのベッドスペースから聞こえてきました。

 もしも私に用があるのなら、こちら側に呼び掛けてくることでしょう。

「村町さん。おはようございます」

 寝起きでまだ頭がはっきりとしていない私は、何故だかそれを自分に対する呼び掛けだと勘違いしました。

 そもそも私の苗字は『村町』なのですから、『村町さん』と呼び掛けられれば答えない訳にもいきません。この病院には──少なくともこの病室には、『村町』という名前の患者さんは私意外には居ないのでありますから。

 お隣さんは魚魚さんでありますし、私の名前は村町なのです。

 看護師さんに何やら手違いがあって、私の居場所を間違えているのかもしれません。だとしたら、私の方から居場所を知らせたとしても何の問題もないでしょう。


 私はカーテンから顔を出すと、隣のブースに居る看護師さんに此処に居ることをアピールしました。

「あら、おはようございます」

 看護師さんは、私に気が付くと頭を下げてきました。

 しかしそれだけで、私のところに来る気配はありません。

「村町さん、行きましょう」

 尚も、看護師さんは隣のベッドに向かってそう呼び掛けていました。

「ちょっと待って下さい!」

 私は何やら嫌な予感がしたので、隣のベッドに居る人物を連れて行こうとする看護師さんを呼び止めました。

 その人物こそ──本来の、私のベッドであるところに居座っている『魚魚さん』なのでありますから、これを見過ごすわけにはいきません。


 魚魚さんは看護師さんに腕を引っ張られたので布団から這い出ました。

——すると、その異様な格好が露わとなりました。

 病院のパジャマ着などではなく、魚魚さんは女性物のワンピースにシャツを羽織り、下はピンク色のフリフリのスカートを履いていたのです。それらはいずれも、私のお気に入りの洋服オシャレでありました。

 棚の中に畳んで入れてあったのに、魚魚さんが勝手に取り出して袖を通したようです。

 私と大人の男性である魚魚さんとでは体格差があるので、サイズが全くあっておりません。無理矢理に着ているので布は最大にまで引き伸ばされ、ピチピチでホックが今にも弾け飛びそうでした。

 魚魚さんの異様な格好に、私は思わず言葉を失ってしまいます。

 そんな格好でありましたが、魚魚さんは毛程も恥ずかしさを見せる様子はありませんでした。むしろ、誇らしく堂々と胸を張るくらいでありました。

「ギョギョギョギョ!」

 とても満足そうに、魚魚さんは甲高い声を上げるのでした。

 私は呆れてしまいましたが、それよりもこの看護師さんの誤解を解くことの方が最優先に思いました。そこで私は、看護師さんに恐る恐る声を掛けました。

「あの……今、村町さんって言いましたよね?」

「ええ。先生がお呼びだったので、診察室に行くところです」

 看護師さんはそう言いつつ、何の疑いもなく魚魚さんの手を取りました。

 私は慌てて看護師さんを制止します。

「ちょっと待って下さいって!」

 歩き出そうとする看護師さんの前に立って道を塞ぐと、私は声を上げました。

 看護師さんはどことなく不機嫌そうな顔になると、私を睨みました。

「何か?」

「村町は、私ですけど……」

「はぁ……そうですか。貴方は村町さんっていうんですか」

 看護師さんは気怠そうに言いました。

「それは、良かったですね。貴方が村町さんだということを、誰かに知ってもらえて良かったですね。おめでとう」

 そして、看護師さんは心無い拍手をパチパチと送ってきました。

「いや、あの……。ですから、先生に呼ばれた村町は私なんじゃないかと思いまして……」

「どうしてそう思うのかしら?」

 途端に、看護師さんの眉がピクリと吊り上がりました。表情がかなり怒ったようになったので、私は思わずたじろいでしまいます。

「だって、先生は『村町』をお呼びなのでしょう? 先日、検査をしましたから、そろそろその結果を教えて貰える筈ですから……」

「貴方に用があるなら、貴方を呼ぶわよ! 私がいつ、貴方を呼んだっていうの!?」

 看護師さんがヒステリーを起こして怒鳴りました。

 私は怯えつつも「いえ。でも、村町とお呼びになられましたから……」と、搾り出すようなか細い声で答えました。

「貴方の名前が村町さんだったとして、先生が呼んでいる村町さんが貴方だとは、限らないじゃないの!」

 金切り声を上げながら看護師さんは早口に叫びました。

「だって、他に村町さんなんて居ませんもの……」


「ギョ、ギョギョ!」

 突然、魚魚さんが挙手をしました。まるで、自分が村町であるかをアピールするかのように手を挙げたのです。

「来なさい!」

 怒鳴り声を上げた看護師さんに私は腕を引っ張られ、病室の外へと連れ出されてしまいました。

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