『○月□日・●●のち晴れ』
呼び出してから看護師さんが病室に到着したのは、かなり時間が経ってからでした。
こちらを待たせた割には看護師さんは不機嫌そうな顔をしていて、まるで呼び出されたことを迷惑しているかのような態度でありました。
「どうしたの?」
「あの……この人が私のベッドに居るんです」
私はベッドで横になっている魚魚さんを指差しました。
「グェッグェッ!」
魚魚さんは顔の前で両手を振って、私の言葉を否定するかのようにジェスチャーをしています。
「はぁ?」と、看護師さんは眉根に皺を寄せると、私と魚魚さんとを交互に見比べました。
次いで、看護師さんは廊下へと出て行きます。
ドアの横に部屋番号が書かれたプレートが掲示してあるので、その名前を見に行ったのです。
『五一六・魚魚』『五一七・村町』
──ええ、確かにそこにはそう書いてありました。『五一六番』が、本来私が使用しているはずの廊下側のベッドで、『五一七番』が窓側の魚魚さんのベッドです。
用意周到な魚魚さんは、私が居ない隙にプレートの位置を入れ替えていたようです。本来の位置とは逆のところにプレートが貼られてありました。
それを見た看護師さんは何ら疑問を抱かずに、私に指摘してきたのです。
「村町さんは窓側になってるわね」
「え、でも、私、さっきまでここでしたよ」
私は本来の自分のベッドを指差して、さらに抗議の声を上げました。
しかし、看護師さんは私の声を聞いてはくれませんでした。無関心に「場所なんてどちらでも構わないでしょう。こっちが埋まっているのなら、貴方があっちを使えばすべて丸くおさまるじゃないの」と、適当なことを言うのでありました。
端からこの看護師さんには、真剣に問題に取り組んでくれる気がないのでしょう。
看護師さんはそれで万事解決とばかりに手を叩くと、部屋を出て行こうとしました。
「ちょっと待って下さいよ!」
流石に納得のいかない私は、看護師さんを呼び止めました。
被害者は私なのです。無茶苦茶をやっているのは魚魚さんなのに、どうして私が折れなければならないのでしょうか。
看護師さんは顔を顰めて明らかに不快感を露わにすると、舌打ちを返してきました。
「こんなのあんまりよ!」
看護師さんの態度は悪いし魚魚さんにはベッドを乗っ取られるしで、踏んだり蹴ったりの散々であります。
私もとうとう堪忍袋の緒が切れて、思わず叫び声を上げてしまいました。
「なら、どうしろというのかしら?」
突然、看護師さんは冷ややかな口調になって尋ねてきました。
「えっ?」
「『あんまり』だから、何なの?」
頭の中を「訴えてやる!」だとか「転院してやる!」だとか、様々な文言が浮かんで回りました。でも、どれも脅し文句にしてはインパクトに欠けるような気がして、口に出すまでには至りません。
その間にも、看護師さんはかなりの剣幕で私に睨みを利かせてきました。答え方によっては怒鳴られてしまうような気がして、私は迂闊に口を開くことができなくなってしまいました。
「何をするっていうの? 何をしたいの? どうしたいの?」
看護師さんが詰め寄るように、私に一歩一歩近付いて来ました。
気迫に押された私は、反対に一歩ずつ後退っていきました。
「え、えっと……」
——私は、何も悪いことはしていません。
その気持ちだけは変わりません。それなのに、凄まじい剣幕で迫ってくる看護師さんが、私はどんどん怖くなってきました。
「全ての患者さんの意見を聞いてあげることなんて出来やしないのよ。貴方が良くたって他の人がダメなんて事なんて、いっぱいあるでしょうとも。みんなが納得できる解決策を導き出すことなんてできないわ。貴方が何をしたいのかは分からないけれど、それって単に、貴方だけが納得できる自己満足の解決方法に導きたいだけでしょう? 他の人の意思や感情、思考、思想……それらを全て蔑ろにして、それでも貴方は自分の考えを押し通すとでも言うのかしら?」
「も、もういいですっ!」
あらぬ方向に話が飛躍したので、私はついていけなくなってしまいました。
——もう限界です。
看護師さんの訳の分からない主張に私は嫌気が差しました。それ以上、何を言い返しても無駄だと悟った私は思わず口を噤んでしまいます。
全てがどうでも良くなってしまい、私は自分のベッドの中へと逃げ込みました。それは、そこに居れば誰にも責め立てられることのない、窓側のベッドであります。
布団は湿気っていて触るとヌルりとした感触がありました。それに、どことなく変な臭いがしたので、私はとても不愉快な気持ちになりました。
ですが、私にはもう此処以外には自分の居場所がないのです。
こんな理不尽な世界の中で、私は足掻くことすら許されません。
私は全てから逃げ出すように──全てを忘れられるように──ベッドの中で丸くなって、そのまま眠りに付きました。
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