『○月△日・●●時々曇り』

 天井とお隣さんとの仕切りのカーテンの隙間から、魚魚さんが顔を覗かせていました。

 シワシワの梅干しみたいな顔をした魚魚さんは分厚い唇を閉じたまま無表情に、じーっとこちらを見詰めていました。

 そんな魚魚さんと不意に目が合ったのですから、私の頭はしばらく混乱しました。

 やがて、脳細胞が魚魚さんを認識した瞬間、私は驚かずにはいられなくなったのです。

「きゃぁあああぁああっ!」

 周囲のことなどお構いなしに、私は大きく悲鳴を上げました。

 すると、ベッドを土台に立っていたであろう魚魚さんも私の悲鳴に驚いて、ピョンッと跳び上がったのです。天井との距離が余りありませんでしたから、魚魚さんは勢いのまま頭を天井に打ち付けました。

 そして、そのまま床に落下すると「ギョヘヘェェエ!」と唸りながら床を転げて、痛みに悶えたのです。


 私はとても、恐ろしくなりました。

 私が悲鳴を上げたばかりに、お隣さんが大変なことになってしまったのですから。

 これは、助けを呼ばない訳には参りません。

 すぐにベッドの側にあるナースコールに手を伸ばすと、ボタンを押しました。

 緊急事態でありますのに、看護師さんは中々応答してくれません。

 程なくして、スピーカー越しに『どうされましたか?』という気怠そうな看護師さんの声が聞こえてきました。

「えっと……」

 私は一瞬、この状況をどの様に説明したら良いものかと、言葉に詰まりました。

 まあ、しかし、この場で事細かに説明する必要はないのです。取り敢えず緊急事態であることが、看護師さんに伝われば良いのです。

「お隣りさんが大変なんです!」と、私はマイクに向かって叫びました。

『なんですって!? すぐに向かいますね!』


 それから、病院は大騒ぎになりました。

 ドタドタと看護師さんたちが廊下を走り回り、機器を運ぶ音が響きます。

 病室へと駆け込んで来たのは、一人や二人ではありません。お医者さんや看護師さんが、様々な医療機器をお隣さんのスペースへと運び込んだのです。

──ところが、それ以降は無音でした。

 私としては、テレビドラマや映画にある通りに、看護師さんたちから「しっかりして下さい!」「脈拍、低下しております」などと緊迫した声が上がったり、電気ショックで必死の心臓マッサージでも施されたりするのかと思いましたが、どうやらそんな事態にはならないようでありました。

 魚魚さんのベッドスペースを訪れた看護師さんたちは黙って、何も言葉を発しませんでした。

 カーテン越しでは、何一つ事情が分かりません。

 私は仕切りのカーテンを開けて、近くに居た看護師さんに声を掛けました。

「あの、どうでしょうか?」

 すると、看護師さんが怪訝な顔になりました。

「先程のナースコール……。あれは、何だったのかしら?」

「えっと……」

 私は魚魚さんにベッドスペースを覗かれたことや、彼が天井に頭を打ち付けていたことなどを説明しました。

 ところが、何故か看護師さんからは疑うような目で見られました。

「魚魚さんなら普通にベッドで横になっていらっしゃるけれど?」と、看護師さんが言いました。

 あんなにも盛大に頭を打ち付けたというのに、もう彼は平然としているようなのです。

──これではまるで、私が嘘吐きのようではありませんか!

「他にご用件は?」

 看護師さんが冷ややかな口調で尋ねてきました。

 私はしどろもどろにながら「あ、いえ。ないです」と返事をしました。

 看護師さんたちは異常がないことが確認できると、機器を撤収して病室から出て行きました。

──私の耳に、去り際の看護師さんたちの会話が聞こえてきました。

「イタズラはやめてもらいたいものね。こっちだって忙しいのに……」

「構ってもらいたいんじゃないの?」

「だとしたら、迷惑よね」

──そんな会話を耳にして、誰が二度とナースコールなどを押す気になれるでしょうか。

 天井を見上げると、魚魚さんがカーテンの隙間からこちらを見ていました。

 私と目が合うと、魚魚さんはニタァと笑いました。

「ひぃっ!」

 私は小さく悲鳴を上げましたが、もう彼は驚くことも引っ込むこともしません。

 何を目的にしているのか、魚魚さんは顔を覗かせてニタニタと笑うばかりであります。


 私は誰にも助けを求めることが出来ず、布団を被ってその視線を遮りました。

「ギョギョ、ギョギョギョ……」

 まるで、呪詛でも唱えるかのように、魚魚さんは何事かをブツブツと呟き続けるのでした。


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