第4話 予感



    4.予感


 チン、と電気を落とした台所に音が響いた。

 眠れずにホットミルクを用意して、蛍は二階の自室へと向かおうとした。

本家の廊下はいつも闇が覆うように薄暗く、暗がりからぬっと何かが現われても不思議ではない。そんな雰囲気だ。小さい子どものようなことを考えてしまう自分に苦笑すると、不意に人影が視界に入って、ひゃっ、と蛍は間抜けな声をあげた。

「オレだ。そんなに驚くなよ」

廊下の先にいたのは、風呂あがりの宗司だった。まだ乾かしていない髪からは、雫が伝い落ちてその肩を濡らしている。湯気が暗闇に薄く立ちのぼって見えた。

別棟にいるとばかり思って驚き過ぎてしまった。

「ごめん、宗司くんだって気づかなくて」

「オレのことは呼び捨てでいい。オレも呼び捨てにするから」

「……あ、うん」

 一方的に告げられるが、自分の方が年上だという月並みな反論もできず、蛍はもごもごと口を動かした。何だか一つ反論すると、十は返ってきそうだ。

(それに宗司くんには嫌われている気がするし)

 それも当たり前かと思い直した。逃げるように先を急ぐと、背後から声をかけられた。

「当主は皆の前でああ言ったけど、オレはおまえを認めた訳じゃないからな」

「そんなこと言われなくてもわかってる」

 思いの外、強い声で言い返してぎゅっとコップを握り込んだ。

 永峯からあの集会の後、二人きりで全てを打ち明けられた。とてもすぐには受け止めきれないことばかりで、眠れなくなったのもそのせいだ。

「私は、真耶ちゃんとは全然違うもの。姫でも何でもない、何も特別なことなんてない」

 あの場は日常とは程遠い、明らかに異質な空間だった。

 それでも真耶は堂々としていて、ただ場違いなのは蛍だけだった。

「おまえがどう思おうが、それでも当主がおまえを候補に選んだ事実は変わらない」

「それは……」

「だから、守護役の役目は別だ。役目はちゃんと果たす」

 それだけだ、と宗司は言いたいことだけ言って別棟へと戻って行った。

外は雨音が響いて、夜半にかけて雨脚は強まる一方だった。気がつけば、ベッドサイドに置いたホットミルクはすっかり冷めてしまっていた。

(ここに戻って来るんじゃなかった……)

カーテンの隙間から外を覗けば、その闇の深さに驚いた。玄関の外灯を除けば、何もかも全て飲み込んでしまいそうな空間が大きく広がっている。

東京で永峯と過ごした日々が、これまでの日常がひどく恋しくなった。知らず幾筋もの涙が頬を伝っていくのを、蛍は乱暴にパジャマの袖口で拭った。

(本家になんて帰って来なければよかった……)

 その時、不意に外から名前を呼ばれた気がした。

森の暗がりに目を凝らすと、獣の目のようなものが視界の端に映った。

(あれは……、何だろう?)

 幻を見ているのか、寝ぼけているんだろうかと我が目を疑った。

一匹の狼がそこにいた。距離はあるが、それでも確かに蛍の視線の先にいた。

けれど、狼が絶滅したと言われていることくらい蛍だって知っている。何かの見間違いかと思って目をこすると、今度は嘘のようにその姿は消えていた。

さっきあの瞳がこちらを捕らえた気がして、怖くなった蛍は窓から背を向けた。呼びかけるような遠吠えの幻聴に身を竦ませる。

薄ら寒さを感じて布団にもぐりこむと、しっかりと目を閉じた。


 あの集会があってから、はや数日が経とうとしていた。

 引越しの後片付けも一段落して、蛍の春休みも今日で終わりだ。高校入学前の課題を終わらせて、ぼんやりと部屋にこもって本を読んでいた。

 本家の屋敷には一族の人間の出入りも多い。こんな時なのに薄情にも永峯は仕事で家を空けており、出来れば今は誰とも顔を合わせたくなかった。

「蛍ちゃん、ちょっといいー?」

 仕方なくドアを開けると、そこには颯が立っていた。「あ、今日は宗司はいないよ」

 蛍の表情一つで、心を読まれているのかと思うほどだ。

「せっかくだから、もうちょっとこの街を知ってもらおうと思って」

 これはデートのお誘い、とにこやかな笑顔だった。相手の心の隙間にするりと入って来るような、そんな笑顔だ。わずかに心は揺れたが、それでも蛍は答えを渋った。

「……でも、今日はちょっと」

「まあまあ、そう言わずに、気分が変わった方がいいよ」

「え、ちょ、ちょっと、待って」

「ほら、早く早く」

 五分で出掛ける準備をさせられ、背中を押されるようにして玄関先で神田に迎えられた。そのまま颯と一緒に車に乗ると、記憶に新しい駅前に降ろされた。

 あっという間の早業だ。すっかり颯のペースに乗せられてしまっている。

 駅前にはあの日と変わらず、多くの人が行きかっていた。まるで通り魔事件が最初からなかったようだ。蛍が事件現場で立ち止まりかけると、颯がそっと先を促した。

「まずは、ご飯食べよっか。蛍ちゃんは、何かしたいことある? 映画? 買い物?」

「……えっと、特には」

「じゃあ、今日はオレに一日付き合ってくれる? 蛍ちゃん」

 裏表のない笑顔を向けられ、はい、と蛍は頷いた。

 一見軽薄に見えるが、颯は蛍のことを軽々しく姫さまと呼んだりはしない。

 本家とか後継者候補としてではなく、こうして蛍を蛍として扱ってくれている気がする。

 だから、ほんの少しずつ張り詰めていた気持ちが緩んでいくのを感じた。

 駅前にはよく遊びに来るという颯の案内で、イタリアンレストランでパスタを食べて、その後は駅前ビルにあるフルーツパフェが人気のカフェの行列に並んだ。

「こういうお店にも、まさか一人で来るんですか?」

「さすがにね、こういうお店は女のコと来るよね。女のコは甘いもの好きだし」

 颯は事もなげに答えるので、やっぱりそうか、と蛍は納得した。

 他にも流行りの店やおすすめスポットを、颯は商店街を歩きながら蛍に教えてくれた。賑やかな通りには、他にも色々と気を引く店があって、会話の最中にそちらに気を取られると、さりげなく足を止めてくれた。

 そしてお茶の合間には、颯の他愛ない失敗談で蛍の笑いを誘った。

(何かこれって、本当にデートみたい)

蛍は自分で思って自分で赤面した。周りが暗くてよかったと思う。

今はちょうど映画を見ている最中だった。内容はラブストーリーではなく、家族連れの多いCGアニメ映画だ。これをリクエストしたのは颯なのだから、それを思い出して笑みがこぼれた。子ども騙しかと思っていたはずなのに、後半に差しかかって思わず蛍は主人公の台詞に感極まった。どうぞ、と横からハンカチが差し出された。

 ありがとうございます、と唇を動かす。

(……何か、颯さんてすごいな)

 あまりに女性の扱いに慣れた様子に、逆に惚れ惚れとしてしまう。普通なら恋に落ちそうなところなのに、蛍はずっと妙なところで感心しきりだった。

 あれ? とそのことに気づいたのか、颯が不思議そうに首を傾げていた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

映画館を出るとすっかり夕方になっていて、蛍は時間の経つ早さに驚いた。

映画館のあるフロアからさらに上の階へと移動すると、駅前ビルの展望フロアからは、沈みゆく夕日に照らされた守森山と街並みが遠くまで一望できた。

ここが一番の穴場なんだ、と颯が言うだけあって、二人以外に人影はない。

「はい、どうぞ」

 缶ジュースを受け取り、蛍は一息ついた。

「もしかして疲れさせちゃった?」

「そんなことないです。すごく、楽しかったから」

「だったら、オレも誘ってよかった」

 大げさに胸を撫で下ろして、颯がおどけて見せた。こんなに笑ったのは久しぶりだ。

 蛍が沈んでいた理由も、その事情も、颯にはわかっていたはずだ。

「颯さん、私に気を使ってくれたんでしょう」

 蛍はあえて自分からその話題に触れた。

 颯からは、今日一日、あの日の話題にも核心にも触れてくることはなかった。だから、その優しさに甘えて過ごさせてもらった。

「あの日、当主が言ったことを、颯さんはもう知ってるんですよね?」

「本家の当主の後継者の話、だね」

「一族の集まりの後、約束通りお父さんからもちゃんと話をしてもらいました」

 まるで昨日のことのように、蛍の脳裏にあの夜のことが蘇った。

居間で向かい合った二人だったが、永峯は長い間タバコの煙をくゆらせていた。何度か躊躇う素振りを見せてから、ようやく重い口を開いた。

こう、前置きをした上でだ。

「今から話すことは、全部本当のことだ」

 大神家は、古くからこの土地を治める異能の一族であったこと。

そして当主には女性が選ばれ、皆が巫女と呼ばれ、誰より特別な力を持つ者であること。

一族の候補者の中から選定され、守護役に守られる存在であること。

 この守森の地は、日本中に他にもいくつもある中で、特別に強い神の力を宿す他とは異なる理の地であり、神(しん)畏地(いち)と呼ばれる土地であること。

 神(しん)異(い)と呼ばれる穢れから守ることが、大神一族の影の役割であること。

 どれ一つとっても、蛍にとって突拍子もない話だった。

 一笑に付してしまいそうな話を、永峯はいつになく真面目に話をした。だから、それを子ども騙しの嘘や冗談に片付けてしまうことは出来なかった。

 何より蛍自身が実際に目の当たりにしていたからだ。

「じゃあ、オレのことも永峯さんに聞いた? この力のことも」

 颯が自分を指差して、蛍の顔を伺った。

永峯曰く、颯の力とは『暗示』と『干渉』だ。

あの警察官へは、自分たちは関係ないと暗示をかけた。

そして、目に見えない結界を張って、駅前一帯を干渉して一時的に停電させた。あの後、携帯電話は壊れたようにしばらく電源が入らない状態だった。

蛍がぎこちなく首を縦に振ると、そっかぁ、と納得したように何度も頷いた。

「でも君は本当に信じたの? この壮大なホラ話みたいな本当の話を」

「信じるも何も……」

「この目で見てしまったからには、信じるしかない?」

「颯さんて、意外と意地悪なんですね」

「いやー、ごめんごめん。ちょっとだけ君を試したくなって」

 悪びれることなく、肩を竦めただけだった。

 蛍は宙を見つめて言葉を探した。

「父さんの言葉だから、あの時に自分で見たんだから、これが本当のことだと信じている気もするし、全部勘違いでしかなくて、どこまでが本当のことなのかわからなくもなる。だって、私、まだついていくのに必死なんですよ、目の前の現実に」

 これじゃ泣き事を言っているみたい、と蛍は思った。

 颯がそっと労わるような声音になった。

「今、君を取り巻く状況はけっこう複雑だからね。混乱するのも無理ないよ。それに真耶は久しぶりに本家血筋以外で、強い力の現れた子だからね。分家の大人たちはパワーバランスのために皆必死なんだ。まあうちも例外ではないけれど」

「それってどういうことなんですか?」

「学の三峰、武の三輪、政の三上、これがうちの一族の三本柱。傍からは、分家の御三家とか好きに呼ばれてるけどね。三峰は学園を運営して学問に秀でた人間を、三輪は宗司のように武芸に秀でた人間を、三上は商業や政治の分野で活躍する人間を輩出している。この守森市はね、そういった意味でも大神一族がその中枢を握っているんだよ」

 だから本当はオレが警察官を止めなくても、あの事件で君が事情聴取されることはなかったはず、と颯はさらりと言った。にわかに信じがたい。

(そんなこと、本当に出来てしまうの?)

 でもって、と颯が続けた。

「三峰に強い力を持つ者は少ない。だからこそ、真耶の存在が重要なんだ」

「そっか。だから真耶ちゃんはあんなに……」

「三上は基本的に政を担う立場としても中立だし、逆に三輪は特に本家に近いからね。ほら、永峯さんなんていい例でしょう」

「あの、お父さんも、当主の守護役だったんじゃないんですか?」

「……それは女の勘?」

「茶化さないでください。私は真面目に聞いてるんですっ」

 わかったわかった、と大げさに手を広げた。

「そうだよ。君のお母さん、現当主の守護役は永峯さんだ。けど、表向きは永峯さんはずっと連絡が途絶えていたし、誰もその行方は知らなかったという話。だから君のことだってそう、知ってたのは長老衆くらいで、一族の者にもずっと秘密にされてたんだよ」

 オレが知っているのはそのくらいなんだよね、と降参のポーズを取った。

「お母さん、あの時、私に言ったんです」

あの場で後継者候補だと指名されて、蛍は思わず固まった。

永峯から何も聞かされていなかったし、誰も驚く様子を見せていなかったからだ。

ただ、なぜ出会ったばかりの真耶に敵視されなければいけないのか、その理由がこれなのだ、とピンときた。蛍がいなければ、真耶が選ばれるはずだったのだ。

(何で、どうして……)

葵は御簾越しのままで、今この時から二人が候補者であること、試しの時が来ればどちらがふさわしいかわかる、と予言めいたことを告げた。

蛍の意思など関係ない。全て何もかも最初から決まっていたのだと思った。

それが許せなくて蛍は声を荒げて問いかけた。

『どうして私なの? どうしてここに私を呼び戻したの?』

 葵は言葉少なに答えただけだった。

 ――直にわかる、と。


「蛍ちゃんは、本家を離れて元いた場所に帰りたい?」

 空を紅く染めていた夕陽は、もうその姿をすっぽりと守森山の彼方に隠していた。名残のような淡いグラデーションが空を彩る。夢のような時間はもうすぐ終わる。

 どうして自分はここにいるんだろう? と不意に強く思った。

自分が呼び戻された理由もわかった。最初の目的は果たしたはずだ。もう十分だろう。

(それなのに、私はどうしてまだここにいるんだろう)

 真耶を差し置いて、自分が後継者になるつもりはない。それでも、蛍はここを去るという選択肢を選べなかった。

「……いえ、私は、まだここにいます」

「どうして? 辛いことしか待っていないかもしれないよ」

「例えそうだとしても、私が前に進むために必要なことだと思うから」

 この後継者争いに巻き込まれるのは確かに御免だった。それでも、蛍は指名したのが母である以上、まだ降りるつもりはなかった。ここで逃げても本当の解決にはならない。知りたかった母とのことを、真正面から受け止めたことにはならない。

「じゃあ、オレは応援するよ。蛍ちゃんのことを」

 立ち上がった颯が、手を差し出した。おずおずと蛍がその手を取ろうとした時だ。

 携帯の着信音が鳴って、蛍はびくりとその手を離した。

「……あ、もうこんな時間だった」

 颯が携帯を耳から離して、よし、と通話ボタンを押した。

おまえたち一体いつまでほっつき歩いてるっ、と宗司の怒鳴り声が響いた。スピーカー状態でもないのにすごい大音量だ。それを見越していた颯はやはり一枚上手だ。

「はいはい、わかったわかった。ちゃーんと神田の車で帰るから大丈夫」

 行こう、と差し出された手を今度は素直に取った。


 帰りの車中で、颯が声を潜めて蛍に耳打ちした。

「ねえ、蛍ちゃんは宗司のことは苦手なの?」

「……ちょっとだけ」

「あいつは悪い奴じゃないよ。あれはね、単に口が悪いだけだから」

(そこが苦手なんだけどなぁ……)

「あははは、もしかしてそこが苦手? とことん駄目な奴だよねぇ、あいつも」

「ちょっと人の心を勝手に読まないでくださいっ」

思わずそう言ってしまってから、うっかりと墓穴を掘ったのだとわかった。颯は人を自分のペースに巻き込むのがうまい。

「きっとまだ戸惑ってるから、余計にきつく当たってるだけだよ」

「とてもそうは思えないんですけど……」

「守護役はさ、守るべき相手に信じてもらえないと意味がないのにね。宗司もまだまだってことだなー。とりあえず、もう少し仲良くしてやってよ」

 いいことを教えてあげよう、と人差し指立てて、颯は悪戯っぽく笑みを浮かべた。

「宗司は言動は素直じゃない。でも行動は絶対に嘘をつかない」

 あ、と玄関先に見えた人影に蛍は驚いた。

 帰りを待っていたのかイライラした様子で佇む宗司の姿に、蛍はほんの少しだけその言葉から信じてみようと思った。



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