第2話 本家



   2.本家


 守森市には、大神の本家があった。

 その地域では名の通った由緒ある家系なのだと、以前に永峯ながみねは話をしてくれた。

 一族の多くは、ずっと守森の地に住まい、土地を離れず生きて行く。多くの分家が連なり、永峯もまたそんな分家の一つの出身だった。生まれた頃からみんな顔見知り、町を歩けば当たり前のように声をかけられ、まるで大きな共同体のようだと話した。

『それってどういう感じ?』

『簡単に言えば、大家族みたいなもんだろうな』

『すごい、そんなに大勢いるの?』

 興味津々に瞳を輝かせる蛍を、見つめる永峯の瞳はいつになく優しかった。

 部屋の電気を消して、布団に入った蛍の横に寝そべった。

『小さい頃は、里山で大勢の従兄弟たちとよく遊んだもんだ。この辺りの木より、ずっと背が高くてな。鬱蒼と生い茂っている辺りは、昼間と思えないほど薄暗くて』

 永峯の子どもの頃の昔話は、寝物語に聞いていて楽しかった。

 本家の裏山は立ち入り禁止だったが、忍びこんではこっぴどく叱られたこと。

 夏に泳ぐ川は驚くほど冷たくて気持ちよく、懐中電灯一つで山道を肝試ししたこと、雪が積もれば山の斜面を誰が一番滑るのが早いか競い合ったこと。

 都会育ちの蛍には驚くことも多かった。何より普段は口数の少ない永峯が、あまりに楽しそうに話すものだから、どの話も印象に残っている。

 まさかあの頃に憧れを抱いた地に、こんな形で訪れることになるとは思っていなかった。それが今の蛍の本音だ。

(なぜ今頃になって、私を本家に呼び戻すのだろう……)

 本家の当主は、蛍の実母である葵だった。

『葵さんから、連絡がきたよ』

 永峯に蛍を預けることを決めたのが母なら、呼び戻すことを決めたのも母だった。

 その真意がわからない。それを確かめるために帰って来た。

 ――本家に戻ってきなさい。

 それは有無を言わさない一方的な通告だった。

 決まっていた高校への進学も、守森への転入手続きが取られた。いつだって蛍の味方だった永峯も、この時だけは「行かなくていい」とは言ってくれなかった。

 胸の奥の不安を打ち消すように、蛍は外の景色に目をやった。

 駅前を離れてしばらくすると、景観はどんどん様変わりしていった。山間にかけて道路の両脇には田んぼが増え、レンゲの花がそよ風に揺れていた。

 緩やかな坂道の先に見えるのは、見上げるような標高を誇る守森山だ。

 急勾配のせいもあってか、目の前に迫って来るような圧迫感を覚える。山肌は緑がより一層深まり鮮やかさを増して、春の息吹を感じさせた。鬱蒼と生い茂る木々が天高くそびえ立っている。そのどれもが圧倒的な存在感を放っていた。

 今更ながらずいぶん遠いところへ来た、と思った。

(ここが、これから私の住む町……)

 まだ実感がわかない。昨日までの現実と地続きだという気がしない。

 さっきの一件といい、まるで白昼夢の世界に迷い込んでいるようだ。実はまだ東京にいて、ふとした拍子に深い眠りから目が覚めるのではないかと思った。その一方で、それがただの願望でしかないと冷静に指摘する自分がいる。

 結局、目の前で起きていることは全て現実なのだと受け止めるしかない。

「さあ着いたよ、蛍ちゃん」

 助手席の颯が後部座席を振り返った。

 白壁沿いに緩やかな勾配を進んだ先で、運転手の神田が静かに車を止めた。

 大神。

 窓から表札が目に入った。

(やっぱり私には何も思い出すことがないんだな……)

「おい、何ボサっとしてる。行くぞ」

「ちょっと待って」

 蛍の逡巡など知らず、当たり前のように宗司たちは門をくぐっていく。

躊躇う気持ちを振り払うように、蛍は大きく一歩を踏み出した。


***


 目を開けると、自分の影が足下に映った。

 頬を撫ぜる風に深い木々の匂いが混じっている。ふっと視線をあげると、藍く澄んだ闇に円くて白い月がぽっかりと浮かんでいた。その眩さに息を呑む。

 だけど、自分はもっと美しいものを知っている。

 全身が銀色につやめき、月光を浴びている。清廉な空気を身にまとって、そこにいた。射抜くような雄々しい瞳の強さに、一瞬で心を奪われる。

 自分に向かってくるのだと思うと、足が震え、鼓動が高鳴った。

(あぁ、なんて)

 一匹の狼がそこにいた。


 揺り起こされる気配に、うっすらと目を開ける。

 まどろみから抜け出せず、ここがどこだろうと考えて、ハッと目が覚めた。

「永峯様がご到着になりましたよ」

 長旅の疲れが出たと思ったのか、使用人の依子は多少の遠慮をにじませて、目尻を細めた。身にまとう割烹着からは夕餉の匂いが漂っている。

 時計の針はすでに六時を差していた。カーテンが閉められていたが、外からは強い雨音が聞こえ、気がつけば部屋には湿り気を帯びた夜の気配が満ちていた。

 ここは、蛍に宛がわれた本家の一室だった。

「お父さんは、……永峯さんは今、着いたんですか?」

「ちょうど到着されたところです。随分お慌ての様子でしたよ」

 あ、とポケットに仕舞ったままの携帯を取り出すと、着信履歴が恐ろしい件数になっていた。気づかずにいたせいで、ずいぶん心配をかけてしまったようだ。

 しずしずと先導する依子の後を着いていく。外から見た時に、まるでどこかに出てくるお屋敷のようだと思ったが、ここまで広いとなると、正直このあと自分の部屋に一人で戻れるだろうか、とこんな時に間の抜けた心配をしたくなる。

 玄関先で数人の話し声がした。

「――蛍っ」

 真っ直ぐ瞳に飛び込んできたのは、永峯だった。

 いつも感情を抑えて見える永峯が駆け寄ってくる姿に、思わず目頭が熱くなる。お父さんっ、と足がもつれて倒れ込むように抱きついた。

「怪我はないか? おまえが通り魔事件に巻き込まれたって聞いて」

「……こ、怖かった。すごく怖かった」

 感情が高ぶって零れた蛍の涙を拭いながら、永峯は何度も頷き返してくれる。ようやく自分の知っている現実に戻ってきた気がして、心の底から安堵した。

 その背後から、からかうような声が掛けられた。

「さながら感動の再会ってとこかしら」

「茶化しては失礼ですよ、真耶様」

 蛍と歳の変わらない少女と目が合った。

「はじめまして、私は三峰みつみね真耶まや。あなたが本家の姫さまなのね。いいえ、ついに当主と永峯の切り札のご登場って言った方が正しいんでしょうね」

 白い陶器のように透明な肌、すらりとした立ち姿に思わず目を瞠る。

 艶やかな黒髪が腰の辺りで広がっていた。優雅な微笑みを浮かべる姿は、深窓の令嬢のようだ。だが、その笑みにはどことなく背筋が冷えていくのを感じた。率直に言ってしまえば、そこにあるのは嘲りと言い換えていい。

「……親が、自分の娘の心配をしてはいけませんか」

 肩口に置かれた永峯の手に力がこもった。蛍は自然と永峯を見上げる。その瞳は見たことがないほど、厳しいものだった。普段の穏やかな永峯とは思えない。

「失礼いたしました。真耶様のご冗談が過ぎました」

「何であなたが謝るのよ、静江」

 真耶の隣にいた女性が、しおらしく頭を下げた。しかし素直に従った態度が逆にふてぶてしく思えるほど、その謝罪は形ばかりのものだと蛍にもわかった。

 それでもそれが不快だったのか真耶が眉を顰めた。

「よくもまあ自分の娘だなんて」

永峯見て愉快でたまらないと言わんばかりに肩を揺らす。

「そこの姫さまも所詮、あなたたちにとって駒でしかないんでしょう」

「ちょっと、あなた……っ」

 自然と蛍は睨みつけてしまう。

 明らかに年長者である永峯に対しての口の利き方ではない。尊大な態度に腹が立った。

(何でこの子に、こんな言い方されなくちゃいけないの)

 前に出ようとした蛍の肩を永峯が押し留めた。

「オレのことはどう言われても構いませんよ、真耶殿。あなたの自由だ。けれど、この子を貶める言い方はよして頂けませんか」

「事実、彼女は何も知らないんでしょう」

 蛍と目が合うと、かわいそうな姫さま、と真耶は口の端を上げた。

(姫さま……? 何のこと?)

「そうやって源氏を気取って親代わり? 笑わせないで」

「この子を託したのは、他ならぬ当主です」

「どうしてあなたがその役に選ばれたの? どうして姫さまは隠されなくてはいけなかったの? どうせ、本当はその理由も知っているんでしょう」

「例えそれを知っていたとして、オレの口からこの場で話せるようなことではありませんよ。それくらいあなたにだってわかるでしょう」

「そうやっていつも取り澄ました顔で、これまで一族の人間を欺いてきたってことね。三峰はこの争い、姫さま相手だろうと譲るつもりはありませんから」

「結構です。そもそも決めるのはオレではありませんから」

 永峯はのらりくらりと挑発をかわす。カッと真耶の顔に怒りの色が差した。

 思わず蛍は、あのっ、と二人の会話に割って入った。

「さっきから何の話をしているんだか、私にはさっぱりなんですけど」

 それでも、と真耶に視線を向けた。

「自分が歓迎されているなんて、そんなこと思ってませんから」

 真耶の苛立ちも、どうやら蛍が戻ったことに起因することは確かなようだった。

 だから、それだけは言っておきたかった。

「……あなた、何もわかってないのね。本当に、何も」

 その顔に真っ先に浮かんだのは、憐れみと軽蔑の表情だった。次に面白いことを思いついたのか、いいわ、と蛍たちに向かって高らかに告げた。

「あなたがここに呼び戻された理由、今から教えてあげましょうか」

「真耶殿っ!」

 制止する永峯の声も無視して、真耶は続けた。

「私とあなたは、これから後継者争いを始めるの。ここにいる永峯もそれに一枚嚙んでる。この大神一族の巫女としてどちらがふさわしいのか、それを争うのよ」

「どういうこと?」

「永峯は、本当に何も伝えていないのね」

 だからこそ苛立ちが増すのだろうか。こんな今更、と真耶の切れ長の瞳がきつく細められる。綺麗な相貌であるが故に、その迫力はさらに増していた。

「のこのこ現れて、あなた達、目ざわりでしかないわ」

 真耶殿、と静かにたしなめる声があった。

「その辺になさったらいかがかな」

 全員の視線が集まる。玄関先に現れたのは、和服に身を包んだ老人だった。

 小柄だが矍鑠として、白い顎髭を撫でさすっている。その目は穏やかに細められていたが、誰の反論も許さないと暗に告げていた。人を従わせることに慣れた空気がある。

 分が悪いと見たのか、真耶が悔しげに永峯を睨みつけた。全員を見渡して、ただ一人状況についていけない蛍のところで、その視線が止まる。

「誠に申し訳ございません。真耶の言葉は、いずれ機会をもってお話しましょう」

 ゆったりとした動作で、低く頭を下げた。

「私は神(かん)無(な)翁(おう)と皆から呼ばれております。以後、お見知りおきを」

「えっと、私は……」

「存知あげております。あなたの帰りを、ずっと我々は待っておりました」

 姫さま、と神無翁はじっと無言のまま蛍を見つめた。

 その言葉に込められた感慨に戸惑いを覚える。

(……どうしてそんな)

 隣で真耶が面白くなさそうに口にした。

「さっきも言ったでしょう。あなたは当主が直々に永峯に託した本家血筋の大事なお姫さま、そういう存在なのよ」

「あの、何度も言われてるそれ、……本当に私のことなんですか?」

 居たたまれずに永峯を見上げると、否定されなかった。

 当たり前のように呼び交わされているが、蛍には突拍子もない呼び名に思える。なぜ、何一つ特別なことなどない自分が、周りから大真面目にそんな呼び方をされるのか。

 真耶の言う通り、蛍は何も知らずにここへ帰って来たのだ。

「つまり君はこの目つきの悪い騎士に守られるお姫様ってことだよ、蛍ちゃん」

 覚えのある声に振り返ると、屋敷の奥から颯と宗司が現れた。

「おまえまで茶化してどうするんだ、バカ」

 こわいこわい、と颯はうそぶいて見せた。おまえもだ、と宗司が咎める視線を真耶に向ける。年相応にぷいっとそっぽを向いて口を尖らせた。

「……宗司くんは、もう姫さまのことばかり」

「はいはい、そこまで。二人とも神田が雨の中で待ちくたびれているよ」

 颯が場を取りなして、にこやかに笑みを振りまく。真耶にいたっては不服そうではあったが静江に促されて本家を後にした。

「ねえ、ちゃんと後で説明してもらえるの?」

 あれだけの敵意を向けられる理由も、それ以外のこともわからないことばかりだ。蛍は無意識に永峯の袖を掴んでいた。

「おまえをここには連れて来たくなかったよ」

 痛みを堪えるようなその声に、それ以上何も言えなくなった。



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