永久なる銀の森
コトノハーモニー
第1話 帰郷
1.帰郷
線路沿いに咲く桜がやわらかな風に揺れて眩しい。
もう春なんだと思いながら、ぼんやりと遠く見える街並みを眺めていた。
車窓に映る景色は、蛍の知る東京の景色と似ているのに、どこか違う。胸の奥から込み上げる懐かしさなどなく、小さな違和感があるだけだ。
昼間から乗客のまばらな車両に、車掌のアナウンスが響いた。
「次は
ホームに降り立つとまだ少し肌寒い風が吹きつけ、肩で切り揃えた髪を揺らす。
暦の上ではとっくに春を告げているのに、四月になろうという頃合いでも尚、ここの桜は五分咲きというところだ。もう少し暖かくなれば、一気に花をつけるだろう。
時計の針は、もうすぐ午後二時。
(これって帰って来た、と言うのかな……)
生まれ故郷だと言っても、この土地を離れて蛍はもう十五歳になっていた。しばらく途方に暮れて、薄曇りの青空を見上げていた。しかし、そこに答えはない。
一歩進んで、にわかに立ち止まる。
「まさか本当に何にも思い出すことがないなんて」
自分で笑い飛ばしてしまえば、何となく吹っ切ることも出来る。
ここに来るまで重たく感じた足取りだって軽くなる。
「うん。今から挫けてたら駄目だった」
期待は裏切られるものだ。気持ちを切り替えて大きく伸びをすると、取り急ぎ身の回りの荷物一式を詰め込んだスーツケースと共に歩き出した。
改札を出ると、案内板の前に立つ。
駅前周辺と、この守森市全体の地図が並んでいた。その説明文をしげしげと眺める。
『――緑溢れる古都、守森。
その北部は一帯が三輪山脈に連なり、どこよりも自然豊かな風景が広がっている』
地図を見ると、蛍が降り立った守森駅は市内の中心部だ。
ちょうど線路が市内を真横に横断していて、この駅を境に南北が分かれていた。
「お父さんに聞いた待ち合わせは、確か北口だったよね」
本家から駅に迎えが来るという話だった。
だが、当の永峯(ながみね)が遅れて来ることに昨夜は意地を張ってしまって、時間以外の話を満足に確認せず来てしまった。仕方なく詳細を尋ねたメールには、まだ返信がない。
お父さんのバカ、と小さく呟いて視線を落とした。
「すまない、仕事の都合なんだ。悪いが、一人で先に行ってくれないか」
出発前夜になってそう言われて、さすがに蛍もおかんむりだった。
それでも本来は親戚筋にあたり、ずっと父親代わりだった永峯だ。いつも蛍のことを大切にしてくれていることは、蛍だってよく理解している。
しばらくの沈黙の後、こくりと頷いた。
「わかった。ちゃんと後から急いで来てね」
小さな子どものように、駄々をこねて困らせてはいけない。そうしたところで、状況は変わらない。どうしようもない心細さを押し隠して、努めて明るく振る舞った。
そうして、蛍は一人で帰郷することを了承した。
『何も』知らされないままで。
駅構内を出ると、思っていたよりずっと多くの人が行きかっていた。バスターミナルや駅前の様子も、東京にいた頃とさほど変わりはない。
(あぁ、どうしよう、緊張してきた)
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、何度もガラス扉に映った自分の姿に目をやった。後ろ髪をなでつけて、自分の格好に変なところがないか入念に確認する。
あれから守森に無事着いたというメールも永峯に送ったが、やはり反応がない。まだ仕事が忙しいのかもしれない。そう考えると、わざわざ電話するのは気が引けた。
「向こうだって、私を探しているはずだからね」
一人で納得してきょろきょろと見回したが、それらしい人影はまだ見当たらない。
急がなくても、待ち合わせの時間はもうじき来る。
正面のバスターミナル前には、ちょうどいい木蔭があった。幹を囲うようにベンチが設えてある。そこに腰掛けて、足下で踊る木漏れ日に目を細めた。
どちらかと言えば、蛍は休日も永峯の書斎で本を読んだり、ゆっくり過ごすことが多い。長距離を移動してきて、さすがに疲れを覚えた。待つ間に買ったお茶を口にすると、ひんやりした心地良さが思考を現実に引き戻した。
ここに着いてから慣れない土地のせいか、緊張の糸がぴんと張っている。
駅前の雑踏を行く人々から、不意に自分に視線を向けられた気がする。だが、蛍が気づくとその気配はフッと消え失せ、気のせいかと肩を竦めた。
ぼんやりと宙を見つめた。
「ここで、本当にうまくやっていけるかな」
ふと自分の口をついて出た言葉に、慌てて頭を振った。
蛍には、父さんがついてるからな。
これまでそうやって何度も安心させてくれた永峯は、今日に限って傍にいない。揺らぐ自分を叱咤して、迷いを振り切るように立ち上がった。
「さぁ、本家の人を探して、」
しん、と一瞬、街のざわめきが静まりかえる。
肌にまとわりつくような、生ぬるい風が吹き抜けていった。
(……何、今の)
動悸がして、息苦しさに胸を押さえる。
顔を上げると、向こうから近づいてくる若い男で視線がぴたりと止まった。
その足下から陽炎のように黒い影が立ち上って見えた。その表情は日に翳ってよく見えない。それなのに視線が吸い寄せられるようだ。
身長に対して異様に長い手足、遠目にもそのバランスの悪さが歪に見えた。だが、その手に鈍く光る刃が、日常の風景において一番の違和感を与えていた。
「……あっ」
危ないっ、と制止しようとして恐怖に言葉が引っ込んだ。その腕が一瞬で捕らえる。
前方を歩くサラリーマンがすれ違いざま、悲鳴もあげずに崩れ落ちた。
「おい、アンタどうかし……」
客待ちをしていたタクシーの運転手が、不審に思ったのか車内から出て来た。倒れた男性に駆け寄った途端、ぎょっとした顔になる。
(駄目、あぁ、駄目……)
逃げ出そうとした無防備な背に凶刃が躊躇いもなく振り下ろされる。
彼らの足下に広がる黒いそれが、血だまりなのだと遅れて気づき、蛍はひっと声をあげた。同時に、その場に居合せた誰かが堰を切ったように甲高い悲鳴をあげた。
警察を呼べ、早く逃げろ、と駅前が騒然とする。逃げ惑う人が右往左往して、散り散りになっていく。それでも男は慌てる様子もなく、歩みを進めていた。真っすぐに。
(あれは、私を狙っているんだ――)
なぜか、直感でそう思った。
動悸が激しくなる。どっと汗が噴き出した。
それなのに、逃げることも目を逸らすこともできない。その場に縫いとめられたように、指一本すら動かせなかった。
誰か。
誰か、助けて。
男はもう目の前だ。荒い息を吐きながら、一歩一歩距離が縮まる。その唇の端が、まるで壊れたピエロのように不自然に釣り上がっていた。
自分は獲物だ。狩られる側だ。そして狩る側が、自分を見逃すはずはない。
自分を庇って、守ってくれる人は、ここにはいない。
声すら出せないまま、蛍は身を固くした。男が刃を振りかざす。その切っ先を見つめたまま、時が止まったように感じた。
――誰か、
その時だ。
「おい、そこまでにしてもらおうか」
不意に眼前で声がした。次の瞬間、男は地面にあおむけに倒れ込んでいた。
何が起こったのかわからない。ただ足を蹴り出した格好でいるのを見て、どうやら男を倒したのが、蛍の前に立つ少年なのだとわかった。
あ、と声が出て、身体が動くようになる。
「……あ、あの」
「おまえも、おまえだ! そんなにわかりやすく突っ立ってたら、狙ってくれって言ってるようなもんだろう」
いきなり怒鳴りつけられ、驚きに目を丸くする。間一髪のところを助けてくれた命の恩人になる訳だが、きつい眼差しに怯んで一歩後ずさった。
「おーい、警察連れてきたよー」
「遅いぞ、颯!」
野次馬をかきわけて現れたもう一人の青年に対しても、同じように睨みつけた。
その背後には、駅前の交番から駆けつけて来たと思しき警察官が、どいて、どいて、と声を張り上げている。拳銃を構えて、転がっていた刃物を遠くへ蹴った。男は倒れた拍子に頭を打ったのか、ぴくりとも動かない。そのまま警察官が二人がかりで確保した。
切りつけられた被害者にも通行人が駆け寄り、人だかりとなる。ほどなくして、事件現場には救急車がやってきて、彼らは運ばれていった。
(私、助かったんだ……)
駅前が冷めやらぬ興奮と混乱に陥る中で、無意識にきつく握っていた手をほどいた。何度か開いて閉じてを繰り返すと、掌にわずかに赤みが差す。
「おまえ……」
「そうだ、君が大神蛍ちゃんなの?」
馴れ馴れしいぞ、と颯と呼んだ青年に横から釘を差す。
「――あなたたちは? 本家の人?」
まさかこんな歳の変わらない人間が、迎えに来るとは思っていなかった。
蛍の訝しげな視線に、仕切り直すように咳払いをした。
「オレは宗司(そうじ)。コイツは、颯(はやて)だ」
「君のお迎え役を、当主から仰せつかったんだよ」
仰々しくお辞儀して、颯は上目づかいでにこやかに微笑んだ。蛍はわたわたと慌てて会釈をした。こっちに車を待たせてる、と宗司は挨拶もそこそこに、駅から離れる方向を顎で示すと歩き出す。颯にも促され、慌てて後を追いかけた。
「ちょ、ちょっと君たち、待ちなさい」
立ち去ろうとすると、警察官に呼び止められた。無理もない話だ。あの犯人の凶行を止めたのは宗司なのだ。さっと間に入った颯が、すみませんねぇ、と微笑みかける。
「オレたちは、関係ないんです」
「いや、そういう訳には……。とりあえずこちらで話を、そこの女の子も」
えっ、私も? と急に腕を掴まれて、蛍はたたらを踏んだ。関係者への事情聴取という言葉が頭に浮かぶ。だが、その手は躊躇いなく外された。
そして、颯が言った。
「オレたちは、関係ないんです」
さっきと同じ言葉、謡うように静かな声音。
関係ない、と警察官がおうむ返しに口にした。そう、と颯が応じる。どこか上の空な様子で、颯の肩越しに見える瞳がうつろに翳る。
「だからもういいでしょう、おまわりさん」
「はい。皆さん帰りも気をつけて」
「ありがとう」
一丁上がり、と軽やかな足取りで、颯が宗司の横に並んだ。蛍も何度か後ろを振り返りながら、その場を後にした。追いかけてくる様子はない。
「ねえ、今、何をしたの……?」
蛍が疑問を口にするが、二人は何も答えない。
「駅の人間はどうする?」
「そうだなぁ、――このままだと後が面倒か」
パン、と颯が手を叩く。
颯を中心に、一陣の風がふわりと巻き起こった。
立ちくらみの後のような、ほんのわずかな違和感に目をこする。
近くの電光掲示板やコンビニの電灯、目の前の信号が一斉にパッと消えた。ぱちぱちと点滅を繰り返し、すぐさま元に戻る。蛍の携帯電話がポケットで震えた。
「あーっ! これやっぱり疲れるなぁ」
手に取ると、電池はまだ残っているはずなのに電源が落ちていた。肩を回す颯と、携帯電話をまじまじと見比べる。
「今のも何かしたの? 何がどうなってるの?」
「とっとと行くぞ」
蛍は混乱する頭で、ねえっ、ともう一度強く呼び止めた。
「これ以上、ここで余計な面倒を起こしたくない」
先が思いやられる、と宗司は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
だけど、とそれでも尚、蛍が言い募ろうとした。スーツケースを蛍から引き受けた颯が、心配しないで、とその言葉を遮る。
「これから行くところは君にとって、どこよりも安全な場所だから」
視線の先にあったのは、これまでの生活とはまるで無縁の高級車だった。
蛍のために、颯が当たり前のようにドアを開く。これに乗り込んでしまえば、もう元の生活には戻れない。そんな声が胸の内にあった。
それでもここに帰ってきたのだ。
(……私は、帰ってきたんだ)
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