第122話・一つのモノに執着した女性の最後の願い(2)
背後に殿下を庇い王妃と対峙する。
私を……私達を見ている王妃の双眸に宿るのはやっぱり「憎しみ」が大半を占めている、と思う。
眸の奥底で燻る憎しみという炎は無機質で硬質的ですらあった眸を人らしくはしているけれど、こびり付くような重苦しい暗さは変わる事は無い。
恨み辛みにも似た憎しみの感情を叩きつけられ体が無意識に強張るのを止められない。
現状、未知への恐怖もあってか、あまり良い状態とは言えなかった。
その時すっと肩に温もりを感じ、視線だけを向けると殿下の手が肩に置かれているのが見えた。
視線を上げると私を心配そうに見ている殿下と目が合う。
殿下は私がただの子供ではない事を悟っている。
少なくともこういった場面で怖気づいてしまうような可愛らしい性格をしていない事は知っている。
そして自身が動く事は良い結果にならないという事も分かっている。
だから庇った私の背から動かない。
こんな時になんだけど、殿下はとても守りやすい方、王族としての教育をきちんと受けている方なのだと思った。
「(まぁあの襲撃の時を考えれば、自己を犠牲したとしても事態の収拾に努めてしまう方でもあるようだけど)」
自分の代わりはいると心から思っているせいかそう言った自分を大事しない所がある。
だからこそのあの襲撃の時の言動だと思う。
今だって私の身に危険が及び、更に自分だけの身で賄えるならあっさりと私を背に庇い自分が前に立ってしまうだろう。
弁も立つようだからあっさり言い包められかねない。
とは言え、今は大人しくしてくれているようだから其処まで気を配る必要はないだろうけど。
私は殿下に対して小さく微笑みかける。……大丈夫だという意味合いを込めて。
過不足なく受け取ってくれたらしく殿下も苦笑ながらも返してくれた。
その時、私達に向ける視線に込められた思いが強くなった気がした。
痛いくらいの視線に王妃の方を向くと王妃は眦を吊り上げた怒りの表情で私達を見ていた。
「本当に忌々しい事ですわ。折角陛下の側から排除出来たというのに、未だに図々しくも存在しているなんて」
低い声で憎しみを混ぜ込んだ声音は恐怖を煽るだろう……普通なら。
けど私にしてみれば言われた内容に心当たりが無さすぎてそれ以前の問題だった。
「<陛下の側から排除って言われても?>」
「<オマエ、今回の謁見で初めて会ったんじゃねーの?>」
「<間違いなく初めてですけど? いや、赤ん坊の時に会った事ある可能性は否定できないけどさ? 赤ん坊の時に会ったでしょう? とか言われても困るんだけど。覚えてる訳ないし>」
お父様と陛下が親しい友人である以上、産まれたばかりの私と会っている可能性はある。
あるけれど、それを覚えていろと言うのはあまりにも理不尽である。
確かに生まれた時から共に居た『わたし』の視線から赤子である「ワタクシ」を見る事は可能かもしれないけれど、思い出す事は相当難しい。
混ざり合ったからこそ膨大にある「記憶」の中から探り出すのは骨が折れるのだ。
第一「私」だから、まだどうにか出来る可能性もあるけど、普通はそんな事言われてもどうしようもない。
赤子の時の記憶なんぞ普通は持ち合わせて成長しないのだから。
つまり王妃の言っている「前」が生まれた時だとしたらこれ以上理不尽な事も無いって話なんだよね。
しかもこの王妃サマ「排除出来た」とか言っちゃってるんですが。
産まれたばかりの赤子に対して目障りだと思ってたって事ですかね?
「<生まれたばかりの赤子を排除するとか一体どういう事>」
「<生まれた直後じゃなくその後に会ったとかじゃなくてか>」
「<えー?>」
私まだ幼子ですけど?
まごう事無き五歳ですけど?
そんな幼い子供を排除するってどういう事?
しかも殿下じゃなくて陛下の側とか言っているんですけど。
王妃は陛下を何だと思っているんですかね?
後、忌々しいそうに殿下を見るのもやめません?
私の中の陛下の像が訳の分からない事になりそうなんですが。
困惑の中にある私を他所に王妃は話を辞めようとしない。
流れるように文句が吐きだされる姿はどれだけ怒りを憎しみをため込んでいたんだ? と言いたくなるぐらいだった。
「あの時消したとばかり思っていたのに。今更出てきて陛下に擦り寄るなんて、なんて浅ましい事」
何処をどう見てそんな結論になったんですかね?
目を見ると正気な気がするんだけど、実は正気じゃないんだろうか?
私の隣にでてきた殿下も訝し気な表情をしてますけど。
王妃にとって私達は陛下に擦り寄る害虫かなんかなんですか?
弟殿下に付く虫と言われるならともかく陛下にへばりつく虫と思われるとは思ってもみませんでした。
……王妃は一体何を言っているのだろうか?
気を付けないと王妃を見る目に残念な者を見るような色が混じりそうだった。
というよりも正気を失った者に対する対応を取りたくなるんだけど、流石に不敬が過ぎる。
私がそうならないように頑張っている間も王妃の調子は絶好調だった。
「未だに懲りないのならば仕方ありませんわ。今度こそ完全に排除して差し上げます」
片方は貴女の息子ですけど!
私は再び殿下を背に庇うとナイフを直ぐに取り出す事ができるように腰を少し降ろした。
私と殿下を忌々しそうに憎いと言わんばかりに見る王妃の眸に後ろの殿下の息を呑む声が聞こえてきた。
正直言って私は身に覚えのない事ばかりだからか王妃の言っている事は殆ど言いがかりだと思ってるし特に心に響く事も無いし傷つく事もない。
痛みを感じなければ右から左に聞き流す事も可能だ。
けど流石に殿下はそうはいかないのだろう。
それも仕方ない。
どんな状況だろうと殿下と王妃が義理とは言え「母と子」である事は事実なのだ。
母親に恨まれて排除されると明言されて全く傷つかない子などそうそうはいない。
「(殿下の年的に最初は実の母だと思っていた可能性が高いしね。なら余計にその時抱いた情を完全に排除する事は出来ないだろうし)」
憎まれれば悲しい。
敵視されれば虚しい。
幾ら自分を愛していないと分かっていても言葉にされ実際此処まで憎しみの目で見られれば傷つかないはずがない。
その気持ちは私には共感は出来ないけど理解する事は出来る。
ただ……こうやって真正面から王妃と対峙していると違和感が強くなる事が不可解で仕方なかった。
このまま王妃に喋らせると殿下がもっと傷つくような、吹っ切る切欠になるような?
勘と言ってしまえばそれまでなんだけど、何となく良いようにも悪いようにもなり得る分岐点に立っているような、そんな気がするのだ。
実体が全く掴めない酷く現実味の無い代物なんだけどね。
そんな違和感と予感が胸に過るせいで私はどうもイマイチ一歩前に出て王妃を止める事が出来なかった。
貴族女性のトップとして王妃が襲い掛かってくる事はないだろうという信用もあるんだけど、どっちかといえば違和感が理由を占めている。
このままでいいのだろうか? と言う気持ちもあるからちょっとばかり厄介な訳なんだけどね。
様々な思惑が絡み合い胸中を占めていた私は、だからこそ王妃の事を止める事が出来なかった。
……まぁ止める必要があったかはどうかは別の問題かもしれないけれどね。
王妃の一言は後程そう考えてしまう程度には破壊力を持っていたりした。
「今度こそ陛下の前から消えなさい。キルシュバリューテ、カトゥークス」
……はい?
王妃の言い放った名に私は素の反応で首をかしげてしまった。
多分キルシュバリューテは私に向かっていった気がするからカトゥークスは殿下の事を言っているんだと思うんだけど?
一文字しかあってないなぁ私の名前、と思ってしまうのは仕方ないと思いませんか?
まさか私の名前を覚えてないとか?
いやまぁ私に対してはそれでもいいけど、殿下の名前は間違えやしないでしょうに。
其処まで無関心だとしたら怒りや悲しみを通り越して呆れるよね、どう考えても?
私は警戒心が一部吹っ飛んで痛みを感じた蟀谷に指を添えながら殿下に目を向けた。
あんなんでも多少の情は抱いているだろうから、そんな相手に此処まで無関心だったと思われれば傷つくかと思ったからの行為だったんだけど。
殿下は驚愕と諦観とそして自嘲の笑みを浮かべ王妃を見ていた。
予想とは違う王妃への表情に僅かに首をかしげると殿下は消え入るような声で「母上だ」と言った。
「カトゥークスは母上の名なんだ」
懐かしむような悲しむような切ない顔で私を見る殿下に私はなんと声を掛ければ良いのか迷ってしまった。
第一王子の母親は側室であり、殿下をお産みになった後、しばらくしてお亡くなりになったと言われている。
元々体があまり御強い方ではなかったらしく、流行病であっという間に御隠れになったらしい。
王妃にとって側妃である方がどういった方であると思っていたかは分からないけど、まさか殿下に向かって母親の名前で呼びかけるなんて。
「(其処まで似ているって事なのかな?)」
だとすると私そっくりの人が居てその人を私を混同しているって事?
それとも――
「<オマエ、マジで二度目か?>」
「<ちがう……違うはず>」
黒いのの疑惑が私の中にも広がる。
多分違うと分かっているのに、どうしても疑念がチラつく。
もし、もし私が二度目だとしたら?
王妃は一体私の何処を見てそう判断したんだろうか?
殿下を背に庇い王妃を見据える。
私達を睨みつける王妃は狂っているようには見えない。
元侍女やかの老人のようにあからさまに狂っているようにはとても思えないのだ。
実際問題殿下を殿下の母親と誤認し私を誰かと誤認している時点で正気とは言いずらい。
だと言うのに王妃の眸には感情のブレも見えず、歪みも見られない。
先程の元侍女をせせら笑い突き落とした時の方が歪んで見えたぐらいだ。
見る限り正気だと言うのに、言っている事だけは可笑しい。
その差異が気味悪かった。
正気ではないはずなのに正気に見える緑の眸が私達を見据えてくる。
その眸に少しだけ寒気を感じた。
私達を誰かと誤認しながらも王妃はその誰か達を蔑みせせら笑っている。
その姿は正気ではないのにブレているようには見えなかった。
「相変わらずキルシュバリューテはカトゥークスの騎士気取りなのね。下級貴族の分際で、恋敵の癖に仲良く寄り添うなんて吐き気がしますわ」
王妃の言葉からも彼女が指しているのが「私」ではない事は確定事項だった。
私は公爵家の人間、決して下級貴族ではない。
それに私が陛下と出逢ったのは今日が初だし殿下は陛下の血を引く正当な王族であり御子息だ。
恋敵にはなり得ない。
王妃が私達ではない誰かを指している事は明らかだった。
ただ殿下を見て殿下の母の名を呼び、私に誰かを重ねて罵倒する。
それは私がその「誰か」に似ているという事なんだろうか?
それとも――
――私は本当にこの世界に“初めて”転生したんだろうか?
「(違う。「私」が「私」になった時、あの時私以外に「居たら」あの場に存在していないとおかしい。『わたし』と「わたくし」の間には誰も存在しない)」
軽く頭を振り浮かんでしまった思考を振り落とす。
王妃の得体の知れなさで混乱したけれど『わたし』の記憶を持った「わたくし」が「私」である事は確実なんだ。
だから王妃は私を見て「誰か」の面影を見出した、だけ。
「(それが何なのか分からない訳だけど)」
王妃が正気を失っている事は確定でいいだろう。
もしかしたら彼女の意識は殿下の母親や私に重ねる誰かが居た時代まで遡っているのかもしれない。
私は気づかれないように深呼吸をすると気力で負けぬように王妃を見据える。
此処で気持ちで負けてしまえばさっき否定した疑念が再び込み上げてきそうなのだ。
他所事を考えているとさっきみたいに攻撃をよけきれないかもしれない。
幾ら王妃が攻撃してこないと思っていても絶対では無いんだから。
そんな強気の私の視線が気に入らなかったらしく王妃が私達を睨みつける視線に更なる力がこもる。
「本当に忌々しい事。【愛し子】である事を盾にコートアストーネ様に擦り寄る阿婆擦れにそれを騎士気取りで守る愚か者」
王妃の他者への呼び方が変わった。
陛下ではなく名前呼びに。
「(これで確定かな? 王妃は今過去に意識が飛んでいる)」
多分側妃様がまだご存命だった頃に。
「<多分死んでんだな。オマエに重ねてる奴は>」
「<だろうね。じゃなければお父様やお母様の友人として紹介されていたはずだから>」
陛下と親しいお父様、パーティーを組んでいたお母様やシュティン先生、トーネ先生。
そんな彼等と親しいはずの相手を私が紹介されないはずがない。
だからきっと、その人はもう亡くなっている。
だからこそ王妃も最初に言ったのだろう「排除したと思っていたはずなのに」と。
過去に意識が飛んでいる王妃にとって私達は排除したのに湧き出て来た亡霊のような存在なのかもしれない。
「その雰囲気。全く変わらないわ」
王妃の視線が私に注がれる。
懐かしむのではなく、何処までも憎々し気に吐き捨てられた言葉。
王妃の嫌うキルシュバリューテという女性がもっていた部分。……多分、私と似ている部分。
「親に束縛されていたのに、何処までも自由に生き、加護を受けられない事を平気だと言って笑い飛ばす無知さ。だと言うのに、誰よりも達観していてこの世界すら客観的に見据える不気味さ」
口調も目も憎いと言わんばかりのモノなのに、言葉に宿る言葉には僅かに羨望のようなモノが混じり込んでいる気がした。
――もしかしてキルシュバリューテは私達と『同類』だったんだろうか?
集団転生なんて冗談じゃないと思う。
思うけれど疑いは晴れない。
だって一致する符号があるのだ。
私達にとって【加護】や【魔法】なんてファンタジーの世界の代物である。
科学で解明されていない出来事は存在していたとしても、それは幻想とか空想で片づけられてしまう世界でもあった。
だから私達は【加護】について何処までも無知だった。
キルシュバリューテという方が【愛し子】や【恵み子】でないと言うならは実感すら沸かないだろう。
一度は死を経験し何もかもが違う世界に産まれ直せば、達観してしまう部分を持ち合わせてしまうのは仕方ないだろう。
星の外側に広がる宇宙すらも解明しようとしていた世界に産まれ死んだ存在なのだから大陸、世界すら客観的に見る事は可能だろう。
そういう世界があるのだと“知っているんだから”
……分かってる。
こじ付けだと。
根拠なんて一切無いのだと。
その人、キルシュバリューテという女性はもう亡くなっているのだから確かめようがない。
けど、けど何かが訴えかけてくるのだ。
その人が『同類』であったのだと。
根拠なくとも、私はキルシュバリューテという女性が『同類』なんだという確信があった
そしてそれは私だけじゃなくて――
「<あー。死んだ女も『同類』だったって事か>」
「<黒いのもそう思うんだ>」
「<ああ。証拠もねぇ、確証もねぇ。がソイツが『同類』だと分かった。会ったすらねーのにな>」
本当にね。
けど人は無意識に同類を見分けてしまうのだという。
ならば私達も『同類』を見分けたのだろう。
奥底の人の本能によって。
「(だとしても、王妃様が私とキルシュバリューテ様の類似点に気づいたのは何故なんだろうか?)」
同類が分かる嗅覚によって同じであると分かった私達と違い王妃は純正この世界の住人だ。
私達のような存在が居る事すら知らないんじゃないかと思う。
ただの勘なのだろうか?
けどちょっと違う気もするのだ。
だって王妃は私達を排除したいと思っている。
様々な理由があるんだろうけど、その要因の一つはきっと私達が『異端』である事だ。
未知なるモノに対して私が恐怖を感じたように。
王妃は私達を排除、拒絶した。
私達の内にある『異端』に反応したために。
けれどどうやって察知したのだろうか?
高位の錬金術師であるお父様やシュティン先生、高位の魔術師であるお母様などは私が嘗てのキースダーリエと違う言動をしているから分かった。
より正確に言うとシュティン先生だけは伝聞で知り得た私、という事になるだろうけど。
自重しなかった私の言動を見て「キースダーリエ」との差異を感じ取っていたんだろう。
命や人権すら無視した実験をする事は叶わないから疑惑止まりだったのかもしれないし、魂まで見透かすスキルや魔法、魔道具はそうそう無いのか、原始的な方法での確認となった。
そも魂を見透かしても異世界人だとバレない可能性もあるだろうしね。
「何より下級貴族であり、容姿を磨く事よりも武を磨く事にばかり気をやっていた粗忽者」
憎しみを強く抱きながら、何処か声音に羨望がにじみ出ている気がした。
王妃にとってキルシュバリューテは憎悪の対象であり羨望を感じる存在だったのかもしれない。
「自然にしながら目を引き付ける。偽る事無く、在るだけで人の輪をつくり出す異質な雰囲気。何処までも忌々しい。翳る事の無い表情が歪む事は終ぞ無かった」
『この世界にとって異端である者』は異質な空気を纏っているかもしれない。
私達もそれを感じ取って同類と分かるかもしれないし。
王妃はきっと、そういった私達の異質さに気づく勘の良さを持っているのだろう。
磨く事で自分だけの【スキル】となったかもしれない特異な第六感。
けど王妃がそれを磨く事は無かった。
だから今でも明らかに違うであろう『私達』と他者との違いしか分からないのだろう。
それでも充分だったのかもしれないけど。
「忌々しい。キルシュバリューテもカトゥークスも家に縛られているはずなのに、自由に生きコートアストーネ様と笑いあい、遂にはコートアストーネ様はカトゥークスと将来を誓われてしまわれた。どれだけ私が手を伸ばしても裾を掴む事も出来なかった、私が唯一望んだ居場所を私を嘲笑うようにあっさりと奪い取ってしまった。……あぁ忌々しい。あぁ憎い。コートアストーネ様の隣で笑うカトゥークスも私が得られない光を掴み笑いあうキルシュバリューテも。全部全部壊れてしまえば良かったのに」
段々王妃の言葉から理性がはぎ取られていく。
目も何処か虚ろで過去に囚われていく王妃の姿に私は背筋に冷たい物が走った気がした。
目の錯覚か、薄っすらと黒いモノを纏っている風にすら見えるのだ。
精神が完全に過去に飛んでしまっている王妃は正気に見えても結局正気ではないのだ。
「<精神逝っちまってんのはそっちのねーちゃんもだが、どうするんだ? オーヒって言う地位が邪魔になんじゃね?>」
「<そこ、なんだよね>」
このまま放置する訳にもいかないのだ。
王妃という地位も勿論の事、彼女は今回の襲撃事件に置いて全容を把握している数少ない存在だ。
全容解明のためにも是非正気のまま確保されて欲しい処だ。
とは言え、此処まで飛んでしまった人間を此方に引き戻す方法があるんだろうか?
特に私や殿下の言葉では火に油を注ぎかねない。
私達に誰かを重ねている以上「私達」の言葉が王妃に届く事は無い。
この場に置いて王妃が唯一眼中にないのは元侍女だけだけど、彼女自身も気狂いの状態である上、仮令精神的にダメージが無いとしても彼女の言葉が届くとは思えない。
全く関係の無い黒いのが飛び出し何か言ったとしても使い魔如きと歯牙にもかけないし、そもそも黒いのが言葉を理解し話す事は出来るだけ知られたくない。
「<いっその事此処に誰か来ないかなぁ?>」
「<場合によっちゃ事態が悪化しそーだけどな>」
「<ああー。確かに>」
騎士や侍女であった場合私達が危険だと認識して貰えない可能性がある。
お父様なら? ――王妃の態度から見ると悪化しそうだ。
なら陛下や弟殿下とか? ――うん、最悪の場合弟殿下を陛下に重ねて更に狂気に落ちていくかもしれない。
そうなってしまえば、もう戻ってくる事は無いだろう。
今でもギリギリだと言うのに、この状態から精神を引き上げる方法が思いつかなかった。
その間にも王妃の意識は過去へと飛び、現実から遠ざかっていく。
「そうよ。一度は排除したはずなのにどうして貴女方はまだ生きているのかしらね? キルシュバリューテもカトゥークスも死んだはずなのに」
実はこの時こそ別人だと言い包める事が出来る機会か? と思ったんだけど、王妃の眸は未だに私達を通して別の人間を見ているためか焦点が微妙にブレていた。
言い募っても無駄だと分かれば口を挟み注目を私達自身に向けたくなくて口を噤むしかない。
そうして手をこまねいている間に王妃は自己完結して深み嵌っていってしまった。
「あぁそうね。ただ小賢しく身を隠していただけのようね? キルシュバリューテは兎も角カトゥークスならば陛下に強請れば身を隠す事など簡単ですものね? 側妃だというのに寵愛されるなんて、純粋なこの国の血を引くわけでもないのに陛下の愛を強請るなんて何て浅ましい。コートアストーネ様のお優しい心に付け入るなんて何て傲慢な娘だこと」
「陛下」になったり「コートアストーネ様」になったり王妃の精神が現代と過去を行き来し混乱状態にある事が分かる。
これはもう注目されようとも私達自身を認識してもらうしかないんだろうか?
最適の策も思いつかない私が一か八かの行動に出ようとか? などと考え始めた時後ろで小さくため息をつく音が耳朶を打った。
私は自分の思考を一時中断すると声の主……殿下の方へ振り返るのだった。
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