キューカンバー・エクスプレス

エイドリアン モンク

キューカンバー・エクスプレス

 電車の車内放送がまもなく終点だと告げる。

「君は初めての帰省かね」

隣の席の老人に聞かれた。俺は「はい」と返事をした。

「そうか……」

意味ありげな返事だ。俺が怪訝そうな顔をすると、老人はそれを打ち消すように、慌てて笑顔で話題を変えた。

「この電車、変な名前だと思わないか?」

 キューカンバー・エクスプレス。席の座面に刺繍されているのが、この真新しい電車の名前だ。

「日本語にすれば『キュウリ特急』だ。伝統を守ろうとしているのか、どうなのか分からないな」

その通りだ。俺自身、帰省にこんな最新の特急列車に乗るなんて思わなかった。てっきり、昔ながらのキュウリの精霊馬で帰るのだと思っていた。

 いや、そもそもこの歳で死ぬなんて思わなかった。

 高校の春休み、三年生になる直前、俺は部活の帰りにトラックと強制的に異種格闘技をさせられて、あの世行きになった。未練?そんなの数えきれないほどある。

特急は、本当の駅のホームに止った。生きている人には見えないらしい。

「じゃあ、ここでお別れだ。……いい里帰りになるといいな」

老人は別れ際に俺に言った。


 競技場のコンクリートのスタンドに、容赦なく太陽の光が照り付ける。この時期は、観客も体力勝負だ。俺は、駅からまずこの陸上競技場に来た。歓声、たなびく多くの横断幕、熱気―ついにあいつらはここまで来たんだ。

高校インターハイ、リレー予選。十数年ぶりの地元開催、馴染みの競技場での大会。何としても表彰台に上がることを目標に、俺たちは練習していた。

 一斉にスタート位置に着く。スタート直前の雰囲気が好きだ。メンバー、ライバル、観客、その場の全員が一体となる。三走は……補欠だった二年の神林だ。本当は、俺があそこで走るはずだった。でも今はいい、とにかく勝ってもらいたい。

 ピストルが鳴った。一走の藤堂はスタートダッシュが得意だ。いいペースで二走の伊丹にバトンが渡る。少し詰まった感じがするけど、まあいい。

祈るように組んだ手に力が入る。もしかしたら、チーム最高記録が出るかもしれない。現在、チームは二位。構わない。一位は去年の優勝校だ。タイムが良ければ、準決勝に行けるチャンスはある。惑わされるな、自分たちの走りをすればいいだけだ。  

 バトンが神林に渡った。伊丹と息の合った上手なバトンパスだ。伊丹とはタイミングが合わせづらいから、相当練習したのだろう。三位の学校が迫って来るけど、気にすることは無い。あそこの学校の三走は、後半でバテる。ラストスパートが得意な神林は、そこで突き放せばいい。

 でも、二年の神林にはそんなことを考える余裕は無かったようだ。後ろを気にしている。その間に、さらに失速した。並ばれ、そして抜かれた。走り方がぎこちなくなる。その間にもどんどん距離が離されていく。

 なんとか四走の飯田にバトンがつながった。このメンバーで一番速い。どんどん、二位との距離を縮めている。もう少し、もう少し……結果は三位だった。一位の暫定タイムは、去年の優勝タイムよりも早い。確定タイムが出た。準決勝に進める望みは無くなった。

 神林は、泣きじゃくっていた。人一倍責任感が強い奴だ。相当なプレッシャーだっただろう。他のメンバーが慰める。誰も、神林を責めない。責められるはずがない。

 俺も神林を慰める輪の中にいた。神林に掛けてやりたい言葉はいっぱいある。でも、その言葉は届かない。神林の肩を支えるメンバーを、ただ見ているしかなかった。


 実家に帰ると、両親と叔母夫婦がリビングで話していた。お寺に行っていたのだろうか、全員喪服を着ていた。和室には、新しい小さな仏壇が置かれていた。その前には提灯やお供えが置かれ、初盆の飾り付けがされている。  

 自分の遺影を初めて見た。写真は、生徒手帳のものが使われている。髪型がいまいち決まってなくて、気に入らない写真だったけど仕方ない。

自分の部屋に入ると、部屋は俺が死んだ日のまま何も変わっていない。机に置かれた参考書、ハンガーにかけられた制服と床に脱ぎ捨てられたままのシャツ、ページを開いて伏せた漫画も、ベッドの上に置かれたままだ。

 時間が止まっている―そんな言葉がピッタリだ。この部屋を永久保存でもするつもりだろうか?

 しばらくして、母さんが俺の部屋に入ってきた。椅子に座ると、愛おしそうに部屋を見渡していた。

「姉さん……」

しばらくして叔母さんが入ってきた。

「ホント、あの子だらしない子よねえ……。もう少し片付けないと、これじゃあ『お部屋』じゃなくて『汚部屋』よ」

母さんが力なく笑った。叔母さんがベッドに腰かける。

「お義兄さんから、聞いたけと、暇があればこの部屋にいるんだってね。その……こんなこと言うのもあれだけど、そろそろ部屋を片付けたら」

母さんは首を横に振った。

「勝手に片づけたら、帰ってきたときにあの子が文句言うわ。分かってるわ……そんな困った顔しないで」

 母さんが苦笑いした。俺もきっと、叔母さんと同じ顔をしているだろう。

「そうよ、ありえない。でも、もしかしたらって思ってしまうのよ」

「おーい」

父さんが半分開いたドアから顔を出した。

「あいつの高校の友達が、線香あげさせてほしいって来ているぞ」


 あいつらは、大会が終わってからそのままうちに来てくれたようだ。線香をあげて、神妙に手を合わせている。らしくなくて、少し笑えた。母さんに、今日の結果を聞かれて、飯田が答えている。

「本当は、あいつに良い報告がしたかったんですけど……」

「いや、あいつも喜んでるさ」

うつむく飯田の背中を父さんが思いっきり叩いた。

「ちょっと、おじさん。痛いですよ」

仏壇の前では俺の思い出話で、しんみりしたり、笑ったり大忙しだった。

 あいつらが帰っていく。両親が玄関まで見送った。俺も横にいて、手を振ったけど、誰も応えない。当然だ。

 ―ああ、そうか。そういうことか。


 まだ、間に合うかもしれない。俺は駅へ急いだ。一刻も早く帰りたい。ホームへ駆け込んだ時、特急はちょうど出発してしまった。緑色の車体が遠ざかっていく。特急はお盆の時期、一日ニ往復だ。もう、明日の朝まで待たないといけない。

「ここで一晩過ごすのか?」

 振り向くと、電車で一緒だった老人がいた。

「ベンチに座って話さないか?」

二人はホームのベンチに座った。

「あなたは、ここにいていいんですか?」

「私は何回も里帰りしているからいいさ」

 どうだった?と老人は聞かない。俺は今日、確かにそこにいた。生きているみんなと同じ時間を過ごした。でも、そこで感じた何もかもを誰とも共有できない。あんなに近くにいたのに、俺はそこにいなかった。これからも、永遠に。俺は……死んだんだ。

 きっと友達は、俺のことなんか忘れるだろう。死んだ人間をいつまでも覚えているほど、みんな暇じゃない。そうしたら俺は……いつの間にか手が震えていた。

                                    

「何度も、あっちの世界とこっちを行き来していると、君のような子と時々出会う。多くの子は初盆で帰って、君と同じ体験をする。……残酷だよな」

 老人は静かに言った。

「でも、君のことは忘れられるわけじゃない」

俺の気持ちを見透かしたかのようだった。

「記憶の引き出しの中にしまわれるだけだ。時が経てば、引き出しを開けられるのは時々かもしれない、でも、みんなの引き出しの中にしっかりと残っている。それでいいと気づく日が来るさ」

「そんなもんかな?」

 喉の奥から声を絞り出すように言った。

「逆に、君の記憶が……君の最期を見送った記憶がいつまでも生々しく表に残っていたらどうなる?それが君の望みかな?」

「……そんなことは……ないけど」

 叶いもしないことを願い続ける母さんの姿を思い出した。一生、あんな思いをしてほしくない。

「いつか、折り合いがつく日が来るさ。君も、君を大切に想う人たちもな」

それは、俺にはまだ遥かかなたのような気がした。

「俺、今日、部活の大会を見に行ったんです」

 俺は今日の出来事をゆっくりと話した。老人は静かに聞いてくれた。今の俺にはこれしかできない。

 夏の夜も、意外と長い。

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