真田戦記~大坂城の第六天魔王
杉浦ヒナタ
第1話 真田幸村、大坂城へ入る
会見の場となった広間に入った瞬間、徳川家康は足を竦ませた。
(何だ、この空気は)
関ケ原の合戦において全国の武士に対する支配権を確立したこの男にとって、恐れるものは既に無いはずだった。たとえこの広間で待つのが、かつての主君豊臣秀吉の遺児、秀頼であってもである。
偉大な父、秀吉と比し『その質凡庸』と噂される秀頼だが、実際に謁見したものからは『名君の資質あり』とも聞く。今日、家康は自らの目で真相を確かめるために、こうして面会の席を設けたのだった。
悠然と座すその青年の前に進み出た家康は、首筋の毛が逆立つのが分かった。
(この感じは、まるで……)
「息災であるか、家康」
家康の背中に、どっと汗が流れた。
かつての主君筋とはいえ、現在では征夷大将軍となった自分が、格下に当たる若者に
家康は顔をあげ、目の前に座る青年を見た。
その堂々とした体躯は父親の秀吉には全く似ていない。だが、彼の端正な容貌とその声。やや甲高いその声に、家康は覚えがあった。恐怖とともに記憶が蘇る。
(織田右府……、信長公ではないか)
秀頼の祖母はお市の方という。そして、彼女の兄が織田信長なのである。
あの男が生きている間、家康はひと時も心が休まる事は無かった。常に顔色を伺い、理不尽な命令にも唯々諾々と従うしかなかった。一族を守るために、長男までも犠牲にしたのだ。
家康の目に、この青年とあの恐怖の独裁者の姿が重なって見えた。
その瞬間に家康の心は決まった。
(この男は、殺さねばならん)
広間を退出した家康は、謀臣の本多正信に大坂攻めの準備を命じた。
☆
「いい加減に機嫌を直してください」
部屋の隅で膝を抱える父親に、お
「拗ねてなどおらんわ。放っておけ」
「いえ、別に拗ねてるとまでは言ってませんけど……」
他に表現の仕様がないのも確かだが。
父、真田幸村が落ち込んでいるのには理由がある。徳川家との決戦を控えた大坂の町に怪文書が出回っているのだ。
『真田幸村、紀州九度山を脱し大坂方へ
「これの何処に問題があるのです」
確かに事を起こす前に徳川に知れたら大変だっただろう。だが、真田一族はすでに大坂の城下に入っている。こうなってはいかに徳川といえど容易に手を出すことは出来ないだろう。
「その下じゃ、問題は」
「ああ」
そこには幸村の似顔絵が描いてある。
「随分と、お若く描いてありますね」
いや、と幸村は首を振った。
「よく見ろ。この絵は、わしではなくお前だ。お宇芽」
「やだ、恥ずかしい」
お宇芽は顔を押えた。
「もう。庭で剣術の稽古をしている所を見られたのでしょうか」
「だいたい、何故わしではなくお宇芽の絵が描いてあるのだ」
幸村の不満は留まるところを知らない。
「それはお父さま。こういった物はまず人目を惹くことが大事だからではないですかね」
うむむ。と幸村は唸った。
「前から言っているではありませんか。お父さまが著している兵書の、えーと、『甲陽軍鑑』でしたっけ。あの表紙にわたしの似顔絵を描けば、もっと売れるはずです。”書物の表紙には美少女”とはいつの世も変わりませんからね」
「まったく世も末だのう」
「まあそうは言っても三十年前ならわしもこんな顔だったけれどな。いわゆる紅顔の美少年というやつだったのだぞ」
幸村は目じりに皺をよせて微笑する。
「それが今では、こんな白髪頭の年寄りですけれど」
「やかましいわ。まったくお前の口の悪さは誰に似たのだ。やはり
真田昌幸は幸村の父だが、大坂の風雲を前に、惜しくも世を去っていた。
気を取り直して、幸村は外出の用意を始めた。
「どこに行かれるのです?」
「決まっている、大坂城よ。豊臣方へ加わる事を申し出ておくのさ。支度金も出るらしいから、それで借金を返済したうえで武具を揃えるとしよう。お宇芽も早く準備をするのだ」
お宇芽は奥女中としての入城になるらしい。
「あら。わたしもですか。じゃあ、お母さまに断ってきます」
☆
徳川家康が豊臣家へ大坂城からの自主的な退去を求めたという情報はすぐに全国に伝わった。これは本多正信が敢えて広めさせたものである。まずは武力によらず、天下人としての恩情を見せるのである。更には豊臣家がそれを断るであろうことも全て見込んだ上でのことだ。
そして、追い詰められた豊臣方が兵を挙げるのを待つのである。
家康の狙い通り、豊臣方は全国から
「なんと可愛いものですな。何も言わずとも、自ら踊ってくれるとは」
眠そうな目で、本多正信は
もはや、と正信は主君にして盟友である家康を見た。
「この世に、
それはお世辞でもなんでも無かった。
「いや。わしとて、もう年だからな。できるだけ楽をして勝ちたいものよ」
少しの寂寥感をみせ、家康は呟いた。
真田幸村が大坂城へ入ったのはその頃である。
☆
お宇芽を従え大坂城へ入った幸村を迎えたのは、この城の実質上の主である淀殿の側近で、
秀頼の乳母である
関ケ原の合戦では東軍で幾ばくかの戦功をあげたとされるが、その本質はあくまでも武将ではなく官僚である。しかし、同じ官僚ながら西軍の総帥を務めた石田三成のような怜悧さはなく、どこか軽薄な印象が付きまとう。
「あなたが、かの有名な真田幸村さまですか。ようこそおいで下さいました」
そう言って大野修理は、お宇芽の手をとった。
「似顔絵に違わぬ美少女っぷり。感激いたしましたぞ」
困惑する彼女に構わず続ける。
「ところで、後ろの方は?」
「わしが、真田……幸村じゃ」
額に青筋をたてて幸村は呻くように言った。
「なるほど。幸村さまの保護者の方ですかな? まあ、よろしいでしょう。人数は一人でも多い方がいいですからな」
そういって大野修理は無邪気に笑った。人の話を聞かない男だった。
「ところで、真田さま。兵は、いか程お持ちですか」
どうせ牢人のことだ。数人であろう、と軽侮する様子がありありと見えた。
お宇芽は父の方を振り向いた。そして幸村とふたりで頷きあった。
「されば……。一万人にございます」
お宇芽は姿勢を正して言った。
「な、何と仰った、真田どの」
半ば腰を浮かせて、大野修理が問い直す。
「一万人、と申しましたが」
澄ました表情でお宇芽は繰り返した。
そ、それは、と大野修理は一瞬絶句する。
「拙者をからかっていらっしゃる?」
「まさか」
「では、その兵はいずこに。紀州九度山、あいや、かつてのご領地の信州上田でしょうか?」
はっ、と幸村は短く笑った。
「そうではない。われら二人が入城したからには、一万人の兵に匹敵すると、そう申しておるのだ」
「我らは信州上田城において、徳川の大軍を二度にわたって撃破した真田一族でございます。これ位の価値はあると自負しておりますが、如何に?」
お宇芽の言葉に、城内にざわめきが拡がった。
☆
さすがに一万人分の支度金は貰えなかったが、それでもかなり多額の金子を手に、真田父娘は帰途についた。
「あら?」
強い風が吹き抜け、お宇芽の足元に一枚の紙片が絡みつく。
拾い上げると、短い文が書かれているのに気付いた。
「お父さま、これは……」
そこにはこう書かれていた。
『おおざかにいくさあり、だいろくてんのまおう よみがえる』
第六天魔王、すなわち織田信長である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます