銀杏の思出

桜さくや

第1話

先生は今日も朝一番に来て寒天培地とにらめっこしている。お前なんかへんなツラしてんな、ふざけんなよしゃんとしろよ、などと培地に生えた菌に話しかけている。

おはよっす、と軽く声をかけて俺も実験を始めた。僕が昨日植えておいた大腸菌は予想通りの生え方をしてくれていた。よかった。

僕と先生の実験台は向かい合わせになっていて、その間に棚がある形になっている。でも、棚の一番下だけは筒抜けになっていて、顔は見えないまでも向こう側の様子は見える。

このギリギリの高さ。俺はこれが好きだ。

二人とも椅子に座ると、先生の手元と顎が見える。そして、お互いに顔までは見えない。

だから、先生の鮮やかな手さばきに見とれていても、先生のえっろい鎖骨を舐めるように眺め回していても、絶対にバレない。最高だ。

「うわっ・・・くそ、コロニー1個えぐった」

・・・余計なことを考えたせいだ。俺は、アホな煩悩に気を取られた自分に舌打ちをした。

「まじで?ダッサ。でもちゃんとコロニーになっただけ俺のよりマシだわ。見てこれ」

とても先生とは思えないような乱暴な調子でプレートを差し出してくる先生の手は、繊細さとごつごつした男らしさを兼ね備えている。研究者の手だ。

触りたい、という衝動に駆られた。でもなんとか思いとどまって差し出されたプレートに無理やり視線を戻す。そこには、透明な何かが一面に広がっていた。ぽこぽこ波打っている。

「うわっ。なんだこれ。これ絶対何か変なもの混入してるよ」

「馬鹿言え、お前、俺はなりたてとはいえ助教様だぞ??そんなダサいミスするわけないだろ」

「助教だろうとコンタミはするだろ」

「いいやちがうね、これは石井君から借りた培地が悪い。絶対そうだ」

「はいはい、わかったわかった、せんせ。」

俺は「せんせ」のところを嫌味たっぷりに言った。

「おいおい、今くらい先生なんて言うなよ。『たく』って呼べよ、秀人。」

先生は棚の下から顔を出して口を尖らせた。

「やめろって・・・はずかしいだろ」

俺はその顔を手で押し戻した。顔を潰されてぐへっと声がする。

「それはそれ、これはこれなの。あんたはどうしたって俺にとって『先生』なの」

「・・・それにしては扱いが雑じゃねぇか?」

「それはそれ、これはこれ。」

先生は全くもって納得いかないといった様子でぶつくさ言っている。

棚が顔を隠してくれてよかった。赤くなっているのがばれなくて済む。


先生ははこう見えても天才だ。競合者の多い中、一人勝ち抜いて有名雑誌に次々と論文を載せている。とてもじゃないが僕みたいなぺーぺーの学生がタメ口を張れるような人ではないのだ。

本来は。

それがどうしてこんなことになったのか。どうしてラボでこんな恋人の真似事みたいなことをする羽目になっているのか。

それは、去年の今頃に遡る。


その日は卒業論文の中間発表で、中途半端な実験結果しか出せていなかった俺はボロボロの結果だった。厳しい質問を飛ばしてきた先輩や教授と同じ実験室内にいることに耐えられなくなって、俺は自分の発表が終わってすぐに外に飛び出した。

秋雨が降っていた。傘は会場においてきてしまっていた。

俺は雨の中に立ち尽くした。

国立大学ってのは不思議なもんで、どこにいっても大抵いちょうだらけだ。秋になるとこいつらは綺麗な山吹色の葉っぱとともに非常に臭うぐちゃっとした黄色い塊を落とす。ぎんなんだ。

地面をろくに見ずに走ってきたから、俺はぎんなんをいっぱい踏み潰していた。最悪なことに、ぎんなんは雨を吸ってふやけていて、ぐちゃぐちゃと靴の底にへばりついていた。

「くっさ・・・・」

目の奥がツンと痛くなる。ぎんなんが臭いせいだ。そう自分に言い聞かせながらも、一度涙が溢れてしまうと一緒に感情も溢れて止まらなくなる。

ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

俺はうざったらしい雨を降らせてくる空を睨みつけていた。

「いやー、くっさいねぇ」

後ろから声が聞こえて振り向くと、そこには助教がいた。

「あっ・・・先生」

「よっ。いい具合に濡れてんな。水も滴るいい男ってか」

いつものように軽口を叩く先生は傘をさしていなかった。

「いい男じゃなくても雨に打たれてりゃ水は滴ります」

「そりゃあそうだ」

「・・・先生、もしかして俺のこと心配してくれたんですか」

「ちげぇよ。ぎんなん取りに来ただけだよ」

小学生みたいなごまかし方に俺は思わずぷっと吹き出した。

「お前、ぎんなんを馬鹿にしちゃあいけねぇよ?洗って料理すりゃあ最高のつまみになるんだから」

「洗って料理するんですか」

「そうだ。お前も暇なら手伝え」

「え、嫌ですよ。手臭くなるに決まってるじゃないですか」

「実験用手袋を使え」

先生はポケットから手袋を2セット取り出した。

「俺の分まで持ってきたんですね。やっぱり心配してくれたんだ。ありがとうございます」

「だから、ちげぇっつってんだろ」

先生は俺の頭をばこんと叩いた。結構容赦ない。

そんで、おれの首に手を回してどこかに連行する。

連れて行かれたのはまだ人通りの少ない建物裏で、まだ潰れていないぎんなんがいっぱい転がってた。

先生はポケットからさらにビニール袋を取り出し、手袋をつけようとする。俺も従った。

「・・・濡れると手袋ってぜんぜんつけれないですね」

「・・・諦めて素手でやるか」

「マジかよ」

「おっ!いいねぇ。俺、タメ口好き。お前これから俺にタメ口で話せよ」

「えっ・・・いやいや、新進気鋭の天才助教先生に中間発表すらまともにできない駄作の俺がタメ口なんて聞けませんよ」

「お前なぁ、敬語さえ使っておけば失礼にならないとか思ってたら大間違いだぞ」

「・・・今のはわざとです」

「わざとで失礼なこと言えるならタメ口もすぐそこだな。じゃあこうしよう、二人っきりの時だけはタメ口。これならどうだ」

「それだったら・・・まあ」

「破ったらビール一本おごり」

「ビール一本でいいのかよ!」

「いいねいいね、その調子」

そんなことを言い合いながらビニール袋いっぱいにぎんなんを集めた。それを水場に持って行って、袋に水をいっぱい入れてぐしゃぐしゃと揉む。腐った身が浮いて黄色と茶色の中間みたいな色になった水を捨て、また新しい水を入れる。

「本当に臭い」

「確かに、マジでクセェな・・・でも、これがあるから出来上がったつまみは最高にうまいんだ。お前も、今のうちに苦労しとけばその分いつか最高の論文書けるよ」

かっこいいことを言いながらぎんなんにまみれて激臭を漂わせている先生は最高にかっこ悪くて、最高に素敵だった。


そういえば今年もそろそろキャンパスが臭くなり始めている。

「ねぇ、今年も一緒にぎんなんやろうよ。明後日は4年生チャンの中間発表アンド発表打ち上げ飲みだし、ちょうどつまみが必要になるし」

「おっ、いいねぇ、いいこと言うじゃん!」

植菌に失敗して腐り気味だった先生は途端に元気になって、そのあとちょっと黙ってから珍しく小さめの声で言った。

「・・・打ち上げ飲みより前にさ、俺ん家で一杯やらね?ぎんなんをつまみにさ。どう?」

「・・・行く」

俺はまた顔を隠してくれる実験台の棚に感謝しなければならなくなった。

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