お前は人間失格だ

パEン

本文

 狂った女がいるの。本当に狂っていて、周りに嫌われている女。

 例えば、常習的に窓を割っている。現場を見た人の話によると、窓に映る自分の姿を見た瞬間、窓に石を投げつけていた⋯⋯らしい。しかもその女、現場から何故か離れず、どうして割ったのか聞かれても「知らない」と喚き続けると聞く。最悪な女。

 例えば、平気で暴力を振るう。人の血の味が好きで、舐める血を得るために罪のない人を暗がりに連れ込み、拳を振るい続けているらしい。クソ性癖だ。

 例えば、盗みの天才。女の生活は盗品で成り立っているという噂だ。たとえバレたとしても、その自慢の暴力でねじ伏せるのだろう。人間性が欠落している。

 あぁ、本当に狂った、悪魔のような女だ。私は重いリュックの中からガムを一袋出し、一気に放り込んだ。しかしそれでは物足りず、爪をガジガジと噛む。完全に癖となってしまったその行為で、また爪が目も当てられない姿へと変貌した。

 住み続けて一ヶ月にもなるヘドロくさいこの路地裏には、今日も誰も来ないようだ。またどこかで虫が這っている気がして気持ちが悪い。めっきり冷え込んできたいるこの時期は、饐えた匂いがいつもより際立ってきていけない。

 したくもないのに、私は貧乏揺すりをしていた。私は、チッと舌打ちを一つしてリュックの中を漁った。しかし、いくら漁ろうと私の欲しいものは出てこない。もう切らしているようだ。

 苛ついてどうしようもなく、私の背中を預けている壁を殴った。何が起こるわけでもなく、鈍い痛みが手を蝕んで終わった 。

 「ないもんは仕方ないじゃーん」

 ⋯⋯私の大嫌いな、狂った女の声がした。

 「⋯⋯あんたには関係ないでしょ」

 「冷たいこと言わないでよー。アタシ達の仲じゃん」

 「うるさい!! 早く私の身体から出ていってよ!!」

 から聞こえている狂った女の声は、私の叫びなんて聞こえなかったかのように話を続けた。

 「そんなに欲しいの、アレ?」

 「必要なの。アンタ盗みが上手いんでしょ? また盗ってきなさいよ」

 「無茶言わないでよー!? あんなクスリなんて市販してる訳でもないのにさ!! 簡単に持ってこれるものじゃないよ!」

 「⋯⋯使えない女」

 私は自分に自信が持てない女だ。だけど、この最悪な女がどこからか持ってくるよく分からない薬を鼻から吸うと、何だか自分に自信が持ててくるのだ。ヤバいものであることは本能で分かるが、だからといってあの快感から逃れることは出来ない。

 だからこそ、快感をしってしまったからこそ、あの薬がないこの時間はまさに地獄だ。多重人格なんて狂った事実と共に私の中にこの女を留めているのも、薬を手に入れるため、それだけのためなのだ。

 「あんなクスリ常習してたら狂っちゃうよ? ほどほどにしときなよ」

 「ッ! 狂ってんのはどっちよッ!!!!」

 あの狂った、そう、まさに狂っている女の言葉がどうしても許せず、私は女の⋯⋯即ち、自分の頬に思いっきり拳を叩きつけた。口の中になんとも言えない、血の味が広がっていく。

 生臭い鉄の味が、あの狂った女の苦しみの味みたいに思えて。私はその味が堪らなく美味しく感じて、何度も自分の頬を痛めつけた。折れた歯の感触が舌に伝わると、もっと女の苦しみを知れた気分になって心地よかった。

 あぁ、でも。イラつきは留まることを知ってはくれなかった。こんなに憎んでいる女を殴ったのに、苦しみをこの口で味わったのに。頭の中に気持ち悪さが渦巻き、吐きそうになる。どこからか『人でなしめ』と聞こえた気がして、腹立たしくまた女を殴る。濃い血の味。

 「ひっ!? え、あなた⋯⋯?」

 確かに、今度は確かに誰かの声が聞こえた。なぁんと鳴いてどこかへ行った猫を追ってきたのであろう少女は、どこか見覚えのある顔だった。何故かここ最近目が急激に悪くなり、よく顔は見えていないが。

 「⋯⋯ちょっと、どうしたの、その顔⋯⋯?」

 「⋯⋯雪乃。雪乃だっけ?」

 ようやく、この顔も曖昧にしか見えない女の名前を思い出す。私はこんなに物忘れが激しかったかしら?

 「そうだけど⋯⋯ほんとにどうしたの? ねえ⋯⋯」

 彼女はオロオロとしながら、とにかく言葉をかけようとして、こう呼んだ。

 

 「佳子っ?」

 

 ゴス、という変な音がした後、足元に水たまりができていた。やけに赤黒く見えるが、きっとそれは日がもう暮れ始めているからだろう。

 ⋯⋯誰かが、あの狂った女の名を呼んだのだ。それが私にはたまらなく不快だった。薬がないことより、何よりあの女の名を聞くのが一番不快なのだ。

 「よし、こ⋯⋯」

 またあの女の名前を呼ぶ声がした。真下にいるような気がして、思いっきり踏み付けた。

 確かに感触があった。何度も何度も踏みつけているうちに、それが薬がない苦しみを凌ぐいい手段であることを知り、それを繰り返し続けた。笑みが零れてくるのを止められなかった。

 何かと引き換えるかのように、雪が降って来た。

 

 「どっちが狂ってんだか、全く」

 

 リュックから覗く、盗品やもしれぬ太宰治の「人間失格」が、じっと一人の狂った女を見つめていた。

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