傍にいられるなら、犬でいい【5】

 お風呂をあがって、布団を敷いた。だけどわたしは眠ることなどできなかった。布団の上に胡坐をかき、ぼんやりとしていた。


「はあ」


 何度目のため息だろう。だけど、勝手に溢れてしまう。

 いっそお酒でもきゅっと飲んで、酔いに任せて眠ってしまおうか。そんなことを考えていると、襖がぽすぽすと鳴った。


「はい?」

「僕だけど」


 小さな声は、梅之介のものだった。


「どうしたの?」


 急いで襖を開けると、梅之介がわたしにいきなりコンビニの袋を押し付けてきた。


「わ、わあ。なに?」

「これ食えよ! お前の好きな苺のケーキ!」


 袋の中には、わたしが最近がハマっていたコンビニスイーツが三つも入っていた。


「あ、ありがとう。でも、どうしたの、梅之介?」

「いや……お前が、ショック受けてるんじゃないかと思って。それで、だよ」


 目線を逸らして、もぐもぐと言う梅之介の顔が赤い。


「あ、ありがとう」


 袋をぎゅっと抱きしめて、笑った。

 わたしが凹んでいると思って、買ってきてくれたんだ。いつもはあんなにブスとかバカだとか言うくせに。なのに梅之介は肝心なところがとっても優しい。


「すごく嬉しい。大事に食べる」

「大袈裟に言うなよ。たまたまコンビニに行ったらあったから!」


 デブになれ! と言った梅之介に、もう一度「ありがとう」と言う。


「ありがとう。大丈夫だよ。これくらいでショック受けてたら、飼い犬として失格だもん」


 笑いながら言うと、梅之介が大きな目を見開いた。


「なんだそれ。……まあ、元気そうで安心した。じゃあおやすみ」

「うん! おやすみなさい」


 梅之介は、わたしの頭を軽く撫でると、二階に上がって行った。

 その背中に「ありがとう」と小さく言う。さっきも、梅之介に助けられた。最初はあんなにわたしのことを毛嫌いしていたのに、こんなに優しくしてくれるなんて。


「わたしってホント、恵まれてる」


 クリスマスのあの晩には、こんな優しさを与えてもらえる未来があるなんて思ってもみなかった。

 自分の幸運に感謝しながら部屋に戻ったわたしは、ケーキを大事に食べたのだった。


 かと言って、三個全部食べたのは、大バカの所業だったと思う。


「胃凭れしそ……つら……」


 ずんと重たくなった胃を押さえつつ寝支度を整えたわたしは、洗面所から自室へとのろのろと戻ろうとしていた。


「ん?」


 暗がりの廊下の中で、眞人さんの部屋から灯りが漏れ出ていた。


「まだ起きてる……」


 時刻はとっくに日付変更線を越えているころだ。

 眞人さんは毎日早起きをして市場へ行くから、なるべく早く眠ったほうがいいのに。

 眠れ、ないのかな。いや、眠れないんだろう。

 わたしなんかより遥かに、眞人さんの受けたショックの方が大きいはずだもの。

 通り過ぎて自分の部屋に戻ろうとして、引き返した。そっと襖を叩く。


「はい?」

「わたし、だけど。開けてもいい?」


 訊くと、「どうぞ」と短く返ってきた。

 そっと襖を開ける。大きなベッドにごろりと寝そべった眞人さんが、顔だけをわたしに向けて「どうした?」と訊いた。

 初めて入る眞人さんの部屋。余計なものは何もない、シックに纏められた空間だった。


「……眠れないんだろうなって、思って」


 眞人さんの覇気のない顔を見て、へらりと笑ってみせた。ほらやっぱり、眠れないんだ。


「よし! 一緒に寝よう」


 言って、わたしはそのまま襖を閉めてベッドへと向かった。驚いた顔をしている眞人さんを押しやって、布団の中に身を滑らせる。


「シロ?」

「一緒に寝たら、眠れます。わたしがお話聞くから、すっきりするまで話をしてください」

「話を聞く?」

「そう。いつかの逆。わたしもあのときすっきりして眠れたから」 


 眞人さんに横に来るように促すと、眞人さんは戸惑った顔をしていたけれど、ふっと笑った。それからわたしの横に入り込んでくる。大きな体に、ぎゅっと抱きついた。


「ああ、あったかい。眞人さん、電気消してください」

「……ハイハイ」


 クスリと笑って、眞人さんがリモコンを操作した。小さな音と共に、灯りが消える。

 少しして、眞人さんが「どこから話そうか」と言った。


「どこからでも」


 ふ、と眞人さんが笑う。


「そうか。じゃあ……俺も、誰かと一緒に眠ることを覚えたのは随分デカくなってからだった」


 眞人さんはゆるゆると語りだした。


「シロの境遇を聞いた時、あんまりにも自分とダブるから驚いた。俺の親も物心つく頃にはふたりとも死んでいて、俺はこの家でじいさんたちに育てられてた」


 おじいさん夫婦はとても大事に眞人さんを育ててくれた。しかし眞人さんは上手く甘えることができない子どもで、どこか一歩引いて接していたらしい。


「扱いづらい、可愛げのないガキだったろうなと思う。別に心を開いてないわけじゃないんだ。ただ、甘え方を知らなかった」


 この家で、夫婦で定食屋を営んでいたおじいさんたちだったけれど、眞人さんが高校卒業を目前としたときに事故で亡くなってしまう。


「親類もいないし、寮に入った。仕事は最初はきついばかりで、あんまり楽しい場所ではなかったな。帰るところがないから仕方がなくいたってところもある」

「そんなに、厳しいんですか?」


 眞人さんはわたしを抱えるようにして抱き、時折ふわふわの頭を撫でながら話す。腕の中で訊けば、眞人さんは懐かしそうに「ああ」と言った。


「いつの時代だってくらい、しごかれた。真冬でもなかなかお湯を使わせてくれなくて、手があかぎれだらけ。特に、板長の榊さんって人が、そりゃあもう、スパルタでな。あのジジイ、いつかぶっ潰してやるって誓ってたくらいだ。だけど、あの人が作る賄がすげえ美味いんだ」

「賄の中で何が一番好きでした?」

「玉子丼だな。出汁がまず違うし、あと玉子な。あのふわふわと口の中で溶ける感じは今でも真似できない」

「わあ、食べてみたい!」

「ああ。食べさせてやりたいな」


 眞人さんは、修行中の話を幾つもしてくれた。先輩とこっそり寮を抜け出してファストフードの牛丼を食べに行ったことや、仕事をさぼってカラオケに行ったこと。それから榊さんにそれがバレて、こっぴどく叱られたこと。


「仕事にだんだん慣れてきて。でも、辛さがなくなったわけじゃなかった」


 実の祖父母にさえ上手く甘えられなかった眞人さんは、誰にも心を許せなかった。いくら仲が良くても、弱音を吐くことなど到底できなくて、体の中に言えない不満や不安が溜まって行く一方だった。


「そんなとき、小紅に出会ったんだ。あいつは俺が昔から欲しかったものを埋めてくれた。勝手に人の中にずかずか入り込んで、温もりとか想いとかを押し付けてきた。それに、俺は本当に救われたんだ」


 僅かに体が強張る。わたしを抱きしめている眞人さんにそれが気取られないよう、そっと息を吐いて力を抜く。


「あの奔放な笑顔があったから、頑張れた。それは、どれだけ感謝してもし足りない。俺がここまで成長できたのは、間違いなく小紅のお蔭なんだ。あんなことにならなければ、一生大切にしたいと思ってたよ」

「そ、か……」


 声が震える。目の周りが熱くなって、潤む。

 こんな告白、聞きたくない。だけど、吐きだすことによって眞人さんが少しでも楽になれるのなら、わたしは聞く。どれだけ苦しくなっても、最後まで。

 苦しい気持ちをこのひとひとりに、抱えさせたくない。

 眞人さんがふいに黙る。わたしの髪を梳く。ふわふわのアフロヘアは簡単に指を通さなくて、何度も引っかかった。

 小紅さんの髪は、艶々だった。緩く巻いた髪は、こんなにも指を拒否することはないだろう。きっと心地よくさらさらと流れるのだろう。

 眞人さんは、そのさらさらの髪を思い出しているかもしれない。

 あの、とても綺麗なひとを愛した過去を。

 ぐっと押しあがる感情を喉元で押し殺す。口から漏れ出ないようにぎゅっと引き結んだ。

 これは、嫉妬だ。醜い嫉妬。消えろ。消えろ。

 わたしが自分の中のどす黒い感情の渦に反発していると、眞人さんがふっと息を吐いた。


「だけど、結果はさっきも話した通りだ。だから俺はもう、誰かを想いたくないし、想いを向けられるのも、嫌だ。きっと、怖いんだろうな。もう、あんな思いはしたくない」

「そ、っか」

「二度と、ごめんだ」


 眞人さんの声音は、疲れている。本心からの言葉なのだろう。


「ねえ、眞人さん。わたし……」


 わたしからの想いも、嫌かな。そう言いかけて、慌てて口を噤んだ。


 ……どうして、自分だったら大丈夫だなんて思えるの。


 こんな話を聞いておいて、わたしだったら別だと自信が持てる? 無理だよ。


「なんだ?」

「あ、ううん。なんでもない」


 首を振って、眞人さんの胸元に顔を押し付けた。


「あ。ねえ、眞人さん。今度はちゃんと訊きたいことがある」

「ん?」

「……榊さんには、また会いたいですか?」


 訊くと、眞人さんがすっと息を吸った。少しの時間を置いてゆっくり吐く。


「会えないよ、もう」

「……そっか」


 会わない、会いたくない、ではなくて、「会えない」。それは、眞人さんの意思が隠れてる。

 眞人さんはいつか『華蔵』に戻る。

 漠然とそう思う。

 中途半端に終わった修行を最後までやり遂げたいと、戻る。

 けれどそこには、かつて結婚まで決めた小紅さんがいる。

 彼が小紅さんの元に戻るとき、それはどんな形だろうか。

 そして、わたしは一体どうなっているだろうか。わたしという『飼い犬』は、捨てられてしまうのだろうか。


「黙りこくって、どうした? 眠たくなったか」


 眞人さんが優しく言う。


「もう遅いもんな。そろそろ寝よう。付き合ってくれて、ありがとな」

「……ううん、いろんな話が聴けてよかったです」


 顔を押し付けたまましゃべると、声がくぐもる。だからきっと、わたしの声が濡れていることなど眞人さんは気付かない。


「よし、寝るか。おやすみ、シロ」

「うん……おやすみなさい」


 目を閉じて、呼吸を必死に整えて。そうして寝たフリをする。眞人さんはわたしの頭を何度となく撫でながら、眠りに落ちた。

 呼吸がすうすうと、規則正しくなった。

 わたしの頭に乗った手が、ずるりと落ちる。背中に回された手も、力をなくした。

 それを確認して、わたしはゆっくりと目を開けた。

 夜目であっても、距離が近いせいもあって、眞人さんの顔がはっきりとわかる。形の良い眉も、瞳も、すっと伸びた鼻も、ざらりとした髭も、手を伸ばせばすぐに触れられる。

 頬に手の平を添えたら、温かさが伝わる。

 指先を伸ばし、薄く開いた唇に触れた。

 柔らかな吐息が、爪先を擽る。

 するりと、涙が頬を伝い落ちた。


「う……」


 『飼い犬』でもいいと、思ってた。優しさを与えてくれればそれでいいと、思うようにしてた。

 だけど、『飼い犬』のわたしは、この人が離れて行くとき、縋ることができない。

 犬は、飼い主の選択を受け入れるしかないのだ。

 ああ、好きだと言えたらいいのに。

 この温もりを『シロ』としてではなく『白路』として与えて欲しいと言えたら。だからずっと傍にいてと言えたら。


 でも、それを口にした途端、わたしはこの人を失ってしまうだろう。


 わたしが眞人さんの腕の中にいられるのは、『飼い犬』だから。髪を撫でる手も、背中に回される腕も、笑顔も何もかも、『飼い犬』だからこそ与えられたもの。

 この腕も、手も。全ては『女』としてのわたしの為にあるのでは、ない。

 この人に、『女』として求められたら、それはきっとどんな幸せにも勝るだろう。この人の全てがわたしを求めて、愛しいと言ってくれたら、それはきっととても……。


 ありえない幸福を夢見て、涙が溢れる。眞人さんを起こしたくなくて、唇と強く引き結んで声を堪えた。

 好きだよ、大好きだよ。わたしはあなたの全てを愛しているよ。だから、わたしを見て。犬なんかじゃなくて、女として見て。

 そう言えたら、そしてそれを受け入れてもらえたらいいのに。

 『白路』を抱き寄せることのない手をぎゅっと握りしめて、わたしは静かに泣いた。

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