傍にいられるなら、犬でいい【4】

 梅之介が「うそ!」と短く叫んでわたしを見る。その動きがやけにスローに感じられた。

 時を戻したのは、眞人さんの「ふざけるな」という激高した声だった。


「妻だと? ふざけるのもいい加減にしろ。お前とは籍も入れてない!」


 わたしに言われたわけではないのに、恐ろしくてびくりとしてしまう。

 しかし、その言葉をぶつけられた彼女はふふ、と余裕を持って笑った。


「でも、式は挙げたわ? でしょう?」


 平然と言いかえすことに驚く。あんなに強く怒鳴られたら泣き出してしまいそうな雰囲気を持っているのに、たじろいだ様子もない。


「挙げた? ああそうだな。だけど、途中で他の男と逃げ出したくせにそう言えるのか⁉」

「ええ、馬鹿なことをしたって後悔してる。やっぱりあなたじゃないとだめなの。私のことを本当に大事にしてくれるのは、あなただもの……」


 彼女は再び、眞人さんに抱きついた。わたしの鼻先まで、彼女のフレグランスが香ってくる。ゲランのチェリーブロッサム。わたしは一生、この香りを忘れられないだろうと呆然とする頭で思った。


「ね、お願い眞人。私と一緒に帰りましょう? 私、今度こそあなたのお嫁さんになる」


 眞人さんは、彼女に抱きしめられるままだった。ただ、ぎゅっと握りしめた両手がぶるぶると震えていた。


「私が眞人を幸せにしてあげる。ずっとずっと傍にいてあげる。もう二度と、ひとりにしないわ」


 背中を撫で、子どもに言い聞かせるように優しく、彼女は言葉を重ねる。


「愛してるわ。あなたを誰よりも。だから、帰りましょう」

「……言いたいことは、それだけか」


 果たして、眞人さんが声を落とす。それは、とても低くて、哀しげだった。彼女が顔を上げて眞人さんを見上げる。


「眞人、私」

「その顔を二度と見せるな、小紅」


 眞人さんが口にした名前に、「ああ」と思う。やっぱりこのひとが『小紅』さん……。

 小紅さんが「嫌よ」と言う。


「ねえ眞人、いい加減に私を赦して? 私、こんなにも反省してるの。こんなにも謝ってるのよ。だから、ね?」


 眞人さんに向ける顔には、少しの苛立ちが見えた。

 信じられない。このひと、本気で言ってるわけ? 驚いて、その顔をまじまじと見てしまう。どう見ても眞人さんは本気で彼女を拒否しているし、帰って欲しいと思っている。

 なのに、このひとはそんなこと全然わかっていなくて、眞人さんが自分を受け入れないことに怒りを覚えてさえいる。


「私と戻れば、華蔵の板長になれるのよ? こんな汚い店でひとりでいるなんて、惨めじゃない。ねえ、寂しいでしょう? 」

「もう、止めてくれ、小紅。俺はもう……」


 眞人さんの声が、掠れている。酷く疲れ切った声だ。


「帰って下さい!」


 気付けば、彼女を眞人さんから引き離してそう叫んでいた。


「な、何⁉」


 綺麗な顔にしわが刻まれて、わたしを見る。


「帰って下さい! 急に現れたあなたに、眞人さんを苦しませていい権利なんてない!」


 出入口の方まで彼女を押していく。


「ちょっと止めて! ねえ眞人、このひとどうにかして!」

「ハーイ、お帰りはこちらでございます」


 梅之介が引き戸を開け、彼女の手を取った。にこにこと営業スマイルを浮かべて、店の外まで押し出す。


「もう開店前なんで、お帰り下さいねー。正直邪魔なんで」

「止めてよ! 私は眞人に話が!」

「眞人は話なんてないそうです。わかるでしょ?」

「従業員の癖に偉そうなこと言わないで! どいてちょうだい」


 出入口に立ちはだかる梅之介を押し、どうにか体を滑り込ませようとする小紅さん。梅之介の加勢に行こうとしたそのとき。


「……空気読んでいい加減帰れよ、ブス」


 梅之介の声のトーンがぐんと下がった。


「は⁉」

「は、じゃねえよ、ブス。二度とこの店の敷居跨ぐな」


 唖然とする彼女の一瞬の隙をついて、梅之介はぴしゃりと扉を閉めた。鍵までかける。


「ちょっと! 開けなさいよ!」


 がしゃがしゃと彼女が扉を叩く。しかし、梅之介が「警察呼ぶぞー」と言うと止んだ。「また来るから!」というヒステリックな声がして、立ち去る気配がした。


「何だ、あの女。おい、眞人……」


 振り返った梅之介が口を噤む。わたしも、何も言えなかった。

 ずるずると椅子に座りこんだ眞人さんは、両手で頭を抱え込むようにして俯いていた。彼女の登場が眞人さんにとって酷いダメージだったのだと分かる。


「ふたりとも……助かった。すまない……」

「そんなこと、いいんだよ。だけどあの女、何なんだ。あの傲慢さ、ちょっとないよ」


 呆れた口調の梅之介に、眞人さんが深いため息をつく。


「あとで、説明する。とりあえず、店を開ける支度をしよう」


 時計を見上げると、もう僅かしか時間が残されていない。


「分かった。シロ、やるぞ」


 梅之介がわたしの方へやって来て肩をポンと叩く。耳元に口を寄せて、「そんな顔すんな。眞人にバレるぞ」と言った。


「う、ん……」


 分かってる。だけど、色んなことが一気に起こりすぎて、一気に知りすぎて、心が乱れてしまう。こんな状況で平静を保っていろって、難しいオーダーだよ。

 だけど、わたしよりもショックを受けているのは明らかに眞人さんで、だからこそわたしが狼狽えていちゃいけないと思う。

 どうにかこうにか、口角を持ち上げて笑ってみせた。


「時間ないし、頑張ろっか」

「……ああ」


 偉いぞ、と小さな声で言った梅之介が、わたしの頭を撫でて脇を通り過ぎていく。

 梅之介のバカ。こういうときは、いつもの毒舌の出番でしょうよ。ちょっとの優しさが、泣きそうにさせるんだからね。

 だけどわたしは唇をぎゅっと噛みしめて、笑顔を作った。

 その晩の小料理屋『四宮』の厨房はいつもより遥かに活気がなかった。どうにか営業を済ませて賄の席を囲んだわたしたちだったけれど、みんな箸がほとんど進まなかった。


「で? 昼間のあのクソブス女について、話してもらおうか」


 話を切り出したのは、揚げ出し豆腐をつついていた梅之介だった。


「あのクソ女、近いうちに絶対また来るぞ。そのときに何も知らないんじゃ、こっちも対応に困るんだよ」

「……ああ、そうだな」


 眞人さんの表情が暗い。彼は重たい口を開いた。


「俺は高校を卒業してからすぐに、憧れだった料亭『華蔵』の寮に入った。『華蔵』っていうのは高度な技術を必要とされる名店で、ここでやり遂げられたらどんな板場でもこなせるって店でな。だからこそ、修行が厳しいと有名だった。俺にも同期が何人もいたけど、みんな半年もせずに辞めていった」


 ぽつぽつと眞人さんは話しだした。

 両親を早くに亡くした眞人さんは祖父母に育てられ、その祖父母も高校の時に亡くなった。身寄りのない眞人さんは、辛くても逃げ帰る家がなくて、歯を食いしばって仕事に明け暮れたらしい。


「下処理ばかりで、辛かったな。いつになったら上にいけるのか不安でもあった。そんなとき、『華蔵』の一人娘である小紅と出会ったんだ。無邪気で明るくて、自由奔放な小紅がいたから、俺はあの時やっていくことができたんだと思う」


 胸がキリリと痛んだ。彼女について語る眞人さんの目に、温かな色を見つけてしまった。


「甘やかされていたから、我儘で自分勝手な子だ。それでも『華蔵』の中では可憐なお姫様で、誰もが彼女を愛していた。俺も、あの子の笑顔に何度も助けられた。だから小紅が俺のことを好きだと言ってくれたときは、素直に嬉しかった」

 ふたりは、付き合うようになった。眞人さんは、沢山の料理人の中でも才能があったのだろう、めきめきと力をつけ、板長や小紅さんの両親にも認められるようになった。

 そんなとき、小紅さんの両親から「小紅と結婚して、『華蔵』を盛りたてていかないか」と話があった。


「信じられなかった。まさか、あの『華蔵』の板場を自分が切り盛りできる未来が待ってるなんて。そして、小紅とずっと一緒にいられるなんて。婿入りするという形になるけど、とか言われたけど、俺はそんなこと気にもせず了承した」


 小紅さんも、眞人さんとの結婚を大喜びで受け入れた 。

 それから話はとんとん拍子に進み、式の計画も進み、ふたりは式を挙げた。


「小紅の強い意思でチャペルでな。みんなに祝福されて、まあ、幸せの絶頂っていうのはああいう事を言うんだろうな」


 眞人さんが遠くに視線を投げる。それは懐かしそうで、それを見ているだけでわたしの胸はもうぺちゃんこに潰されてしまいそうだった。

 できれば、聞きたくない。誰かとの幸福を語る顔なんて、見たくない。

 ぎゅ、と手を握られてはっとする。横に座っていた梅之介がわたしの手を握ってくれていた。ちらりと向けられた目が「頑張れ」と言っている。

 その優しさに、悲鳴を上げそうだった自分が救われる。大丈夫、と応えるように頷きを返した。


「式が終わって、次が披露宴というときだ。少し時間があって、俺は招待客たちと話をしていたんだったかな。そんなとき、式場のスタッフと小紅の友人たちが血相変えてやって来て、言うんだ。『花嫁が逃げました』って。小紅は俺の後輩の男と、『卒業』よろしく逃げ出したんだ」


 ウェディングドレス姿で、男と手に手を取って式場から逃げるさまは、否が応でも人目についた。そこから会場は大騒ぎになったという。


「正直、そこからの記憶はあんまりない。気付けば小紅の両親が俺の前で土下座をしていた。結婚の話はなかったことにしてくれ、と結構な金を目の前に積んでたっけな。まだ籍も入れてないからいりません、って言って、俺は『華蔵』を辞めた。いられるはずもないからな。あんなに必死にやって来たっていうのに、修行を半ばにして去らなきゃいけなかった」

「クソ女は、二股かけてたのかよ」


 梅之介の言葉に、眞人さんは「そういうことだな」と頷いた。


「後輩が熱心に口説くものだから、それが嬉しかったんだと。ふたりに愛されている自分、っていうのに酔ってたんだろうな。大変なことになってるよって連絡いれた女友達に、式場から攫われる花嫁ってすごく魅力的だったの、って平然と言ったらしいし」

「は⁉ それって自由奔放とかって問題じゃなくって、ただの馬鹿じゃん!」


 梅之介が声を上げる。


「眞人、女見る目なさすぎでしょ! 何だよそれ!」

「見る目ないのはお前も一緒だけどな」

「う……、い、いや。今はそんな話をしてなくて! それ、結婚しなくて正解でしょ」

「今考えると、全くもってその通りだな。だけどな、あのときの俺には事実を受け止めるので精いっぱいだったんだ。永遠の愛とやらを誓った女が、その数十分後には別の男と逃避行だぞ。ついていけないよ。女なんて滅んでしまえばいいとさえ思ったね」


 ふう、とため息をついて、眞人さんが温くなったお茶を啜る。

 梅之介は「まあ、うん。それは、そうなるよな」ともぐもぐと言った。わたしは、何も言葉が出てこなかった。

 こんな過去があれば、ひと嫌いになるのも当然だと思う。他人の好意なんて信じられないだろうし、嫌悪を覚えるというのも理解できる。


「そうして、じいさんたちが住んでいたここに戻ってきて、店を始めたんだ。俺のじいさんたちは元々ここで定食屋を営んでいて、手を加えれば使えたし。それに、俺もどうにか板場を回せるようになってたからな。それが、二年前のことだ」


 眞人さんがもう一度ため息をつく。それはとても頼りなくて、疲れ切っていた。


「そんな別れ方をしてるのに、どうしてここに顔を出せるんだか。しかもあんなに平然と戻って来てくれなんて、よく言える」

「確かに。常識知らずにもほどがあるよ、あのブス……」


 梅之介が椅子の背もたれに体を預け、天井を仰ぐ。


「ねえ、眞人。一応聞くけどさあ、小紅ってクソ女のことはさすがに吹っ切れてるよね?」


 眞人さんが「さすがにな」と頷いた。それから、続ける。


「だけど何だか可哀想に思えてきたよ。いまだに成長してないのが、哀れだよ。誰か、あの子のいいところや悪いところを全部ひっくるめて認めてやってほしいな。俺はもう無理だけど、幸せにしてやって欲しいと思う」

「そんな物好き、いるのかねえ」

「いて、欲しいんだよ」


 男ふたりのため息が重なった。


「とりあえず、次に来た場合は追い払っていいんだね?」

「ああ。次は俺も、『華蔵』の御両親に連絡するよ」

「あ、あの! わたし、今日はなんだか疲れたから、寝ます!」


 叫ぶように言って、立ち上がった。椅子が思いの外大きな音を立てる。


「え? シロ?」

「な、なんかすごく疲れちゃって! お風呂使って、寝るね! おやすみなさい!」


 驚いたような目をふたりに向けられる。しかしわたしはそれだけを言うと、逃げるようにしてその場を離れた。

 だって、どんな顔をして話を聞き続ければいいの。小紅さんのことを語る眞人さんの、憎み切れないという表情を目の前にしながら平然を装うのはもう限界だった。

 お風呂だと言えば、ふたりは無理に追って来ない。それが分かっていたわたしは、そのまま隠れるようにお風呂場に籠もった。

 熱いお湯に浸かって、深く息を吐く。

 天井をぼんやりと眺めながら、今日一日の間で起こったことを反芻する。

 何度も、胸がぎりぎりと痛んだ。


「戻りたい、のかなあ……」


 ポツンと吐きだす。それは湯気の中に掻き消えた。

 小紅さんとの話を聞くのは、辛かった。吐き気すら覚えたし、梅之介の気遣いがなければあの席を言葉もなく逃げ出していたかもしれない。

 大好きなひとが誰かを深く愛した。その過去を本人の口から聞くには、わたしはまだ覚悟が足りなさすぎた。辛い。それ以外の言葉が見つからない。

 しかしいま、気にかかることがもうひとつあって、それは眞人さんは『華蔵』に戻りたいのではないかということだ。

 眞人さんは、『華蔵』に戻って、中途半端に終わった修行をやり遂げたいんじゃないだろうか。

 だって、『華蔵』でのお仕事の話をしているときの眞人さんの顔は、辛いと言いながらも楽しそうだった。

 だけど、『華蔵』に戻るというのは小紅さんの元に戻るということでもあって。


「うー……」


 お湯に顔を埋め、唸る。

 あんなひとの元に、眞人さんを行かせたくない。

 だけど、わたしには何も言う権利はない。

 だってわたしはただの『飼い犬』なんだもん。飼い主の人生に、意見なんてできない……。

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