拾われたわたしの、新生活【1】
もぞりと体をうごかすと、抱きしめられる感触があった。
力強い、逞しい腕。広くてがっしりとした胸。わたしのふわふわの髪に顔が埋まって、柔らかな吐息を感じた。
……達也?
まさか。だって達也は松子のところへ行ってしまった。わたしの元へ戻ってくるなんて、あるはずがない。
それならば、これは夢ということだろう。わたしったら、寂しさのあまりにリアルな夢を見ているのだ。
でも、夢でもいいや。これだけリアルなら、夢で上等だ。
寂しさと悲しさの果てに夢を緻密にするという技術を身に着けることができたのだろう。なんて逞しいわたし。
思わずクスクス笑うと、抱きしめてくれていた腕が微かに揺れた。
それから、「ん……」と吐息混じりの声が降ってくる。
……ん?
いまの声は、現実のわたしの鼓膜を揺らしたと間違いなく感じた。さすがに、夢ではない。
あれ? そういえば、わたしっていつお布団に入ったんだろう。確か眞人さんのお店のお手伝いをしていて、ご飯食べさせてもらって。それから眞人さんの家に住まわせてもらうことになって、梅之介が怒って。二人でビールを飲み交わして……。
ええと、それから、記憶があやふやだ。どうしたんだっけ。ええと。
「ん……む」
低い吐息に、再び鼓膜が揺れる。
これはもう、寝ている場合ではない。重たい瞼をこじ開けてみると、胸元ににょっきりと腕が伸びているのを確認した。
「ん? うわ」
ぐりんと振り返って見て、息を呑んだ。
驚くほど近くに、すやすやと心地よさそうに眠る眞人さんの顔があった。
「うん」
どういうわけだか、とりあえず頷いていた。
うん、眞人さんだわ。こんなにかっこいい顔を見間違える訳がない。
でもどうして、わたしと一緒に寝てるんだろ?
「あ⁉」
もしかして! と血の気がひいたわたしは、布団を捲り、自分の体を見下ろした。
普通に、服を着てる。というか、きっちりパジャマを着てる。ごそごそして、下半身も確認してみる。うん、しっかり履いている。
だよね。全然、そんなことをした記憶がないもん。
しかし、眞人さんと一緒に布団に入った記憶もないわけで……。
「あ、いや」
ううん? と考え込む。
寝起きなうえ、大量に飲んだお酒に侵食されている脳がのろのろと動き始める。細切れの記憶をゆっくりゆっくり紡いで一本の糸にしていく作業は酷く根気が必要だった。
「ああ」
そうだ。
すごい量を飲み、酔っぱらったわたしたちはそれでも最低限の片付けを終え、交互にお風呂を使った。お風呂に入っている最中、大きな声で歌を歌っていたら階上から梅之介に「黙って入れブス」と怒鳴られた覚えがある。
それから、さあ布団を敷いて寝ようというところまできたのだったが、わたしはそこで急に面倒になって、もうここで寝ちゃえと廊下に寝っころがったのだった。うう。最低すぎる。何を考えていたのだろう。いや、何も考えていなかったに違いない。
廊下のど真ん中ですうすうと眠りにつこうとしていたわたしに気が付いたのは、わたしの後にお風呂に入っていた眞人さんだ。
『何やってんだ。布団いけ、布団』
『お布団敷くのめんどいれす』
『こんな所で寝てたら凍死するぞ』
『今更お布団入っても寒いれす。もうここでいいれす』
うん、そうだ。そうだった。思いだす作業がだんだん辛くなってきたけど、わたしはそんな馬鹿な事を言って廊下にへばりついていたのだ。
『仕方ねえな。布団敷いてくるから待ってろ』
眞人さんが布団を敷いてくれて、わたしを呼びに来る。そこまでしてもらってなお、わたしは動かなかった。うああ、馬鹿にもほどがある。
『凍えてからだがうごきません』
『こんな所で寝てるからだろうが』
はあ、とため息をついた眞人さんが、わたしをひょいと抱きかかえてくれた。
ひょい、だった。いとも簡単に、軽々とわたしをお姫様の如く抱きかかえた眞人さんは、しかし王子さまの表情を浮かべてはくれなかった。当たり前だけど。
『うえ、風呂上がりだってのに冷え切ってやがる。ほら、布団入れ』
顔を顰めた眞人さんが布団にわたしを放り込んでくれたのだったが、ここでわたしは最大の阿呆な発言をした。
さすがにこの部分の記憶は、お酒の力でデリートしていて欲しかった。思いだしてしまう自分が憎らしくも情けない。
『眞人さん。一緒に寝ましょう』
自室に戻ろうとしていた彼の服の裾を掴み、わたしはそう言い放ったのだった。
『は?』
『寒いので、一緒に寝ましょう。そのほうがあったかいれす』
わたしは裾をがっしと掴んだまま、言い募った。
『誰かと一緒に寝た方があったかいれす。それに、わたしはそっちの方がよく寝れるのれす』
『馬鹿か。もう少し考えて物を言え』
『はい、わたしは馬鹿れす。でも、寝るだけれすよ? いわば、湯たんぽみたいなものじゃないれすか』
さあ、さあどうぞ、とわたしは彼を引く。
馬鹿か、馬鹿ですというやり取りを数回繰り返したところで、眞人さんが諦めたようにわたしの枕元に座った。
『こんなに面倒な奴だってわかってたら、飲ませなかった。寝付くまでここにいるから、早く寝ろ』
『そんなとこに座ってたら冷えるので、どうぞどうぞ』
『だからお前は馬……ああ、もう言っても無駄だな。ほら、寝ろ』
眞人さんがため息をついて、わたしの頭を乱暴に撫でた。
『髪も満足に乾かしてねえし。それくらいちゃんとしとけよ』
『えへへ、ごめんなさい。それよりほら、こっちに入って寝ましょう』
しつこく何度も繰り返すわたしに、とうとう彼は折れた。大きなため息を一つついた。
『寝るだけだからな』
『分かってますよう』
するりとシングルの布団に入り込み、『もうちょっとそっち行け』と言う。そんな彼にわたしはぎゅっと抱きついた(思い返すだけで死にたくなった)。
『なんだ』
『こうして寝るの、好きなんれす。えへへー』
人の温もりに心地よくなる。しかも、どうしてだか眞人さんの大きな体はとても抱きつきやすくてしっくりときた。寄り添うだけで、途端に眠たくなってくる。いや、アルコールのせいも大いにあったのかもしれないけれど。
『では、おやすみなさい』
そう呟いた、つもりだったけれど果たして言葉になっていただろうか。
多分わたしは、テレポーテーションでもしたんじゃないかというくらい早く、眠りの世界に落ちた。眞人さんにしっかと抱きついたまま。
「あー……」
頭を抱えた。
なんてことをやらかしたのか、わたし。
最低だ。最低。
いくら酔ってたからといって、これはない、これは。出会ってまだ一日足らずの、しかもこれからお世話になるというひとに、なんてことを!!
いますぐ自爆したいくらいの居た堪れなさにうなり声をあげて身悶えしていると、体に回された腕にきゅっと力が入った。
「ん……、うるせえぞシロ。静かに寝ろ」
まだ明け方だろ、と頭の天辺で声がした。頭に眞人さんの顔が押し付けられるのが分かる。
「は、はひ……」
一気に、頭まで血が逆流した。
な、なんなの! なんだかすっごく照れるんだけど!
フリーズしてしまったわたしに、眞人さんは「いいこだ」と寝ぼけたような声で言って深く息を吐いた。
お眠りあそばされたらしい。
「あ、あわ……」
声にならない声が漏れる。心臓がバクバクと動きを早める。
この状況を作ったのは間違いなくわたしだけれど、この状況についていけない。
ああ、なんてすごい状況になっちゃってるの!
逃げ出したい、いや、いますぐ眞人さんに土下座したい。だけど、これ以上眞人さんをわたしの勝手で振り回してもよくない。彼の言う通りまだ明け方のようだし、前夜は遅くまで起きていたし、まだ眠っていたいはずだ。
とりあえず、落ち着こう。わたしは必死に、呼吸と心を整えた。それには、結構な時間を要した。
「よし」
長い時間の後、わたしは小さく呟いた。そっと息を吐く。
まずは、状況把握だ。眞人さんは、わたしを背後から抱きかかえるようにして眠っているようだ。大きな体にすっぽりと包まれている感覚がある。眞人さんの顔はわたしの後頭部辺りにあって、穏やかな寝息が感じられる。
そろそろと手を伸ばして、胸元に回された腕に触れてみた。服越しでも、筋肉をきちんと纏っているのが分かる。考えてみれば、わたしをこともなげに抱え上げたのだから当然かもしれない。
「……どうしよう」
わたしは、思わず声を洩らした。
どうしよう。こんな時に何を考えているのかって話だけれど、これ、すごく安心感があってすごく心地いい。達也にも感じなかった、妙な適合感があるのだ。わたし、この人の腕の中、すごく好きかも知れない。ていうか、好きだ。
……って! いやいやいや! 達也に振られたばかりで、いきなり心変わりとかそういうのじゃないから! 眞人さんのことは嫌いじゃないし、いいひとだとは思う。もしかしたらこの先好きになる可能性だってあるかもしれない。
だけどいまの『好き』というのは単純に、『居心地の良さ』に関してだから! この腕の中の安心感、本当にとんでもないから! 間違いなく極上に分類されるソレだから!
誰に言うでもなく、いや、自分に言い聞かせていたのかもしれない。とにかく、そう頭の中で叫んでから、わたしはそっと体の力を抜いてみた。いままでは緊張感が抜けなくてどこか力が入っていたのだ。
……うん、本当に、安心する。
不思議だけれど、ほっとしてしまう。目を閉じると、彼の鼓動とか吐息が感じられて、落ち着く。
そうして、無意識に目を閉じていたわたしはそのまま、眠りに引き込まれたのだった。
次に目覚めた時には、わたしはひとりだった。
障子越しにさんさんと光が差し込んできて、その眩さに目覚めたわたしは即座に周囲を確認したが、部屋にはわたししかいなかった。
「あれ……」
一体、どれくらい寝ていたんだっけ。ていうか、眞人さんは?
目を擦りながら首を傾げる。そんなわたしの鼻先を、美味しそうな香りが漂った。
そうか、眞人さんはもう起きたんだ。
「ええと、いま何時……」
壁にかけられた時計を見上げて、「ぎゃ」と声を上げた。もう、昼に差し掛かろうとしていた。
「は、早く起きなきゃ!」
飛び起きたわたしは、慌てて服を着替えたのだった。
「……おはよ、ございます」
挨拶をしなくちゃ。お詫びをしなくちゃ。だけど、どんな顔をしていけばいいの。恥ずかしくて死にそう。眞人さんだって、気まずい思いをしてるんじゃないかな。いくらわたしが迫ったとはいえ、何もなかったとはいえ、ひとつのお布団に寝ていたわけだし……。
そんな感じで扉の前で逡巡すること、十分。わたしは何度も深呼吸を繰り返したのち、そろそろと厨房の扉を開けた。
「おう、起きた? おはよ」
しかし迎えてくれた眞人さんは、ごく普通の様子で料理を作っていた。ことことと小鍋が煮立ち、蓋の隙間から湯気が上がっている。
「いま、昼飯作ってるから待ってな。簡単なものだけど、いい?」
「それはもちろん。あ、あの。昨日の夜のこと、なんですが」
もぐもぐと言葉を探していると、眞人さんが振り返って「俺、ガキのころ犬を飼ってたんだわ」と言った。
「へ? は、はあ。犬ですか」
「そう。サチっていうプードルなんだけど。すっげえ可愛がってて、あいつも俺に懐いてて。いつも一緒に寝てたんだよ」
眞人さんは懐かしそうに目を細めた。
どうしていまここで飼い犬の話を? と首を傾げてしまうが、わたしは黙って頷いた。
「冬になるとすげえあったかったんだよなあ。でさ、昨日、サチの夢見た」
「は?」
「シロって、サチと毛並みが一緒なんだなー。そのふわふわした頭の感触で、思いだした」
しみじみとそう言って、眞人さんは笑った。
「よく寝られた。ありがとな」
「は、はあ」
予想外の言葉をかけられて、目をぱちぱちさせる。犬。犬かわたし。まあ、いいけど。
あ! ああ、なるほど。わたしのことを女として意識してないから大丈夫だって安心させてくれてるのか。気にするなって、そういうことか。
……いいひと! 眞人さんってすごくいいひとだよ! 聖人!
はわわ、と感激するわたしをよそに、彼は料理を続ける。気持ちが落ち着いたからか、室内を満たす温かで美味しそうな香りに鼻がヒクヒクと動いた。
「とりあえず、メシにしよう。酒、抜けてる?」
「あ、大丈夫です」
「ふは、強いな」
それから、眞人さんと向い合せで食事をした。
お酒の飲み過ぎで胃が疲れているだろうから、と彼が作ってくれたのは鮭雑炊で、これがまた優しい味で美味しい。丼に多めによそわれたそれを、わたしはぺろりと平らげてしまった。
食後には温かなほうじ茶を淹れてもらって、のんびりと飲んだ。
「あ。そういえば梅之介は?」
「あいつは休みの日は昼過ぎにならなきゃ起きてこない。よく寝るんだ」
昼の営業後に昼寝もするし、夜の閉店後には食事をして早々に寝るのらしい。睡眠時間が足りないとイライラするそうで、寝起きもよくないのだとか。子どもか、あいつは。
「腹が減ってもイライラするんだ」
「間違いなく子どもですね」
クスクスと笑い合っていると、件の人が大きな欠伸をしながら現れた。わたしと目が合うと顔を顰める。
「やっぱりいたか、シロ」
「あ、名前覚えてくれたんだね。おはよ、梅之介」
「はいはい、オハヨー」
眞人さんの言う通り、梅之介はわたしがここにいることを否定する気はもうないらしい。わたしの座っていたテーブルの近くに腰かけ、「ご飯ちょうだい」と眞人さんに言った。
「ちょっと待ってろ。ああ、シロ。後で家の中の説明するから、待ってろな」
「はい」
すぐに、厨房に眞人さんが引っ込む。残ってお茶を啜っていると、「なあ」と梅之介が声をかけてきた。
「なに?」
「ひとつ、忠告しておく。眞人のこと、好きになるなよ」
「は?」
「あいつ、僕以上にひと嫌いなんだ。他人から好意を向けられたくないと思ってる」
「まさか」
思わずぷっと吹き出した。あんなに親切で優しいひとが、人嫌いなはずがない。だけど、梅之介は真剣な顔で続けた。
「お前、行くところがないんだろ? ここにいたいんだろ? だったら、僕の言うことをきいておけ。眞人のことを好きになったら絶対追い出されるから、好きにはなるな」
「ま、さか」
梅之介の表情に、冗談やからかいの色はない。だけど急には信じられない。
そんなわたしに、彼は肩を竦めてみせた。
「まあ、出て行きたいって言うなら、話は別だけど。僕はお前が追い出されても平気だし」
ふあ、と梅之介が大きな欠伸をする。とほぼ同時に、眞人さんがトレイを抱えて戻って来た。
「後片付けだけ頼むな、クロ。シロ、ほら、来い」
「は、はい!」
トレイを置いた眞人さんがわたしを手招きする。その表情はとても柔らかい。梅之介のさっきの言葉を疑ってしまう。だけど、彼も嘘をついている風ではなかったし……。
問うように梅之介を見たけれど、雑炊を啜る顔はわたしを見ることはなかった。
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