捨てられた女、それはわたし【9】
このお店は十時がオーダーストップ、十時半が閉店なのらしい。お客さんたちはそのギリギリの時間まで店に居て、「また来まーす」とにこやかに言って帰って行った。クロくんと眞人さんは店先に出て、それを見送っていた。
「あー、疲れた」
誰もいなくなった店内で、クロくんがぼやくのが聞こえる。
「今日、週の中日だぞ。こんな時間までここで飲んでて、明日の仕事は大丈夫なのかね、あのひとたち」
「さあな。クロ、食事用意するから、そのテーブル片づけろ」
そうして食器を持って厨房に来たクロくんは、洗い場の前にいるわたしを見て顔を思いっきり顰めた。
「そうだった、このファンキーブスがまだいたんだった」
「まだ洗い物ありますか? もうお客さんがいないんだったら、わたしも表に出て一緒に下げましょうか」
「もうないよ! お前はさっさとここを片づけ……」
シンクを覗き込んだクロくんがむっとした顔をする。
「だいたい終わりました。それを洗ったら終わりです」
勝手が分かってきたので、サクサクと終わらせることができたのだった。食洗機の中もすっかり空だ。皿洗い担当歴、結構長かったんだよね。
「……ああそう! じゃあこれも早く洗えよな」
「え、もう終わったの? 早いなー。ありがと」
眞人さんが顔を出して、驚いたように言う。
「お蔭ですごく助かった。すぐ食事の用意するから」
「あ、気にしないで下さい。お手伝いさせてもらったのは、お礼のつもりでしたので」
わたしのしてもらったことを思えば、こんなことはお礼にもならないだろうけど、気持ちとしてはすっきりした。
それにそろそろお暇しないと、真帆も待っていることだろう。少し行くのが遅れるとメールしてはいるけれど、あまり遅くなるのもよくない。
しかし、眞人さんが、「遠慮せずに食えよ」と言う。
「シロの分も準備してるんだ。さっきの里芋もあるし、海老しんじょもある。小海老のかき揚げを卵とじにするし、ビールも付けるよ」
「う……」
里芋二個食べただけだったお腹が、ぐるるると主張した。うわ、恥ずかしい! 慌ててお腹を押さえるわたしを見て、眞人さんが大きな声で笑った。
「悪いけど、そこの片づけだけお願いしていい? その間に用意してしまうから」
「は、はい。すみません……」
食事くらい、頂いちゃってもいいかな。いい、よね。真帆だって、わたしの分のご飯の用意しなくていいわけだし。
ていうか本音を言えば、食べたい。さっきの里芋をもっと味わいたいし、海老しんじょに至っては、実は皿洗い中ずっと食べたいと願っていたのだ。
「いやしんぼ。帰れ」
クロくんがそう言って、舌をべ、と出す。
「む」
何て冷たい言い方。今まで静かに受け止めて来たけれど、そろそろ言いかえしてもいいだろうか。いや、いいはずだ。だって、わたしはクロくんには全然迷惑かけてないもん。
「そういえばー、眞人さんから、わたしの勘違いを後で解くからと言われていたんですけど、聞かずに帰ったほうがいいですか?」
思い切って、言ってみた。
「勘違いしたままでもいいとクロくんが言うのなら、帰ります」
これは、結構な攻撃力だったらしい。彼は頬をかっと赤くした。どうやら、素の彼は感情がダダ洩れになりやすいらしい。
「ムカつく! なんだよ、ファンキーブスのくせに! だいたいな、クロって呼ぶな。お前に飼われた覚えはないんだよ!」
「え?」
首を傾げた私に教えてくれたのは眞人さんだった。
「クロって、俺がつけた名前。こいつは、名前を
「はあ」
飼い犬としての呼び名と言うことだろうか。
「眞人はいちいち説明しすぎなんだよ。いいか、クロって呼ぶな」
「じゃあ、梅之介くん」
「ふん、好きにしろ」
それからお皿の片づけをしている間に、表のテーブルには食事が並んだ。食べたいなー、と横目で見ていたものばかりだったので、ごくんと唾を飲む。
「こんなに、いいんですか?」
「賄い用に残してたやつだから、遠慮なくどうぞ」
と、テーブルの上には二人分しかないことに気付く。あれ? と店内を見渡せば、梅之介くんだけ、少し離れた席に座っていた。
「こっち、来ないんですか?」
「ブスの顔見ながら食べると、ご飯が不味くなる」
つん、と顔を背けた梅之介くんは、わたしに背中を向けて食事を始めた。
「気にしなくっていいよ。はい、お疲れ様」
「あ。いえ、ビールまで頂く訳には」
ジョッキに並々と注がれたビールを差し出されたので断ると、眞人さんが「俺に付き合って」と笑う。彼の前にはもうひとつ、ジョッキが置かれていた。
「あー、と。じゃあ、すみません。頂きます」
頂いたジョッキを、彼のものと軽くぶつけた。
「んーっ! 美味しい!」
よく冷えた琥珀色の液体はするするとわたしの喉を通っていった。喉が渇いていたらしい。
「じゃあ、頂きます!」
「どうぞ」
ほこほこと湯気を立てる海老しんじょをお箸で切り分け、口に運ぶ。
「んーっ! 美味しい! ふわふわだぁ!」
上品な味が口いっぱいに広がる。想像以上の味にほっぺたが緩む。そしてそれをビールで流し込めば、なんて贅沢なんだろうと思うくらいに幸せな気持ちになる。
「眞人さんの料理って、すごいです。美味しいです」
「いっぱいあるから、遠慮なく食って」
「はい!」
わたしの目の前に座った眞人さんの勧めるままに、存分に飲んで食べた。
「なあ、なんで行くとこがないなんて状況になってるんだ?」
半分ほど食べ進んだところで訊かれた。わたしが落ち着くのを、眞人さんは待ってくれていたらしい。
「言いたくないなら、無理にとは言わないけど。気になったもんだから」
「あー」
少しだけ躊躇う。だって、あまり口にしたくない情けない話だ。しかし、眞人さんになら言ってもいいかなと、不思議と思った。こんなにもよくしてくれるからだろうか。
ジョッキの中身を飲んで息をついたわたしは、「実は」と昨晩の話を始めた。
「……というわけで、あのリヤカーを引いて街を彷徨っていたんです。そこで美味しそうな匂いがして、天の助けだと思って、飛び込んだのがここです」
やっぱり言うのが情けなくもあるし、思いかえすのも辛い。気を緩めたら涙さえ出てきそうで、それを誤魔化すためについついビールを飲み進めてしまう。ジョッキはすっかり空になっていた。
「まじか。それ、キツイな」
眞人さんが目を真ん丸にして言う。
「はあ。しかも、彼氏の好きになった女っていうのがお店の後輩で、昨日から同棲を始めたんですって。今朝出勤したら、その子からはっきりと『盗っちゃいました』と言われました。わたしがこの店でおうどん食べながら泣いてるころ、ふたりでクリスマスを過ごしてたってわけですね」
「なんだそれ」
言いながら立ち上がった眞人さんが厨房の方へ消えていく。戻って来た彼の手にはビールの注がれたジョッキがふたつ。ひとつをわたしにくれて、彼はまた座った。
「それで、その女に文句は言った?」
「いえ。もう、言っても仕方ないですし。というより、どう言っていいのか分かんないんですよね。盗られた方が何を言っても、あの子に傷ひとつつけられない。言った分だけ、自分が傷つくだけでしょう?」
頂きます、とビールを口にする。喋りすぎたせいか、ごくごくと飲んでしまう。
「……だからって、黙ってるってのもないだろ」
別方向から声がして、振り返ると梅之介くんがわたしを見ていた。頬が赤いから怒っているのかと思えば、彼の手にもいつのまにかジョッキがあったので酔っているだけかもしれない。
そんな彼に頷いた。
「酷い話だし、ほっぺたくらいぶっ叩いてもよかったかなとも思うんです。けど、わたしが叩く前に友達がやってくれたし」
「自分でやることに意味があるんだぞ」
「うーん、まあそうかもしれないんだけど。でもその時はそこまでできる元気が出なかったんですよね。わたしが一番傷つく方法を考えて実行したんだろうなって考えちゃって……。そこまで嫌われてたなんて、本当に分からなかったから」
「単にその女の性格が悪いだけだろ」
梅之介くんがばっさりと切って捨てるように言うと、眞人さんが頷いた。
「そうだな。いくら嫌っていたとしても、そんなやり方はふつうしない」
「そうでしょうか……」
「つーか、その男も最低だよな。普通だったら、もっと綺麗に別れる」
梅之介くんが、ふん、と鼻を鳴らした。
「クズだ、クズ。お前の話聞いてたら、女の金で生活してるヒモみたいな奴じゃん」
「それ、よく言われます」
「どうしてそんな男と付き合ってたのか、理解に苦しむね」
「は、ぁ。ですよね。でも、好きなんです、よね」
嫌いになれたら、苦労しない。
「馬鹿だな、お前」
「あう」
言い捨てられた言葉が胸にぐっさりと刺さる。今日のわたしには、攻撃力が高すぎる。
「あれか、クズ具合を帳消しにするくらい、顔がよかったのか」
「うーん。悪くはない、程度ですかね。眞人さんや梅之介くんのほうが、だんぜんかっこいいです」
「ふん。僕レベルの男がそうそういてたまるか」
どこからそんな自信が湧いてくるのか、梅之介くんはさらっと言う。それから、「じゃあ何が良かったんだ」と訊いてきた。
「えーと……その。一緒に、寝てくれたんです」
少しの恥ずかしさを持って言うと、案の定「はあ?」と呆れた声を上げられた。
「何だそれ」
「ええと、だからその、ですね。喧嘩してても、機嫌が悪くても、とにかくどんなときでも一緒にベッドに入って寝てくれたんです。わたしが寝付くまで、こう、ぎゅっと」
すごく安心して、あったかい気持ちで寝られるの。一度、そう言ったことを達也はちゃんと覚えてくれていて、同棲を始めてからはずっと、そうして眠ってくれた。誰かの温もりや息遣いを感じながら眠るのはとても、心地よくて嬉しかった。達也は最後の晩も、そうして眠ってくれた。
「はあ? お前、ひとりじゃ寝られないの?」
「い、いえ。そう言うわけではないんです。でも、誰かの温もりを感じて寝るって幸せじゃないですか? わたし、誰かと一緒に眠るっていう経験をしたのが大きくなってからで、だからなおさら感動が大きかったのかもしれないんですけど」
わたしは、三歳のときに両親を事故で亡くしている。引き取ってくれたのは母方の祖父母だった。彼らはわたしに何不自由なく生活をさせてくれた。ふたりともわたしが高校生のときに続けて亡くなったけど、わたしが卒業して生きていく為に必要なお金を十分残してくれていた。そのお金のお蔭でわたしは高校に通い続けることができたし、卒業後しばらくは金銭的な苦労は一切せずに済んだ。祖父母にはどれだけ感謝してもし足りない。
そんなふたりが唯一厳しかったのが、スキンシップや子どもらしい甘えを許さなかったこと。
『私らは早くに死んでしまうけん、甘やかしたくてもそれはできんのよ。私らがいなくなったあと、ひとりでも生きていける強い子にするのが、私らの役目じゃけん』
万が一ひとりになっても、誰かに頼らず自分の足でしっかりと立って生きていけるようにならなくてはいけない。甘ったれに育ててしまえば、自分たち亡き後に苦労させてしまうのだから。
そんな考えの人たちだったので、わたしはどれだけ泣いても寂しがっても一緒に眠ってもらえなかったし、抱きしめてもらえなかった。カサカサの手でそっと頭を撫ることだけが彼らのスキンシップだった。
けれどそれはとても幸せな思い出で、たったひとつのふれあいだったせいか、はっきりと思いかえすことができる。わたしを撫でてくれる時の、優しく細められた瞳も、深く刻まれた温かな皺も。
ちびりちびりとビールを飲みながら、話す。
「だから、誰かと一緒に寝るっていうことを知ったのが、けっこういいトシになってからで。そんなんだから、固執してしまってたのかもしれないですね」
へへ、と笑うと、梅之介くんが「ふん」と小さく唸った。
「そんな裏事情まで、聞いてない。同情させようったって、そうはいかないんだからな」
「そんなんじゃないですよ、ただ、子どもらしいこだわりはそういう事情があるんですっていう話です」
でも考えてみれば、ちょっと湿っぽい話だった。場を白けさせちゃった、と反省する。あー、ビールを飲みすぎてるんだ。だからちょっと、おしゃべりになっちゃってる。
反省しているわたしの目の前に、ビールが置かれた。いつの間に取りに行ったのだろう、眞人さんが目の前に座り直すところだった。眞人さんがわたしに視線を寄越し、ぎこちなく笑った。その笑顔は少しだけ寂しそうで、やっぱり気を使わせてしまったのだと感じる。「すみません」と小さく頭を下げた。
「え、なにが?」
眞人さんが笑顔を作ってくれる。
「で、その男はそんな事情を知っておいて、それでも酷く捨てる真似をしたってわけだ」
「はあ、そうですねえ。だけど、それを知っているんだから別れずにいてくれ、なんて言えませんよね」
「まあ、なあ……」
わたしと眞人さんの間には、空のジョッキがむっつほど並んでいる。あの、もうそろそろ飲むの止めないと、と言おうとする前に、眞人さんに促されてしまう。そのまま飲んでしまうのは既に酔っているからなのか、わたしの目を覗き込んでくる眞人さんの目力に抗いがたいからなのか。
「ま、別れて正解だな。情も何もない放り出し方をするんだから、クロの言う通りのクズだ。しばらくは拘ってしまうだろうけど、そんなクズの為に悩むより気持ちを切り替えることに時間を使った方が、有意義だと思う」
「はい、ありがとうございます」
それはとても優しい言い方で、胸に滲みる。そうなのだ、いつまでもぐずぐず言うより、気持ちを切り替えるほうがよほど大事だ。
「眞人さんの言う通りです。これからいろいろ大変なのに、悩んでる暇はないのです。まずは、住むところから見つけなくっちゃ」
「あ、そっか。急に放り出されたって言ってたもんな。住む部屋、見つかってないの?」
「はい、そうなんです。しばらくは友達の部屋を渡り歩く予定です。明日からは不動産屋さん巡りです。引越しなんて考えてもいなかったので、お金が無くって。できるだけ安いところを探さなくっちゃ……」
通帳の残高を思いかえし、はあ、とため息をつく。アクセサリーボックスはやっぱりなくて、だから現金化できそうなものは何もない。いまは、どんな劣悪な環境な物件であっても、安さ優先。涙を飲むしかない。
ああ、明日からが辛い。思わずビールを飲む勢いがついてしまう。
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