Dolce notte.

猫村空理

こんにちは、おやすみ

 走馬灯を見た。鉄の味のする銃口を、唇に捻じ込まれている最中に。

 見えたのは、この娼館に来るとき故郷へ置いてきた、たった一人の弟の顔だった。子守唄の旋律にむずかって笑い、ことんと眠りに落ちる弟の、顔。

 他に大切な人も、忘れられない思い出もないわけじゃない。その中で弟の顔が過ったのは、私の生殺与奪の権を握る目の前の少年が、あの子と同じ年頃だったから、だと思う。きっと、十三歳くらいの。

 悪戯っぽく吊り上がった目元が似ていた。他は何もかも似ていなかった。貴族の子息と言って通りそうな、気品を備えた容姿。私たちとはまるで違う。

 引き締まった口元が聡明そうな少年だった。はしばみ色の瞳と髪が優しげだけれど、私を見下ろす視線には温度がない。その幼さで血と硝煙の匂いを香水の代わりにしていた。

 変声期前の声が気まぐれに降ってくる。

「お前、外の人間? そんなに真っ黒な眼の色、ここらじゃ見ないね」

 ぐりぐり、喉の奥へ押し込まれる銃の引き金には、すでに彼の指が掛かっている。

「可哀想にね、碌でもねえ貧乏暮らしから抜け出すために、こんなとこまでノコノコ出張って来たんでしょ?」

 何も。何も言い返せない。実際結構その通りだった。故郷の家族と自分の生活のためにはるばる国境を超えた。

 仕送り、届いていただろうか。金品なんて普通に送っても届くわけがないから、古着の中に隠していたんだけれど。

 頭が現実から逃げようとする。何か気に触ることがあれば、その瞬間に私の脳を彼の弾丸がぶち抜くのだろう。他のみんなのように。

 娼館の中で生き残っているのは私だけだった。仲の良かった子も、悪かった子も、女衒も客も全員血の海の中。慣れ親しんだけばけばしい内装は弾痕と血糊と肉片にまみれて再起不能だろう。

 騒動の間ずっと奥まったところで眠りこけていた私だけが、こうして猶予をもらっている。いいことかはわからない。

 なあ、と彼が急に鼻先を寄せる。

「考えたんだけど、お前、何か面白いことしてよ。気に入ったら命だけは助ける。ここの娼館は俺たちに黙ってクスリに手ェ出してたわけだから、俺の一存じゃどうにもならないけど、女ひとりならわけはないよ」

 さあさあと笑いながら急き立てる声。唾液に濡れた銃口が口から引き抜かれた。

 面白いこと。何か、私にできること。

 選ぶ余地はなかった。私が持っているものはあまりに少ない。

 薄手の衣の胸元を寛げた。少年は顔を歪める。

「お前、俺みたいなガキに色仕掛けするつもり? 思ったよりつまんないな」

 黙って彼の首筋へ手を伸ばした。かちゃり、彼の銃が鳴る。その銃身ごと少年の身体を胸に抱き込んだ。子供特有の高い体温が肌を炙った。様子見のつもりか、彼が動く気配はない。

 ぽん、ぽん、とその背中を、軽い力で叩いた。一定の速さで、弟にしていたように。少し、抱きしめた肩が身じろいだ。

「……何のつもり」

「……弟は、こうするとよく笑いました。泣いているときは泣き止みました」

「俺はお前の弟じゃないって、わかってる?」

「私は、この身体と故郷の思い出しか持っていません。できることはこのくらいです」

「ふうん」

 私の胸に収まったまま、彼の顔だけがこちらを向いた。色彩だけは穏やかな目が、爛々と光っていた。

「いいね。決めた、お前は今日から俺の、ダリオ・デ・シュヴァインベッカーの、情婦だ。落胆させないでよ、おねーさん?」

 にい、と裂けるように口の端が吊り上がった。あまりにも凶悪なそれが彼の満面の笑みだと知るのは、もう少し後のことだった。


 身を清められ、着替えさせられてから、迎えに来たダリオに手を引かれてあるアパートメントの一室へ。それなりに広く、調度が整った部屋だった。

 並んで立つとほんの少し背の低いダリオが、私を見上げて言う。

「ここが、俺の部屋。それで、今日からはお前の部屋でもある」

「同じ部屋ですか?」

「ペットみたいなものでしょ。わざわざ部屋一つ与えることもないと思ってさ」

 促されるまま歩を進め、ベッドに腰掛ける。かなり大きいけれど、今まで一人でこれに寝ていたんだろうか。

 寝具の柔らかさが腰に伝わる。部屋中からうっすらと、染み付いた火薬の匂いがすること以外は案外落ち着くところだと思う。

 手早くスーツを脱いでラフな格好になったダリオは、さっさと寝具に潜り込む。そして私の腰を掴むと、ずるずる布団へ引きずり込もうとする。

「な、なんです」

「寝る。もたもたするなよ」

 この子は今日だけでもたくさんの人を手にかけていて、それは許されることではなく。

 けれど、ダリオの声音が本当に眠気を含んでいたので、私は彼と同じ寝具に滑り込む。考えてみればもう夜も深い。子供は寝る時間だ。

 私の身体に彼の手や脚が絡んだ。鎖骨あたりに少年の髪が触れてくすぐったい。その髪の間から、若干閉じ気味の瞳が覗いた。

「……お前、名前、なんだっけ」

「え?」

「聞いてなかった気がする、名前……ぁふ」

「……ヴェラです」

「ふうん。ヴェラ、ヴェラ……」

 舌に馴染ませるように、彼は何度も私の名前を呟く。背に回された腕の力がわずか強まった。

「ヴェラ、ぎゅってして。俺、お前の腕、嫌じゃないんだ」

 何でだろうなあ、と少し間延びした声で言う。眠さでぽかぽか温かな身体を、私は言われた通り抱きしめる。

「俺さ」ダリオの荒れた唇が胸元に擦れた。「子供扱いされるの、嫌いだし、そういうやつらは全員潰して生きてきたのに。お前のことは、別にいいんだ。どうしてかなあ……」

 ふわふわ浮き沈みする口調。もう寝ましょうと肩を叩く。頷く仕草は初対面よりずっと幼い。

「まあ、悪くない買い物……かもなあ。抱き枕……」

(抱き枕……)

 情婦、と呼ばれて多少の覚悟もしていたけれど。それほど酷い目には、遭わないようだと思った。


 ダリオは「俺から逃げたら殺す」と、それだけ私に言った。逆に言えば、逃げること以外の何も禁止されていなかった。試されているのだろう。

 抱き枕としての生活は、娼館にいた頃よりもよほど快適だ。囲われているだけの身分なのに、多少の給金ももらえた。故郷への仕送りもできていて、待遇へ不満はなかった。

 わずかな家事以外にすることもないので、最近はよく公園に行く。野良猫が一匹住み着いていて、あまり懐こくはないけれど可愛い。こちらが必死に鳴き真似をしても一瞥もくれないので、少し意地になって通っている。

「にゃー、にゃーん。なおー。……すみません、聞こえてますよね……」

 猫語も人語もなしのつぶて。はあ、と肩を落とした時、唐突に自分の身体が浮いた。

 慌ててもがくけれど、脚が地面につかない。

「な、なっ……?」

「あんたがダリオの女? なんかとろくさくねえ?」

「ええと……?」

 首を無理やり捻って背後の人物を見上げる。見知らぬ青年が私を見返した。彼の腕に腰を持ち上げられているようだった。

 特筆する所のない顔立ちの真ん中を、横一文字に傷痕が横切って剣呑な雰囲気を生んでいた。醜い縫合痕のせいで引き攣れたような笑い方をする。

 私を離さないまま、彼は軽薄な口調で話しかけてくる。

「あんた、ちょっと一緒に来てくんない? 嫌って言ったら殺すけど」

 あまりにも物騒な発言。どうやら、堅気の人間ではないようだった。


 連行されたのは、街の随分奥まったところにある一軒家。リビングのソファの上に、乱雑に転がされた。

 身を起こして、周囲を見回す。色気のない調度の部屋だ。

 彼は私に背を向けて戸棚を漁っているけれど、逃げようとしたらその瞬間に捕縛される気がする。身のこなしや身体のつくりが、どこか一般人とは違う。

「ここは……?」

「オレん家。てか親父ん家。実家暮らしなんだよねーオレ。ダリオはさっさと出てったけどさ」

 ヒヒ、と唇を吊り上げて野卑な笑い方をする。戸棚から見つけ出したものを、彼はテーブルの上に置く。それは角が少々ひしゃげた、トランプの箱だった。

「遊んで待ってようぜ。ババ抜きか? ジンラミーがいいか?」

「……似てますね、ダリオと」

 凶悪な笑い方、それから突飛な言動。

 虚を突かれたように、目の前の人は瞬きをする。

「誰が? オレが? 血ィ繋がってないんだけどなあ。まいいや」

 彼は取り出したトランプの束を雑に二等分し、片方を私へと寄越す。本気でゲームに興じるつもりらしい。状況が全く掴めない。

 とりあえず手札からペアを抜きつつ、上目で彼を伺う。

「あの、私、どうしてここに……? 待つって、何をですか」

「まー、ダリオが最近女囲ってるって聞いたからさ。その後生大事にしてるらしい女攫ってきたら、どんな顔してここ来んのかなって、気になっただけ。だからあんたはただのとばっちりだな」

 ペアを捨てていた彼は、お、ジョーカーじゃん、と自分の手札を笑う。五十三枚を二人で分けた訳だから、整理してもまだ大量に手札が残っている。

 差し出された彼の手札から一枚引く。ハートのエース。

「……でも、私を迎えになんて、来るんでしょうか」

「さー? でもあいつ、拾った動物のことはちゃんと世話する方だぜ。動物なんて気づいたら死んでるモンだし、ダリオもよくやるよなあ」

「……あなたとダリオは、兄弟?」

「義理ー」

 私の手札も、向こうの手札も一向に減らない。こんなことをしている場合じゃないのに。早く帰らなければ、逃げたと見做されて殺されるかもしれない。

 焦る指先が、青年の手札の一つを引き抜く。彼の口元が裂傷のような笑みを形作った。

 ぱんぱん、と乾いた拍手。

「ジョーカー、おめでとう」

 その時、突然エントランスから激しい衝突音が聞こえた。

 建物が揺れる。多種多様なものの壊れる音が、隣室からでもはっきり聞こえた。

 それから、少年のかん高い哄笑も。

「ハハハハ、素晴らしいファンタスティコ! 風通しのいい家になったな糞ったれ!」

「ダリオ、やっと来たなあ」

 傷痕の青年はそうひとりごちた。なぜかどことなく楽しそうに。

 そして自分の手札を床にばらまくと、流れる動作で私をソファに押し倒す。お腹の上に彼の腰が据えられて、押し返してもぴくりともしない。

「何です……」

「こっちの方が楽しいだろ? あいつ絶対怒るから」

 無骨な手が私の服の胸元を掴んだ。かすかに繊維の悲鳴が聞こえる。

 そして、少年の人影がリビングに飛び込んできた。


 それから、ダリオの銃乱射騒ぎ、エントランスの扉を突き破り停まっている車を見た青年の爆笑呼吸困難騒動など、様々あったのちになんとかダリオの部屋まで帰ってきた。

 私は結局トランプをしていただけだけれど、なぜかへとへとだ。部屋に足を踏み入れ、一度深くため息をついた。

 隣から、はしばみ色の鋭い視線を感じた。

「……ヴェラ、お前あそこで何やってたの。なんであんなとこに居たんだよ」

「あの、猫を見ていたら連れ去られて……それからずっとトランプを」

「トランプであんな体勢になる訳ないだろ。ヴェラ、俺を騙そうとしてんの?」

 正気かよ? と彼は歯を剥いて嗤った。

 まずいところを踏み抜いたようだ、とうっすら感じる。本当のことしか言っていないけれど、これほど真実味のない真実も珍しい。

 ベッドへ突き倒され、跳ねるような動作で少年が私の上に乗り上げる。

 こういう体勢、今日二回目だ。義理でも兄弟は似るものだな、と妙に冷静に思う。

 胸ぐらを掴まれて、背中がシーツから浮く。

「俺、お前に甘くしすぎたかな。抱き枕だなんだってぬるいこと言って。それともそんなに溜まってたのか、娼婦さん。ここで俺に犯されれば満足か?」

「そ、んな、ことは……。嘘も、ついていません」

「……どうせできないって思ってんなら大間違いだから。俺みたいなガキでもお前を押さえることくらいは簡単だし」

 彼の端正な顔がぐぅっと距離を詰め、鼻が触れ、唇が触れた。舌が這入り込んでくる。溺れるような、深い口付けだった。銃口を押し込まれた時に似た脳のひりつく感覚。

 唇を離した彼は、唾液で濡れたそこをぐいと拭った。

「……キスの仕方も知ってる。ヴェラ、お前みたいに馬鹿な女を、何人か陵辱したこともあるよ。女には結局一番アレが効く。泣いて、喚いてさ……」

 ダリオは何かを思い出すように目を細めてクツクツ笑った。自暴自棄な笑い方だった。

 そうして私の肩をベッドへ押し付ける。シーツから嗅ぎ慣れた、ダリオと、それから私の匂いがする。

「すぐにお前もそうなるよ。気持ちいいことなんてしないから」

 彼の、粒の揃った歯が首筋へ噛み付いた。痛い。私の身体の線を探る、歳よりは大きな、けれど子供の手。

 私へ覆いかぶさるダリオの背へ、腕を回した。彼は拒まなかった。

 頬を擦り寄せて、ぽん、ぽん、と背中を叩く。

「眠れ、私の愛しい子……」

「何、それ。子守唄?」

「……そうですね」

「お前、状況わかってんの?」

「はい。わかっていますよ」

 ダリオはいつも、大人になろうと足掻いている。

 少年の羽化は凶暴だ。周囲にも、本人にとっても。それでも彼は、急いで成長しなければいけないのだろう。殺して、犯して、奪わなければ、被害者に回るだけだから。

 私は、そんな彼の子供で居られる時間を守りたかった。彼が年相応に生きられればいいと、いつしか願っていた。必死に、貪るように睡眠を取る彼を、胸に抱き幾夜も超えて。

 弟に重ねているのだろうか。愛しているのかもしれない。ただ、健やかに生きる権利を彼から奪いたくない、奪わないでほしい、今はそれだけだ。

「欲求不満でもないし、嘘をついてもいませんけど……身体なら、いつでもあげます。ずっと私はここにいますから……ゆっくり大人になりましょう。ダリオ」

 子供は、もう寝る時間ですよ。

 耳元で深いため息。徐々に彼の身体から力が抜けた。

 ぶつぶつ悪態をつきながら、彼は私の首元に顔を埋める。

「なんか萎えたし、今回はもう、いいけど……今言ったこと、忘れるなよヴェラ。お前は、俺に誓ったんだ……」

 そう言い残して、眠り目の人形のように、彼は綺麗に瞼を閉じる。呼吸が穏やかな寝息へと変わっていく。

 慎重に彼をベッドに横たえ、額の髪を払う。温かな彼の手を握り低く子守唄を歌った。

 眠れ、私の愛しい子。これは、きっと私の祈りだ。

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Dolce notte. 猫村空理 @nekomurakuri

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