第182話 のどかな村
湖の村は、人口百人程度の小さな集落であり、その豊かな水源を利用した染め物が有名である。深みのある藍色に澄んだ水色をぽたりぽたりと落とした柄は、童話城や童話市でも見たことがあるこの土地の名産品だ。諸国を回る行商人が旅の途中に魅せられて、文化や技術を伝承していたに違いない。
家々の玄関口に垂れ下がる暖簾を見ながら、私はそんなことを思い出した。
村の生活レベルは、ヴェルトには失礼だけれど、お世辞にも高いとは言えない。
道路は舗装されておらず砂利を敷いただけだし、家の造りの大半は木製だ。今どきどこの街でも見かけたガス灯さえ、大通り沿いにすら存在していなかった。代わりに三本の金属棒を交差させた松明台が並んでいる。暗くなり始めた街路の向こうから、頭に鉢巻を巻いた男が近づいて来て、火を灯して去っていった。
「のどかなところだね」
「あぁ、そうだな。……一年前と変わらねぇ」
私のひねりのない感想に、いつものケチは飛んでこなかった。
見上げるとヴェルトは、少しほっとしたような表情をしている。自分の村の無事に、心が緩んだのかもしれない。
私たちは村の入り口で馬を降りると、寄ってきた童話軍の兵士に手綱を預けた。レベッカ隊の兵士のようだけれど、当たり前のように私を王女だと認識はできないようだ。レベッカに同行者がいたことに驚いたようだったが、声を掛けることもなく不思議そうな顔で見送ってくれた。
砂利道を歩くと、久々の地面に足が喜んでいるのを感じた。酷使され続けていたお尻は、もう勘弁と悲鳴を上げていたので、二本の足で歩くのがちょうどいい。
でこぼこした感触を足裏で感じながら歩いていると、いくつかの視線を感じる。敵意や警戒の眼差しではない。もっと温かい何かだ。
そのうち、見ているだけでは耐えきれなくなったのか、お婆さんが一人近づいて来て声を掛けた。
「レベッカさん、おかえりなさい。長旅お疲れ様だったねぇ」
一人来ると、その後は躊躇がなくなった。
「疲れただろう、うちでご飯食べて行っておくれよ」
「姉ちゃん、また王女様の話聞かせてよ!」
少年から老婆まで、老若男女問わず話しかけられるレベッカは、この村に十分受け入れられているみたいだ。自分のことのように嬉しくなる。……少年の発言が、若干気になるところではあるけれど……。
その全員にレベッカは手を振り、
「やぁやぁ。あたしのお帰りだよん。ちょっと急いでるからまた今度ね」
と言って、やんわりとお断りをしていた。それが、ヴェルトに対する配慮であることは言うまでもない。
集会場は村の中心に位置している木造の大きな建物だった。
これまで見たどの建物よりも古く、大きな広場を占拠して悠然と佇んでいた。周囲には綺麗な花壇が整えられていて、寒さに強い植物が、明日の準備のために花びらを畳み始めている。敷地に点在する分厚い幹の樹木は桜かな。きっと春には桃色のトンネルが出来上がるのだろう。
レベッカは迷うことなく集会場のドアを潜った。ヴェルトも自然に入って行くので、私も遅れないようについて行った。
入った瞬間、焦げた匂いが鼻を突く。
古い木造建築特有の暖かな雰囲気に混じる、異質な臭い。小規模であっても放火されたんだという事実が、私の中で急激に現実味を帯びる。背筋がピンと張った。
生活感が染み付いた受付と待合用ホール。軍服を着た何人かが忙しなく行ったり来たりするのを横目に、私たちはそのわきを抜けて現場を目指す。
ギイギイと音の鳴る廊下を進ドアの上には『執務室』というプレートがかかっていた。
「さて、ヴェルト君。あたしはここから軍人だよ。仲良しごっこはおしまい」
「いつ仲良しになったんだよ。真面目に仕事してくれ」
「うん。大丈夫そうだね。リリィちゃん、よろしくね」
「え? うん……」
レベッカは私が頷くのを確認すると、ノックもせずにドアを開けた。
「たっだいまーっ。あたしが帰って来たからにはぁ、もーダイジョウブっ! 完全無敗のレベッカ様の、ご到着だよっ!」
今の、どういう意味だろう。快活に叫び上げるいつも通りのレベッカの横顔を追って、私は不安な気持ちに囚われた。
「おぉ、レベッカ! 帰ったか!」
「……ここはお前の私室じゃない。ノックをしろ、ノックを」
「まじか。このねーちゃん、もう帰ってきやがった……。信じらんねー」
ドアの向こうから様々な反応が帰ってくる。私もレベッカに続いて中に入ろうと思ったけれど、ヴェルトは足を動かそうとしない。
「入らないの?」
「今は軍人さんに任せるさ。サプライズゲストは、タイミングが重要なんだ」
ヴェルトはそう言って、煙の臭いが燻る室内に、遠い目を向けた。
み、レベッカは一番奥の部屋の前で歩みを止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます