第167話 院長室 その①

 三階に到着する。階段近くの案内図を見ると、ここは小さな病室がずらりと並んでいるようだ。柱の影から頭を出して覗くと、長い廊下の両側に等間隔で白いドアが並んでいた。沈殿した空気、張りつめる無音。ドアは全て閉まっていて、私たちが通るのを待ち構えているようにも見える……。思わず肩が震えた。


「カラテアはどこにいるんだろう」

「たぶん、ここだな」


 それらしい部屋が見つからなず何度も視線を往復させて確認していたが、ヴェルトは迷う素振りもなく一点を指差した。そこは、病室が並ぶ廊下とは少し離れた渡り廊下の向こうにあった。


「院長室……」

「舞台としちゃあ整ってるじゃないか」


 院長室への入り口は渡り廊下一か所であり、その向こうに部屋はない。階下へ降りる階段も描かれておらず、渡り廊下さえ封鎖してしまえば空中の孤島と化す。


「何でこんな不便なところに院長室を作ったんだろうね?」

「そりゃあ決まってるだろ。籠城するためさ」

「籠城?」


 作ったのは十年前、フェアリージャンキーが童話の国で流行った頃の訳だから、その時の院長が籠城しようとしていたということか? どうして?


「当たり前だがね、フェアリージャンキーは始め、フェアリージャンキーと認識されてはおらんかった」

「ん? どういうこと?」

「理性を失い凶暴化した人間。それが、国民が最初に罹患者に抱いた印象なんだよ」


 想像する。原因もわからず、意味不明なことを叫び暴れ回る人たち。それを収容しようとする施設を立てるとなったら、治療するよりも先に自身の安全を確保しなければならない。今でこそ童話が原因であるとわかっているが、当時は自衛が第一だったのだろう。厳重な安全対策がなされた結果が、ここにも残っている。


「ここで働く医者たちは、いざとなったら渡り廊下を落として籠城し、軍の助けを待つつもりだったのさ。もちろん軍もそのつもりで医者を働かせた」

「……」


 目を凝らしてみると、明らかに事故でできたのではない傷跡がいくつも見て取れる。治療する側も命の危機と隣り合わせ。今はしんと静まり返っているこの廊下も、当時は阿鼻叫喚が跋扈していたのかもしれない。胃の腑に溶けた鉛を流し込まれたような気分だ。

 紅葉した木々を見下ろす窓から、煉瓦造りの洒落た建物が見える。場所はさっきの食堂の真上あたり。あれが院長室のようだ。


「逃げ場のない場所で待ち構えるってことは、十中八九罠を張っているんだろうな。退路がなくてもこの状況を切り抜けられる算段があると」

「そうだねぇ。学者も魔法使いも本来は研究工房に籠るインドア派だよ。自分のテリトリーに誘い込むのが定石ってもんさね」

「ったく、そんな状況で正面突破しなきゃならんとはな」


 ヴェルトは一度大きく息を吐き出すと、「行くぞ」と言って気を引き締めた。キャメロンを胸元で揺らしながら、私もその後に続く。

 踏みしめたガラスが割れた音に身体が固くなる。窓を叩く風が襲い掛かろうとしているように感じる。

 遠目からでは気が付かなかったけれど、この廊下の部屋は、全て外側から鍵をかけられるようになっていた。ドアノブが壊れて向こうが見える部屋もある。

 突然フェアリージャンキーが飛び出して来ませんように……。

 私は片手でヴェルトの服の裾を、もう片方の手でキャメロンを握りしめて、必死に祈った。

 祈りが通じたのか、想像したゾンビ童話のような展開はなく、何事もなく廊下を渡り切った。

 白い廊下の先。木製の分厚い扉を押し開けると、冷たい風が足元を吹き抜けた。

 細い木製の橋が、向こう側にある六角形の建物へと続いている。壊すことを前提に作られていたのか、今にも崩れそうなほど老朽化が進んでいた。




『院長室』

 くたびれた看板にかろうじて残る文字がある。

 かつては国の為、国民の為、身を粉にしてフェアリージャンキーと闘った場所。

 今は、新たなフェアリージャンキーを生み出すカラテアの工房。

 ヴェルトがゆっくりと扉を開ける。

 中からは暖かな橙色の光がこぼれて来た。

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