第127話 悪い知らせ その①
気持ちが悪い……。
原稿を放り出して、私は両手で口元を抑えた。込み上げてくるものを喉の辺りで必死に抑えた。悲しいわけでもなく、まして嬉しいわけでもないのに、涙がこぼれるのを止められない。
「無理すんな、嬢ちゃん。俺様のこと、わかるか?」
「ガロン。キャメロンに宿る変な存在」
「おーけー。それだけ言えりゃ上等だ。嬢ちゃんまでフェアリージャンキーになっちまったら手に負えねぇからな」
「……ならないよ。私はこの物語に、感情移入はできないもん」
学術的な価値があるのはわかる。童話は全てがハッピーエンドではないし、楽しい結末以外でも面白い童話はたくさんある。そういった視点で見れば、挑戦的で童話界に一石を投じる作品と言えるだろう。
私は童話と名のつくものをえり好みしない。表紙やタイトル、挿絵や文体などで敬遠してしまっては、せっかくの面白い作品を見逃してしまいかねない。そういった作品は癖が強いだけで、慣れてしまえばその癖も味に変わるものなのだ。
でも、好き嫌いは別だ。結末には納得できないし、ヒツジの偏愛を理解することは常人にはできない。
ただ、これがポラーノ氏の持ち味という気もする。初期のヘンシュウの手が入っていない童話は、こういった暗い感じの結末が多かった。歪の天才と呼ばれ始めた頃から、こういった尖った作品は生まれなくなった。案外、ヘンシュウが入ることによって温くなってしまったポラーノ氏の作品を読んだ読者が、皮肉を込めて付けた名前なのかもしれない。
オリジナル作品が本来の持ち味なのだとするなら、出版されている童話は歪に映る。
「ヴェルトに、伝えなくちゃ」
私は立ち上がった。膝が震えてうまく立てない。冷たい石の壁に片手を突いて、テーブルに置きっぱなしになっていたキャメロンを首から掛ける。ランタンを手に取り、散らかった部屋を一瞥した。
「うん。今はヴェルト優先。片付けは全てが片付いた後にするから」
扉を閉め、私は数刻ぶりに外の世界へと戻った。
書斎の外は既に夜だった。日はとうに落ちていて、灯りのない書庫はしんと静まり返っている。無情な暗闇をランタンの光で切り裂いて、私は書斎の入り口まで歩いた。
ヴェルトはどこだろう? レベッカはレモアを連れ戻せたかな? バートは無事マムのお説教をやり過ごせたかな?
童話の世界に浸っていたから、書斎にこもる前の出来事が、ずっと昔のことのように思えてくる。でもたった数刻前。現実世界で起こっていた出来事なんだ。
ランタンを元の位置に戻し、中の蝋燭を吹き消した。手探りで扉の取っ手を握ろうとしたとき、私が掴むよりも先に取っ手は自動的に動いた。
あれ? 誰か来た?
私が一歩引くと、扉はゆっくりと開き、小さなシルエットが現れる。
「え?」
「ん?」
悪ガキ組の最年少、小心者のロニーだった。額から汗を流して肩で息をしているけれど、何かあったのかな?
私が声を掛けようとしたところで。
「う、うわぁあああ。いたぁ!」
「え? え? いたけど。いたらだめだった?」
「ほ、本物だぁ!」
「本物だよ。私の偽物がいてたまるか!」
王女の影武者など陰謀の匂いしかしない。
ロニーは膝を手で支えて息を整えている。話さなければいけないことがたくさんあるはずなのに口が回らず大層苦しそうだった。私は中腰になって、ロニーの肩を叩いてやった。
「落ち着いて、ね。私はどこにも逃げたりしないから」
私も忙しい身の上であるけれど、必死になっているロニーを放り出してヴェルトを探しに行くわけにもいかない。
ロニーはおずおずと切り出した。
「えっと、リリィさんはずっと書庫にいたの?」
「うーん。大体そんな感じ」
「他の人は?」
「他の人? 私は一人だったけど」
「そう、なんだ」
「どうかしたの?」
「えっと、えっと……」
組んでいた指をくるくるさせながら、ロニーは必死で言葉を探している。耳をすませば、廊下の向こう側からは、子供たちの足音や誰かを呼ぶ声が聞こえてきている。マムの声も聞こえた。孤児院全体がにわかに騒々しい。気が急いているのはロニーだけじゃなさそうだ。
「夕食の時間になったけどね、みんな食堂に集まらなかったんだ。だから心配になって探すことにしたんだよ。……みんなって言うのはね、バートと、リリィさんと、ヴェルトさんと、レモア」
「四人も……? 一人は私だけど」
「あ、えっと、内緒だけど。バートもマムから逃げてるだけだって言ってた」
「ああ、うん。その事情もなんとなく分かる」
マムのお説教から逃げているだけだろう。バートのことは心配ない。
でも、あとの二人はばっちり問題だ。ヴェルトとレモアなんて、私が一番危惧している組み合わせじゃないか。
「お客様がいなくなるなんて一大事だ。探さなくちゃって! マムが。レモアも最近おかしかったから気になるって。僕たち、まだ夕食を食べれていないんだ。リリィさんだけでも見つかってよかった」
「ごめんね。心配かけたね」
心配顔のロニーの頭を、優しく撫でた。
「レモアはまだ帰ってきていないんだね? それなら、私に心当たりが……」
「ううん。レモアは帰って来たよ」
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