第三章 塩の街のアリッサ
第20話 鐘の音が響く街
それからの十日間が、私にとってどんなに壮絶なものだったかは筆舌に尽くし難い。童話の英才教育を受けてきた私が、その光景を表現できないというのだから重傷だ。お城にいたら絶対ありえない苦労や苦痛を、まとめて十日間に詰め込まれた気分だった。
とはいえすべてが辛かったわけでもない。
たき火を囲んで眺める星空は、とても幻想的だったし、ヴェルトとガロンと夜遅くまでつまらない話をするのは楽しかった。遅くまで起きていてもグスタフのお小言は聞こえてこない。
お月様の明かりだけで童話が読めることも初めて知った。昼間の暑さが嘘のように引いた河原で、リーンリーンと合唱する虫たちの声を聴きながら読む童話も、なかなか粋なものである。いつの間にか寝てしまった私に、これまたいつの間にか毛布が掛けられているのも毎夜のことだった。
そんなこんなで、『あひるの王子とあやかしの森』をはじめリュックサックに入れてきた童話をすべて読破する頃、私たちは目的地、塩の街に到着したのだった。
「ついたー! これが、海っ!」
照り付ける太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く大きな青い水たまりが、白い街の向こうに広がっている。見渡す街と海のコントラストが美しい。
人生に疲れた大人に捧ぐ、がキャッチフレーズだった童話『鐘の鳴る坂を登る』の舞台となった、塩の街。運命に抗う男女の葛藤を描いた繊細なストーリーに、私も胸打たれたものだ。遠くから聞こえてくる重厚な鐘の音は、期待で高鳴る私の胸をさらに震わせる。
体の疲れも、腕の切り傷も、足の痛みも、喉の渇きも、数日分の空腹も、髪のごわごわも、お風呂に入れない気持ち悪さも、魚を掴んだ時のヌルヌル感も、ウサギをさばいた時のグロテスクな気持ち悪さも、蛇に襲われたときの恐怖心も、イノシシが突っ込んできたときの臨死体験も、ヴェルトにからかわれたときの屈辱も、ガロンにからかわれたときの屈辱も……。全部忘れられるような清々しさがここにはある!
「いい景色じゃねぇか。海を見るのも久しぶりだぜ」
「ガロンも来たことあるの?」
「ああ。いつだったか忘れちまったけどな……」
しみじみと懐かしむガロンに身体があったなら、咥え煙草をしながら黄昏ていたことだろう。
十日ぶりの人の賑わいが、潮風に乗って流れて来た。
「はやく行こう!」
「走るなよ、ポンコツ王女」
「ポンコツ言うなぁ!」
私は首から下げたキャメロンを振って、軽い足取りで歩きだした。
丘を下りて街へ入ると、まず驚いたのは匂いである。
「うぅ……。何この匂い。臭い……」
「鼻を摘まむな。ここに住んでる人に失礼だろ」
「だってさ……」
「磯の香り、だな。嗅覚のねぇ俺様にはわからねーけど」
さして興味もなさそうにガロンが解説をする。
まるで腐った食べ物がそこら中に散乱しているようだ。鼻が曲がるほど強烈な匂いなのに、行き交う人々は嫌な顔一つしていない。
「匂いもそうだけれど、建物も変わってるよね。みんな真四角で真っ白」
城下町の景色とは打って変わって、この街の家々は、みなそろって白いキューブ状をしている。小さく切り取られた窓とドアだけが海と同じ青色に塗られ、街並みの美しさを際立たせている。
「こいつぁ、石灰だな」
「石灰?」
「ここらで取れる鉱物の一つだ。防水性、調湿機能に優れてるってんで、海沿いの街にゃもってこいなんじゃねーのか」
「へー」
ガロンは時折とても物知りだ。
そりゃあ、私とは比べ物にならないくらい生きているのだろうし、生きていたのだろうし、魂になってからも記憶だけは蓄積されていると言っていた。童話の中の知識しかないような私はそういう時ただただ感心する。言うと調子に乗るから、言葉にも表情にも出さないけれど。
開けた広場に出ると中央の泉で女神が壺から水をこぼしていた。その後ろに広がる雄大な海原を見つめて思わず溜め息。童話では表現しきれない優美な光景に、私は言葉を失っていた。
世界を見てこい、というお母様の言葉も、今ならわかる気がする。この感動は本物を見た人にしかわからない。うんうん。
私は童話城で惰眠を貪っていた数日前の自分を棚に上げて、亡き母の明哲さに改めて感心した。
「あ、見て見て、ヴェルト! あれが『鐘の鳴る坂を登る』の舞台だよ! ホントに白い建物で、ホントに大きな鐘がある!」
鼻息を荒くして丘の上を指差す。指の先に見えたのは大きな鐘を擁する白い建物で、先ほどから耳に届いていた趣深い音色の発信源だ。
あの童話を読んだ時から思い描いていた通りの、素敵な景色だった。
「あそこで生まれたドラマが、今も読者の心を震わせてるんだね! そう思うと、こう、湧き上がってくるものがある!」
「へー。あの建物そんなに有名だったのか。前回来た時は意識もしなかったな」
「まぁ……。あれは観光名所って雰囲気じゃないしね。――で、私たちはこれからどこに向かうの?」
「そうだな。まずは宿を探して……」
と、言いかけたときだった。
「ヴェルト、さん?」
私の声でも、ヴェルトの声でも、もちろんガロンの声でもない甲高い声が、後ろから聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます