手向けの言葉が見当たらない

ろく

手向けの言葉が見つからない

 手のひらの中で、貴方のぬくもりが消えていく。私はベッド脇の椅子に腰かけ、眠る貴方の手を握った。貴方の安らかな顔を見るのはずいぶん久しぶりのように思える。窓からは昼下がりの穏やかな光が差し、彼女の頬がちらちらと反射する。私はそのまばゆさに目を細め、眠る彼女の頬を手の甲でさすった。まだ左の頬はやわらかい。右の頬は、その皮膚の下からぽつぽつと出てきた青く澄んだ結晶で覆われていた。そこにやわらかさはなかった。

 口の周りに結晶が出てきてからは、貴方はひきつったようにしか笑えなかった。多少の痛みも伴うようで、貴方は笑う度に顔を歪めてはすこし寂しげな顔をした。そんな貴方を見るとなんだか鼻の奥がツンとして、私の笑みもひきつってしまっていた。

 もう貴方が痛みに苛まれることはない。だからどうか安らかに眠ってほしい。

 それが私の願いだった。貴方の最期の瞬間、貴方を殺める左手に込めた思いだった。

 貴方は最期、苦しまずに済んだだろうか。私は魔法を学びたくてここに来たけれど、あまり上手には使えなかった。そんな私に、貴方は身振り手振りで使う時の感覚を教えてくれようとしていたっけ。

 学校に行っていた頃が懐かしい。貴方が大広間で披露した魔法の美しさは今でも鮮明に覚えている。その裏に、地道に積み重ねた努力があることを私はよく知っている。

 学生時代から大切にしてきた杖。今は床に転がって、先の宝珠は鈍い光を孕んでいる。貴方が苦しまずに眠りにつけたなら、それは他でもない、貴方のおかげ。私の魔法は、貴方が作り上げたと言っても過言ではないのだから。


 ふと、私の頬を何かが滑る感触がした。違和感に気づいた私はあごのあたりに触れる。触れた手の甲に目をやると、そこは確かに濡れていた。目頭が熱くなっているのに気づいたのはそれからだった。

 目の前の景色が歪んでいく。貴方の輪郭も曖昧になる。安らかな表情も、体じゅうから突き出た結晶たちも曖昧になって、おぼろげに見えるのは学生の頃の貴方だろうか。

 濡れた手で貴方の手を包む。その手のひらはやわらかかったが、以前のような温もりはそこになかった。瞳は依然閉じたままで、これから先、もう開くことはないだろう。



 殺してほしい、と。貴方は私に頼んだ。とっさに私は首を横に振った。それが貴方にとっての幸せだとしても、貴方を目の前にすると頷くことはどうしても憚られた。

 貴方はわずかに眉尻を下げると、なかったことにしてくれと笑った。頬の結晶が嫌味らしく輝いたのを覚えている。部屋の空気が鉛のように重く、淀んだものに感じ、私の足は部屋のドアの方向を向いた。ごめんなさいと呟くと、私は逃げるように部屋を出た。私の背中を見ながら、貴方は何を思っただろうか。

 部屋を出た私はドアに背を預け、押さえ込むように後ろのドアノブを握りしめた。あの頃彼女は歩くことが困難になっていた。それでも、私を追いかけて部屋から出てくるのを想像すると息が詰まり、ノブを握る手がこわばった。

 この決断は間違っていたのだろうか。いや、私は正しい選択肢を知っていた。知った上で、それを選ぶことができなかったのだ。私の……臆病さ故に。

 同じ問いをぐるぐると頭の中で回した後、私は最終的に、彼女の頼みを引き受けることにした。それが意味することを考えると、部屋の中にいた時より息が詰まるような感覚に陥った。全てが終わったその先まで飛んでいきたくなるような気分だった。私は臆病で、腹が立つ程臆病で。この決断を、貴方が息を引き取るその時まで明かすことはなかった。


 いつもの杖を後ろ手に、私は貴方の最期を看取った。

 最後のお昼を一緒に食べた後、彼女と少しだけ話をした。おそらくいつもと同じ、とりとめのないような内容だったと思う。私が杖にゆっくりを力を乗せると、貴方は眠気を訴えた。昼食のせいではないかと話す私は、その時一体どこを見ていたのだろうか。

 杖を持った左手に込める力をだんだん強めるにつれ、そのまぶたが重くなっていくように見えた。ただ眠りに落ちていくように見えるけど、その命が少しずつ削れていくのを、震える左手はひしひしと感じていた。

 それから、貴方にとっては当たり前の「おやすみ」を告げた。これが最後の言葉になるのだろうと思っていた。けれど、乾いた唇は私のことなどおいてけぼりで、間なしで次の言葉を発しようとその形を変えつつあった。私はこれを拒み、不自然に口をつぐむと、なるべく当たり障りのない言葉に変換してから口を開いた。


 「大好きだよ。」と。


 閉じかけたまぶたの隙間から覗く青い目が、驚いたように少し揺れた。貴方は安堵したようにまぶたを下ろして


 「あたしだって、大好きだからね。」


と言って、その顔を歪ませた。歪みは時間が経つに連れ消えてゆき、緊張した筋肉が緩んでいく。できあがったのは、安らかな表情で横たわる愛した人だった。私の願いは、通じたのだろうか。


 ぽたぽたと、落ちた滴はシーツに染みを作る。

 貴方は、まだ明日が来ると信じて眠りについた。でも貴方に明日は来ない。私がこの手で奪ったのだから。私は貴方を、騙したのだ。

 眠るように逝ってほしいと願った故の行動だった。死にゆくことにも気づかないような、そんな眠りにしたかった。私は貴方を殺すという決断を、本人に伝えなかった。これでよかったのだろうか、貴方はまだ、生きたかったんじゃないか。

 今更考えたって意味はない。頭ではわかっているけれど、心に澱は積もるばかりだった。

 歪んだ視界の中、指の背で貴方の頬をなぞる。まぶたは開かない。その現実を確かめるように、その罪を受け入れるように、何度も何度も繰り返す。 胸のあたりが苦しくなって息を吸うと、ひっくり返ったような音が出て、その度に目から涙があふれた。この涙はどの感情からきているのか、私にはわからなかった。しかし、それを止めようと引き絞る度に涙は滲み、鼻のツンとした痛みが増していった。


 ぱきり、と乾いた音がした。突然、部屋に自分以外の音がしたのに驚き、私は涙を拭って辺りを見回す。

 ぱきり、再び音が鳴る。今度は音の原因をはっきり捉えた。彼女の体の結晶が、その面積を増やしたのだ。それに気づいた途端、彼女の体のあちこちで乾いた音が鳴り始める。まるで、死にゆく体を惜しむかのように。

「いやだ……」

咄嗟に貴方の両頬を手で覆う。右頬は固く、左頬はやわらかい……はずだった。貴方に触れる手がざらざらとした感触を伝えてくる。次の瞬間、また乾いた音が聞こえたかと思うと、頬のあたりの皮膚が結晶の断面のように変質した。断面はでこぼことしていて、以前のようなやわらかさはもう、ない。私はよろよろと立ち上がり、椅子を足にぶつけながら後ずさった。

 音が、止まない。今までは、歩くような足取りだったのに、今になって駆け足で、こんなに早く変わってゆくなんて。表れた結晶の中には、円錐状に成長していくように見えるものもあった。少しずつ、でも目に見えるスピードで彼女のシルエットが人から離れたものになっていく。

「いや……だっ…………」

止められない。震える声で何度も貴方を呼ぶ。涙を拭うたび、拭う指の間から次の涙があふれた。貴方が青に染まっていく。私はまだやわらかい貴方の左手を握った。もうぬくもりはなかったけれど、それはまだ、私のよく知るかたちをしていた。かたちが少しでも留まっていられるようにと、しっかり両手で握っていた。


 ぱきり、


 私の手のひらに、乾いた音が染み込む。貴方の手を握りしめたまま、私は目を閉じ、深くうなだれた。私の額に、貴方の無機質で硬い手が触れる。額を通して伝わってきたのは、未だにその高さを伸ばそうとする結晶達の音だった。それが歓喜の声なのか、悲壮に満ちたものなのかはわからなかったが、私には酷く空虚に思えた。



 音が止んだ。 

 私はゆっくりとまぶたを上げる。まぶたは乾いた涙でひっつき、離れる時にわずかな痛みを伴った。起き上がった私の視界には、不規則に尖って、大きく成長した吸い込まれるような青色の結晶が映っていた。何層にも連なった結晶の奥は、暗く沈んだ色をしていて、その様は海を思い起こさせた。窓から差した西日は反射して、部屋の隅をゆらゆらと照らしている。

 私が握っていた部分も気づかぬうちに姿を変えていた。どこを見回しても、私の知る貴方の姿はなかった。けれど、それでも、私の手の中できらきらと光るそれが、貴方だったことを私だけは知っている。

 一番大きく尖った部分にそっと触れる。結晶は先端に近づくほどその透明度を増し、触れた指の先には夕焼けの橙が透けていた。指の背でなでるとその表面は滑らかで、すこしひんやりとした感触がした。姿を変えた彼女にぬくもりはないが、手を伸ばしたくなるような面影を感じる。私の頬は少しだけ緩んだ。

 貴方の最期、私が本当に伝えたかった言葉。今から貴方を追いかければ、すぐに言えるのかも知れないけれど、もう少し先にしておこう。贖罪のためにも、私はもう少し貴方のために生きなければ。貴方がしたかったこと、伝えたかったこと。伝えたかった人がいる。私が代わりに、全て引き受けよう。それがこれからの生きる意味だ。

 それにあの言葉、また恥ずかしがって言い淀んだりしたくないもの。



 そうでしょう?ベティ。

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