月を食べたら
天川 黒野
新月#1
┄┄┄┄
____暗く闇に染まった部屋の中に水槽が1つ置いてあった。
中には
┄┄┄┄
これは私がまだ小さい時の話。
私は夜中に起きてきて、妙に長い廊下を迷わずに帳のよく降りたこの部屋へ辿り着き、
ずっとこの不思議な糸を引く魚を眺めていた。
性別はよく分かっていないから、名前は付けないことにしていた。
むしろ魚に性別があるのかどうかすら知らなかった。
けれど確か呼びやすいからという理由で、彼ら、と呼んでいたと思う。
彼らは概ねの個体が白と黒の縞模様を繕っていた。
魚たちの間では縞模様が流行っているのだろうと私は見ていた。
(昔見た映画にオレンジ色の魚が出ているのを見た時も似たような色をしていた。)
そしてその時の私は、彼らについてこんな事を常に考えていた。
白と黒はどちらが上と下なのだろう、と。
エンゼルフィッシュは、自分の本当の色を隠すために、周りと似せているのかもしれない。
元の色が白の者もいれば、黒の者もいるだろう。
もしそうなら、どうやって色を変えているのだろう?と、
いつもいつも、考えていた。
___今思えば私は、そこから終わってしまっていたのだろう。
恐ろしく変わった環境、それと妙に長い廊下。私は孤児だった。
…事の始まりは
けれど、レムールと初めて会った時の鋭く、恐ろしい刃物の輝きのような、
正体不明の深い影を奥に焼き付けたような目玉を目の当たりにした時、
「私はこの人に殺されるかもしれない」と直感的に感じたものだった。
そしてレムールを対応する、孤児院の院長の顔にも私と同じ心境が出ていた。
それはレムールがよそ見をした時だけに私に向けられる「慈悲の顔」だった。
「なんて恐ろしい人に引き取られてしまった子なのでしょう」と顔が言っていた。
けれどそれだけだった。
まだ引き取られると決まっている訳じゃないのに。
「もっと幸せそうな人と共に暮らさせてあげたいのです。だからあなたにはこの子はあげませんわ」
とでも言ってくれれば。
私はもっと幸せな人生を送れたのかしら。と。
…また終わってしまったことを考えてしまったな、と思う。
もう仕方がない事なんだ、と分かっていてもこの事は常に頭に留まっている。
私は、元の話題に頭を戻した。
さて…今やりたかったことはエンゼルフィッシュの色を調べる事だったな。
私は自分のポケットに忍ばせていた、
朝食用に用意されたナイフを取り出す。
きっと私の考えている事が正しかったら、
偽物の色が取れて本物の色がどっちか分かるはずだから。
私は水槽に片手を入れる。指先から冷たくなっていくのを感じた。
私がいつも朝食を食べる時、水の入ったコップに手を入れるような感触だった。
その感触はとても好きなものだった。
┄┄┄┄
__コップに手を入れるといつもレムールは
「どうしていつもそうするのさ」
と聞いてくる。
「手が汚れちゃうよ」
「いいの」
「どうして?」
「だって水だから洗っても一緒だもの」
「…でも行儀が悪いじゃないか」
「あなたの方がいつも悪そうなことしてる」
「そう…」
そして沈黙が訪れる。それはいつもの事だった。
私は彼が、あなたの方が悪そうだ、と告げると黙ること、
それを初めて聞いた時から覚えていた。
けれどその事に触れるたび、何か恐ろしい事を聞いているようでぞわりとした。
┄┄┄┄
そして、私は逃げ回るエンゼルフィッシュをようやく捕まえることに成功した。
彼らの中から1匹選ばれた彼は、何を考えているのか分からないような目で
私を、それから水の中と違う景色を見て、急に思い出したように息を吸いはじめて
暴れた。何かよからぬ事に巻き込まれると思ったのだろうか?
大丈夫だよ。調べたらすぐに戻してあげるから。
私はすぐに終わらせようと思って、急いで彼の体の線の部分を切り始めた。
そして、すぐに終わってしまった。あっけなかった。
私が考えていたよりも深く、ナイフは突き刺さってしまって、
それから彼は、微塵も動かなくなった。
そこからは黒でも白でもない色がじわじわと滲んでいた。
その時、私がいないと言う異変に気づいたレムールがやって来てしまったのだった。
私は本能的にナイフをポケットの中に隠した。
彼は、夜なのにこんな所まで来てしまって危ないじゃないかとか、
途中に何かあったら困るじゃないかとか…そんな事をずっと言っていたと思う。
けれど、私はそんな事を気にしている場合ではなかった。
きっとこのエンゼルフィッシュは…彼が大事にしているもの…?
そう思った時、ああ、私はなんて恐ろしい事をしてしまったのだろうと思った。
彼の恐ろしい目が、さらに恐ろしくなって…それから、酷く怒られるだろう…。
私はいつの間にかポケットに手を入れていた。
大丈夫、何かされてもこれを使えばどうにかなるかもしれない。と思っていた。
大丈夫、大丈夫…。と私が少し後ろに下がった途端、
運の悪い事に、後ろに下がった私に少し着いてきたレムールは
赤色のエンゼルフィッシュの存在に気づいてしまったらしく、動きを止めた。
そうして私は、人生で初めて、動物を殺した、と人に認定された訳であった。
「…それ、どうしたの」
私はもう駄目だ、と思い、レムールに切りかかった。朝食用のナイフだった。
切りかかる時、何故かスローになったように感じられた。
その時なら…この血のついたただの朝食用のナイフは、
ジャムが付いているように見えるね。なんて言って笑えたんじゃないかな、とか思う。
でも、常人はそんなことでは笑わない。
そう…常人だったら。
レムールは、私の渾身の一撃をすぐに避けると私の腕を掴んだ。
普通の人だったらこんな力は出ないだろう、
と思うほどの握力で締め付けられた私は酷い悲鳴をあげた。
ナイフは既に落ちていた。
私は過呼吸になったが、彼は私をただ横目で見ただけだった。
そして至って平然と、私など居なかったかのようにエンゼルフィッシュの方へ歩いていき、
「……いいじゃん」
と言い、思い出したように私を見て笑った。
だがそこには、ただ口角の上がっただけの口を持った、
無表情の怪物がいた。
怪物は
「じゃあ戻ろう、もう夜だから」
と言って手を差し伸べた。私は震えながらその手を取った。暖かかった。
私たちは部屋から出た。
私が後ろめたさで振り返った時、部屋には月が登っていて
私の犯した罪を明るく照らしていた。
これは私がまだ小さい時の話だった。
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