第8話:お父さんは心配性Ⅳ【前編】



 ロイドは詰め所の机で魔物の絵と解説が載った本のページを捲る。

 いい加減疲れてきたので、目を閉じてマッサージをする。

 本を読み始めてからそれほど時間は経っていないが、どうも読書は苦手だ。

 きちんと目を通しているつもりなのだが、ちっとも頭に入ってこない。

 それどころか、知識が読んだ端から零れ落ちているような気さえする。

 ロイドがこんな有様なのにアルカは読書好きだ。

 暇さえあれば本を読んでいる。

 一度読んだ本でも読み直すと違った面が見えるなんてことを言ったりする。

 きっと、ローラの血が優秀だったのだろう。

 そんなことを考えていたらレイモンドに声を掛けられた。


「終業間際に読書なんて、勉強の喜びに目覚めたのか?」

「被虐趣味に目覚めるくらい有り得ないな」


 違いない、とレイモンドは笑った。


「調べ物か?」

「アルカが子犬を拾ってきたのは知ってるだろ?」


 少し迷った末に打ち明ける。

 レイモンドは口の固い男だ。

 たとえ子犬――テンが魔物でも周囲に言いふらしたりしないはずだ。


「ああ、初めて見た時は我が目を疑ったぞ。何せ、天狼が懐いているんだからな」

「天狼?」


 思わず聞き返すと、レイモンドは呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。


「おいおい、草原地帯の部族と接触した時に話を聞いただろ?」

「何年前のことを言ってるんだ。それで、どんな魔物なんだ?」


 レイモンドは思案するように腕を組んだ。


「知能が高く、雷の魔術を操るって話だったな。神の化身扱いされていて、一説によれば百人の戦士を皆殺しにしたとか」

「どうして、黙ってたんだ!」


 ロイドは立ち上がり、レイモンドを怒鳴りつけた。

 いや、怒鳴りつけている場合じゃない。

 こうしている間にアルカとローラが殺されているかも知れないのだ。


「落ち着けよ」

「俺の家族が危険に晒されているんだぞ? 落ち着いていられるか!」

「いいから、落ち着け。まだ、俺の話は終わっていない」


 殴りつけたい気持ちを抑え、再びイスに座る。


「族長の話によれば、天狼は人に懐かないらしい」

「懐いてるぞ?」

「だから、驚いたんだ。その部族で天狼をてなづけたのは始祖だけって話だから、どれだけ有り得ないか分かるだろ?」

「伝説なんてアテにならないだろ」


 うんざりした気分で呟く。


「伝説は信じないのに百人の戦士を殺した話は信じるのか?」

「家族の命が掛かってるんだぞ?」

「じゃあ、どうすればよかったんだ? アルカちゃんの目の前で天狼をぶっ殺せばよかったのか?」


 レイモンドはムッとしたように言った。


「帝国人を守るのが衛兵の仕事だろう?」

「法的根拠がない」

「法的根拠?」


 思わず問い返す。


「野良の魔物は駆除できても、飼われている魔物は財産として扱われるんだ」

「どうして、そんなクソみたいな法律があるんだ?」

「貴族連中の間で魔物を飼うのが一種のステータスになってるからだろ。ちなみにこの法律は平民にも適用される」


 それに、とレイモンドは続ける。


「アルカちゃんを泣かせる訳にはいかないだろう? そんなことをしたら、俺はローラさんに殺されちまう」


 レイモンドは我が身を抱き締めて身震いした。

 ローラなら分かってくれると断言できないのが辛い所だった。


「それにしても法的根拠ときたか」

「文句があるなら陛下に直訴しろよ」

「道義は無視か」

「法律より道義を優先させる国は滅ぶぞ」


 ロイドは深々と溜息を吐いた。

 帝国は侵略を繰り返して大きくなった国だ。

 道義的責任を追求されたら国が分裂しかねない。


「なあ、ロイド。俺はお前のそういう所が嫌いじゃない。むしろ、尊敬していると言ってもいい。けどな、もう少しアルカちゃんのことを考えてやれ」

「……考えているさ」

「お前がアルカちゃんを泣かせてでも自分の正しさを貫きたいんならそうしろ」


 レイモンドは軽くロイドの肩を叩くとその場から立ち去った。



「……お父さん、お帰りなさい」

「わ~う」


 家に入ると、アルカとテンが出迎えてくれた。

 テンはちょこまかとアルカの足下を歩き回っている。

 その姿は子犬そのものだ。


 アルカちゃんを泣かせてでも自分の正しさを貫きたいんならそうしろ。


 ロイドの言葉が脳裏を過ぎる。

 だが、自分は父親なのだ。

 アルカとローラを守る義務がある。

 何かあってからでは遅いのだ。


「アルカ、テンの正体が分かった。テンは天狼という魔物だ」

「……テンは魔物?」


 アルカはテンを抱き上げた。


「……でも、犬」

「違う。テンは雷の魔術を操る危険な魔物だ。だから、一緒にはいられない」


 アルカはテンを抱き締めると上目遣いで睨んできた。

 そんな顔をしないで欲しい。

 家族のためにやっているのだ。


「テンを渡すんだ」

「……嫌。テンは危険じゃない。誰も傷付けてない」

「誰かを傷付けてからじゃ遅いんだ」

「嫌!」


 ロイドが手を差し伸べると、アルカは後退った。


「ちゃんと散歩してる! きちんと躾けてる! 私は約束を破ってない!」

「だから、何かあってからじゃ遅いんだ」

「嘘吐き! お父さんは嘘を吐いた!」


 アルカはポロポロと涙を零した。

 思わず胸を押さえる。

 きっと、ナイフで心臓を突き刺されてもこれほどの衝撃は受けないだろう。


「ちょっと、あなた!」


 ローラが柳眉を逆立てて食堂から出てきた。


「聞いてくれ。テンは魔物なんだ。天狼と呼ばれる魔術を操る魔物だ」

「え?」


 ローラは驚いたようにアルカとテンを見つめた。

 アルカの表情が歪む。

 裏切られた、とその表情が物語っている。

 どうして、そんな顔をするのか。

 どうして、理解してくれないのか。

 自分は家族を守りたいだけなのに。


「アルカ、いいから渡すんだ!」

「嫌!」


 手を伸ばした次の瞬間、鋭い痛みが走った。

 最初はテンが魔術を使ったのかと思った。

 だが、違う。

 アルカから立ち上った黒い光のせいだった。


「……精霊術?」


 頭を振る。

 精霊のはずがない。

 精霊は火、水、土、風の四種類しかいない。

 火は赤、水は青、土は黄、風は緑の光を放つ。

 黒い精霊など見たこともない。


「嘘吐き、嘘吐き、嘘吐き!」


 黒い光がアルカから噴き出す。

 小さな雷がパチパチと爆ぜる。

 堤を斬って押し寄せる濁流、あるいは火山の噴火か。


「アルカ、ごめんなさい! 精霊よ!」


 ローラが苦渋に満ちた表情で精霊に語りかけると、水の塊が忽然と現れる。

 水の塊はアルカに向かって飛び、黒い光に触れるやいなや消滅した。


「どうなってるんだ!」

「精霊術を無効化されたのよ!」


 そんな馬鹿な、とロイドは呟く。

 ローラは帝国でトップクラスの精霊術士だ。

 どんな精霊術士でもローラには敵わなかった。

 そのローラが精霊術を無効化されたなんて信じられない。


「アルカ!」

「“来ないで!”」


 ロイドは手を伸ばしたまま動けなくなった。


「ローラ!」

「こっちも動けないわよ! 精霊よ!」

「嫌ッ!」


 アルカが叫ぶと、黒い光が爆発的に広がる。

 それだけでローラの周辺に集まっていた青い光――精霊が霧散する。


「二人とも大嫌い!」


 アルカは叫ぶと裸足で外に飛び出した。

 追い掛けようとしたが、体がピクリとも動かない。

 まるで心と体を繋ぐ糸が切断されたようだった。

 あの誘拐犯と同じ、いや、それ以上の力だ。

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