転生幼女は絆を紡ぐ

サイトウアユム

第1話:アルカ・I・サーベラス【前編】



 精霊歴九八六年六月――アルカ・I・サーベラスは夢を見ている。

 大きな雪が白く濁った空から降ってくる夢だ。

 何度も見た悪夢だった。

 いつの頃からか夢の中で誰かの人生を追体験していると気付いていた。

 夢の中のアルカは男で、とても怒っている。

 自分を助けてくれなかった人々に怒っている。

 自分の人生を終わらせた少年達に怒っている。

 自分の両親に怒っている。

 自分の父親を騙した男に怒っている。

 彼の怒りは自身を含めた世界に向けられている。

 死ね、と彼は繰り返す。

 もう死んでいるのに怒り、憎み、世界を呪っている。

 できるものならば耳を塞ぎたい。

 彼の言葉を聞いているとおかしくなる。

 彼の憎悪はゆっくりと、だが、確実に自分を蝕んでいる。

 お父さんとお母さんのことが大好きだったのに今は一緒にいると苛々する。

 些細なことで苛立つ。そんな自分が嫌で苛立ちが余計に募る。

 早く目を覚まさなければならない。

 自分が自分でなくなる前に目を覚まさなければならない。

 けれど、目を覚ます方法が分からない。

 とても怖い。

 彼は止まってくれない。

 誰も助けてくれない。

 自分が汚されていくのを黙って見ているしかない。

 だから、神様に祈る。

 どうか、早く目を覚まさせて下さい。

 どうか、次に目を覚ました時も自分でいさせて下さい、と。

 祈りが神に通じたのか、不意に違和感を覚えた。

 何かが体に触れている。

 温かいものに包まれている。

 違和感は徐々に大きくなり、アルカは目を覚ました。

 ゆっくりと体を起こして周囲を見回す。

 そこは自分のベッドの上だった。

 自分の手を見下ろし、違和感を覚える。

 小さな手だ。

 手の平はぷにぷにしていて、手の甲には無数の傷跡がある。


「……ぼ、僕の手は」


 こんなに小さかっただろうか、と出掛かった言葉にゾッとする。


「違う。私はアルカ・I・サーベラス」


 アルカは枕元にあった熊のぬいぐるみを抱き締めた。

 熊のぬいぐるみは母親のお手製だった。

 熊のぬいぐるみなのに熊っぽくない。

 ぬいぐるみなのに愛らしさがないが、気に入っている。


「……ぬいぐるみはいい」


 小さく呟く。

 熊のぬいぐるみは文句を言わない。

 力一杯殴っても、中身が飛び出ても誰も困らない。


「違う。お、おお、おか……母親が困る」


 う~、とぬいぐるみを抱き締める腕に力を込める。

 お母さんと呼びたいのに呼ぼうとすると舌が縺れるのだ。

 アルカはベッドから下りて机に向かった。

 イスに座って鏡を覗き込むと、ムスッとした表情の子どもが映っていた。

 目鼻立ちはそれなりに整っている。

 やはり、違和感を覚える。

 自分の顔という気がしないのだ。

 肩まで伸びた白い髪も、白く細い体も自分の体ではないようだ。

 特にネグリジェがいけない。変態にでもなったような気分だ。


「私はアルカ・I・サーベラス、六歳、父親の名前はロイド、母親の名前はローラ、祖母の名前はモイラ、死んだ祖父の名前はタイゼン。父親の親友はレイモンド。ネグリジェを着るのは当然のこと。私は変態ではない。ネグリジェを着るのは当然のこと。私は変態ではない。大切なので、二度言った」


 鏡を見ながら自分に言い聞かせる。

 気休め以上の効果はない。

 前世は日を追うごとにアルカを汚染している。

 アルカはヘアブラシを手に取り、丁寧に髪を梳いた。

 以前は母親にお願いしていたのだが、今は自分でやっている。

 苛々するからだ。

 何をされても苛々する。

 悩んだ末に辿り着いた結論は触れ合ったり、話したりしないことだ。

 とても辛いけれど、憎んでしまうよりマシだ。


「……これでよし」


 ヘアブラシを机に置き、熊のぬいぐるみを抱き締めた。

 イスから立ち上がり、

 自分の部屋から出ると、美味しそうなパンの匂いが鼻腔を刺激した。

 唾液が痺れるような感覚と共に滲み出る。

 階段を下りて食堂に入ると、両親が笑顔で迎えてくれた。

 父親は席に着いている。

 父親はこの街――帝都近郊にある城塞都市ロックウェルの衛兵長をしている。

 実力でのし上がったことを示すように筋肉質な体付きをしていて、剥き出しの腕には沢山の古傷がある。

 負傷して帰ってきたことはないから軍隊経験があるのかも知れない。

 断言できないのは父親がとても穏やかな人だからだ。

 母親はテーブルに料理を並べていた。

 目鼻立ちはかなり整っている。

 エプロン姿がそういうファッションに見えるほどだ。

 この母親の遺伝子を上手く引き継げば結婚相手には不自由しないだろう。

 ただし、胸の成長には期待できそうにない。

 アルカは自分の前髪を摘まんだ。

 父親は黒髪を短く刈り、母親は蜂蜜色の髪を結い上げている。

 私は悪い子だ、と思う。

 両親は笑顔を向けてくれるのに自分が二人の子であることにさえ違和感を感じているのだから。


「あら、今日も一人で起きられたのね」

「偉いぞ、アルカ」

「……おはよう」


 アルカが自分の席に座ると、母親は静かにスープとパンを置いた。

 スープは昨夜の残りだが、一晩寝かせたせいか、味が具に馴染んでいる。


「今日はどうするつもりだい?」

「……家にいる」


 ボソボソと父親に答える。

 外は怖い。

 苛々させるものが沢山ある。

 井戸端会議をしている主婦達に苛々する。

 楽しそうに遊んでいる子どもに苛々する。

 金切り声を上げる赤ん坊に苛々する。


「父さんがお前くらいの時には友達と走り回っていたもんだけどな」

「……」


 アルカは唇を噛み締めた。

 どうして、そんなことを言うのだろう。

 自分は誰も傷つけたくなくて外に出ないのに。

 スプーンを見る。

 このスプーンを投げつけたら父親はどう思うだろうか。

 いけない。

 父親は自分を心配してくれているだけだ。

 投げるならフォークだ。

 違う。

 金切り声を上げる赤ん坊の眼球を――違う。

 そんなことを考えてはいけない。

 だから、そんなことを考える悪い子はお仕置きしなければならない。

 スプーンを持つ手に力を込める。


「駄目よ。スプーンは貴方の手を傷つけるための物じゃないの」


 母親がアルカの手を優しく包んだ。

 あなた、と母親は父親に視線を向ける。

 優しげな口調だった。


「アルカ、父さんが悪かった。自分の意見を押し付けようと思った訳じゃないんだ。父さんなりにお前のことが心配だったんだよ」

「……」


 アルカは頭を振った。

 違う。

 父親は悪くない。

 悪いのは自分だ。

 こんなことになっているのに相談できない。

 できなくなってしまった。

 涙が零れた。

 前世の記憶が両親を慕う気持ちを奪ってしまった。

 アルカは声を殺して泣き続けた。

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