①
――ていりが登校してこない。
もうじき冬が終わり、暖さの兆しを感じる二年A組の教室で、俺は最後列の自分の席から少し離れた位置のていりの席を見つめていた。
空席。ホームルームが終わってもていりは現れない。
ていりがこれまで遅刻や欠席をしたことは記憶にはなかった。
違和感を覚えたまま一限が終わった休み、携帯にていりからメッセージが届いた。
〈teiri〉 街中ゾンビだらけで大変なことになっている! (地獄
「……はあ?」
眉をひそめた。エイプリルフールはまだ先だ。
『その話、ちっとも面白くないぞ』と返信すると、待っていたかのようにていりから即メッセージが返ってくる。
〈teiri〉 嘘じゃないよ! いまクローゼットの中で隠れてる!(ガタガタ
俺はアホ臭いと思いながらも試しに携帯でネットニュースを見るが、当然、そんな奇天烈なニュースはどこにも載っていない。
無論、教室にゾンビの生徒なんかおらず、一応校舎の三階に当たるこの教室から窓の外の様子を眺めているが、街は至って平穏そのもの。
「どうしたんだ、あいつ……」
ていりは悪ふざけをするタイプではないし、無意味に嘘もつくような子じゃない。
俺は携帯を操作して『マジ?』と返事するとやはり即レスで『マジ!』と返ってくる。
ひとまず、ていりと会うべきだろうと思ってメッセージのやり取りを交わした。だがていりの文面から学校に来るのは乗り気ではなさそうだった。ていりは電車通学で、電車の中までゾンビが溢れてたら逃げ場がないと心配しているし、なにより俺がゾンビだったらどうしようと不安がっている様子だった。ナイナイ、と笑いかけてしまったが、メッセージの行間から彼女の切迫さがひしひしと伝わった。
『安心しろ。学校は平穏。それに俺は、美容師になるまで死んでも死なないから』
何度もメッセージのやりとりをしてようやく説得し、ていりは気力を振り絞って学校に向かう気になってくれた。
俺が迎えに行けたら一番なのだが、さすがに授業を抜け出すわけにはいかない。
再びていりからメッセージが飛んできたのは昼休みになったときだった。
〈teiri〉なんとか……学校に着いた、よ……(涙目
ていりの家から学校までの通学時間はおよそ五十分。
二限の終わり頃には着くと考えていたがいまは昼休み。
通学にかなり時間かかっているが、ゾンビに怯えていたというのか……。
ていりはだれもいない場所で会いたいというので旧校舎の被服室を待ち合わせ場所にした。
奇妙で、心配で。俺は昼飯も食うのも忘れてすぐに教室を出た。
気づけば廊下を走っていた。底の抜けそうな木板の旧校舎を駆け被服室に入ると、ていりがいた。
部屋の隅にぽつりと儚げに佇み、携帯をお守りのように胸に抱いていて、俺が入ってくると驚いた小動物みたいにバッとこちらに目を向けた。
一瞬の表情停止。そして――
「わああぁぁぁぁぁん! せいくぅぅぅぅん!」
一目散にこちらに駆けつけ、号泣してくしゃくしゃになった顔を俺の胸にうずめてきた。
びえーんとなんだか情けない嗚咽を漏らしている。
泣きじゃくっていたていりだったが、俺の顔を見ると少し落ち着いたのか、しゃくりをあげながらも朝からの出来事を語ってくれた。
話をまとめるとこうだ。
今朝、テレビをつけるとゾンビ姿の夏目三久がいた。
生気の失った真っ青な顔で、口が裂け、白目を剥いて……ゾンビになってるじゃん! とぎょっと目を丸めたていりは、最初なにかのイベントかと疑って別番組にチャンネルを回したが、小倉智昭はむしられた髪から鮮血を迸らせていて……そう、すべての番組に出演する人間が総ゾンビ化していた。
世界になにが起きたのか。
親の様子を確認しようにも、すでに母親は仕事でいない。
恐る恐る外に出ると、晩冬の空気はどこまでも冷たく澄んでいて草花は朝露に濡れ輝いていた。
目に映る光景はきのうの世界と変わりなく、ゾンビに支配された終末暗黒世界ではない。
ちょっと寝ぼけていたに違いない。そう思って部屋に戻ろうとした。
――が、いた。
早朝庭掃除を日課にしている隣の家の腰が曲がったおばあさんがゾンビ化していた。
背中のグロテスクなコブからフシューと腐敗臭のようなものを噴出する音を出している。
人間だけでなく動物もゾンビ化していて、はす向かいで飼われている番犬の目はぽろっと落ちて真っ黒い舌をへっへっと出していた。
ていりは一度家に避難して俺に連絡。
学校は安全だと説得されてようやく登校。
だが、世界はゾンビだらけ。もっとも恐怖で一番身が縮こまったのが電車の中だった。
多種多様な血塗れゾンビたちに囲まれることになった。
幸い、襲われることはなかった。
レジュメを読みこんでいる鼻の削がれた学生風ゾンビだったり、スマホゲームに夢中な耳から蛆虫をぽろぽろ落とすサラリーマン風ゾンビだったりと、見た目はアレだが、それぞれは人間的な生活を営んでいたらしい。
「俺の目にはすべてがきのうと変わらないフツーに映って、ええっと……つまりていりの場合すべての生物が死者として活動……すなわちゾンビに見間違えているってことか?」
「たぶん……。そんなことあるのかなって思うけど、でも、そんな感じ。けど、せいくんはゾンビに見えないよ。せいくんだけが本当で、本物。……怖かったんだ。せいくんがゾンビに見えたらって思ったら。ショックで倒れちゃわないようにって最悪なケースに備えてせいくんのゾンビ姿を想像しておいたんだっ。きっと美容師さんが使うハサミが全身にぶち刺さっているのかなって!」
「やめんか」
予鈴が鳴った。ていりを励ましつつとにかく被服室を後にして共に教室に戻った。
だが、ていりは「ひっ」と小さく悲鳴を上げて俺の背中に小さくなって隠れた。
「みんなゾンビになっている……」ていりは顔面蒼白になっていったが、やはり俺の目に映るクラスメイトたちに変化はない。
「おはよう。ていりさん」と声をかけたのはクラス委員長の吉野かなえ。
しっかり者で、面倒見がよく、性格においてはおてんばでどこか危なっかしいていりとは正反対。
おまけに容姿端麗で、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。
そんな言葉がぴったりな人間。
彼女の挨拶に、ていりはびくりと両肩を跳ね上がらせ全身が緊張したように固まってしまった。吉野も戸惑ってしまう。
「あっ、すまん吉野、ていりはまだ本調子じゃなくてだな」
俺がすぐフォローを入れてていりを吉野からそっと離し、ていりの席まで連れ添い小声で聞いた。
「まさか吉野も……?」
ゾンビに見えたのか、とわざわざ口に出す必要もなく意味は伝わった。
ていりが油の差し忘れた機械みたいにギチギチと上下に首を動かしたからだ。
「か、かなえちゃん、足を引きずるようないかにもゾンビな歩き方で、眉間に銃弾ぶち込まれたように穴が開いて顔面血だらけ、口からはぐちゅびちゅぎゅぶぇぇぇッて一つ目の寄生虫みたいなものが無数の触手とともに飛び出しているよ!」
「お前それ本人の前で口にするなよ」
「立てば顔面血だらけ座れば寄生虫歩く姿はゾンビ風」
「おいそれも絶対に口にするなよ。絶対だからな」
授業がはじまり、ていりは狼狽しっぱなしだった。
周りはゾンビたちに囲われて(ていり視点)、教師に問題を答えるよう当てられるも声が震えて出ない。
最初こそ半信半疑だったが、どうやら本格的にていりには周りがゾンビに見えるらしい。これが演技なら大女優並だ。
――そういやていりは演劇部だけど、さすがに芝居を打っているわけではないよな。意味ないし。
「一応、聞くけどさ、……その、演技、じゃないよな? 芝居の練習といった感じに?」
「違うよ! 演技じゃないよ! マジでゾンビが見えるもん!」
傍から見れば明らかに様子がおかしいていりだったが、体調不良でごまかし、なんとか放課後を迎えて学校を出た。
「がんばったよぉ」とずいぶんやつれた顔を見せた。
所属している演劇部に参加することもできず、体調不良ということでしばらく休むことを告げたそうだ。
うちの演劇部はいわゆるゆるい部なのでこれといったお咎めもないだろう。
ていりを家まで送ることにした。
ていりも俺も電車通学だが利用している線が異なり、住んでる場所は互いに真反対に位置する。
高校生にとって微妙に手痛い電車賃と、美容師の勉強の時間を取られるが、四の五の言っていられない。
帰宅の電車内で、ていりはずっと俺の袖をぎゅっと握って離さなかった。
ていりの家は住宅街の中にある一戸建て。
外壁は真新しい白で、窓は横に細長くいかにも新築だ。
カットの帰りはこうして家の前まで送っていくのだが、この家を見るたび立派だなぁと思い、同時に、なぜだか冷たさが胸に吹き抜けてくる。
藍色に暮れなずむ中、いつも窓枠はシャッターが下りていて部屋から光がこぼれてこず、近代化された建築物の機能性だけが寂しく浮かび上がっている。
家に着いてもていりはすぐ中に入らなかった。
家の前で延々と俺に今日一日の話題を投げかけた。
会話が途切れかけると、どこか慌てたように適当に話題を継ぐ。
まるでさよならの言葉が入る隙間を失くすように。
俺もどこか引き止められているのがわかって付き合うことにした。
はわっ、とていりが小さく悲鳴を上げたのはそのときだ。
俺たちの前を小学生が早足で通過した。
俺にはそろばん塾に向かう少年に見えたが、ていりの目にはそうではないはず。
「せいくん。まだ、うちに入ったこと、ないよね……? いま家族いないし、よ、よかったらさ、家の中でゆっくり……」
「あ、いや、さすがに家まで上がるのは……」
思わず声が上擦った。付き合ってもいない異性の部屋に入るのは躊躇われた。
そう、付き合っていないのだ。俺とていりは。
「それに今日は美容院のバイトがあるんだ。そろそろ行かないと」
「あ、そっか。そうだよね」
しょげたようにていりの両肩がどんと落ちていた。
日は完全に落ちた。
ごめんな、と踵を返し数歩先を行く。が、後ろ髪を引かれる思いで振り向くと、ていりが実に寂しそうな視線を送っていた。
俺は盛大にため息を吐いて、だがすぐに面を上げて微笑んだ。
「ま、せっかくここまで来たんだ。あと十五分、話そうか」と離れかけた空間を埋めるようにていりのところに戻ると、彼女は笑顔を咲かせた。
その日、結局バイトに一時間遅れて店長に怒られて、俺はぺこぺこと頭を下げた。
「店長、遅れた理由がゾンビに囲まれた女の子を助けようとしたせいで、とか言ったら怒ります?」と試しに聞いてみたら「丸めるぞ、お前の頭」とバリカンを手にして脅された。
次の日、ていりが目覚めたらきのうのゾンビ化現象のことなんて嘘みたいに綺麗さっぱりなくなっていて彼女の世界が元通りになっていた――なんて都合よくはいかなかった。
二日目も同じくていりの世界はゾンビに埋め尽くされた。
初日ほどの動揺はなかったが、体育などどうしても接触することがあるとていりは委縮してしまう。
男女別の授業は仕方ないが、俺は出来る限りていりのフォローに回った。
登校と下校もていりに付き合った。
まだ薄暗く肌寒い中、布団から抜け出して電車を乗り継いでおよそ一時間かけて迎えに行き、帰りは家の前まで送ってすっかり日が暮れた頃に帰る。
「安藤くんって、ていりさんと付き合ってるの?」
ある日、世話焼きっぷりが目立ったのか、吉野かなえがそう突っ込んできた。
「いや、別に付き合ってはいないけど……」
「じゃあなんでていりさんのそばにばっかいるの?」
「おかしいか?」
「おかしいっていうか、本当に付き合ってないのかなーって。そこまで優しくできる理由はなにかなって。ちょっと聞いてみたくてさ」
胸の中に答えはあったが、それを他人に口にすることはなかった。
ゾンビ化現象に対して根本療法は見つからず対処療法の日々が続いた。
手探りでとにかくしのぐしかなく、ていりのほうもゾンビが襲ってくることはないとわかるとがんばって慣れようとしていた。
だが、事態は好転するどころか悪化していった。
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