第19話「聖処女サトゥルヌス、一」
X市立大学、昼休み。啓太は授業が午前中に終わり、特に用事もなければそのまま家に帰るつもりでいた。
「啓太っ! 昼食終わったらすぐに行探研へ集合! 以上っ!」
啓太の目論見は、午前中最後の授業の前に颯爽と現れて去った千夜子によって打ち砕かれた。
そのまま無視して帰るのも可能だが、啓太には千夜子との雇用契約がある。命令を無碍にして帰ったならば、後でクビになりかねない。
啓太は仕方なく学食で早々に昼食を終え、千夜子の待つ行探研へ急いだ。
「おう、来てやったぞ」
行探研の扉が開かれると、部屋の中では千夜子と亜子がビル群のように机に積み上げられた本を前に、読み物をしていた。
亜子の後ろから盗み見た本は分厚く、中身はオカルト系だ。黒魔術の準備に必要な物、呪いをかける方法、悪魔や妖精の名前ばかりが載っていて。それはまるで難読な知識を羅列した、文鎮のようだった。
「何だ、読書会でも始めようってのか?」
「違うわよ。これも行方不明者捜索の一環よ」
積み上げられた本の間から顔を出した千夜子が、そう否定した。
「今から叔父の蔵書を全て調べるの。今、机の上にある分はまだ調べていない本よ。この中にきっと、叔父の行方を知る手掛かりがあるはずなの!」
「え、これ全部調べるのかよ」
見た限り机の上にある本は、物を置くスペースがないくらい多い。そのうえ高さはそれぞれ啓太の胸元まで積んであり。これは一日調べても終わりそうにはない。
「……少しずつにしないか」
「それでもいいけど、時空の狭間を探索しながらだと、私が一人で一年かけても蔵書の五分の一くらいしか進まなかったわ。これじゃあ、大学卒業までに間に合わない。だから三人で手分けして調べるしかないじゃない」
「調べるって、具体的に何を探すんだよ」
「それは叔父の残したキーワード、生まれ変わり、よ。このワードを含むページに栞を貼って、目印にする。ある程度調べたら、私が栞のページを再度確認するわ」
「そいつは二度手間だな。もっといい手はないのかよ」
「無いからこうして苦労してるのよ。例え困難があっても、調査は地道な下積みから! 啓太も手伝いなさい」
千夜子に促されて、啓太は亜子の向かい側に座る。
座った後は試しに、間近の本の山から薄そうな一冊を手に取る。それでも、その本は指二本分の厚みがあり。これなら大学の参考書の方がまだ薄いと思えた。
啓太はげんなりしながらも、手に取った本を開いてみる。すると、中から古本特有のカビた臭いが鼻先をくすぐり。更にやる気が削がれた。
「ゆっくり読むんじゃないわよ。一ページ十秒で、休みなく読みなさい。明日明後日の土日は大学に籠って読書時間よ!」
「か、勘弁してくれ」
啓太は自分を奮い起こして、作業に取り掛かる。
最初の一時間は同じペースを保つも、三時間、五時間ともなると話は違う。
啓太の読み進む速度はだんだんと遅れ、気づけばもう夕方だ。本はまだ、十冊も読めていない。
「遅いわよ、啓太。私はこれでニ十冊。亜子は?」
「私は十五冊っす。まだまだいけるっすよ」
本のバリエーションはオカルト以外にも、宗教、スピリチュアルと様々あって飽きはしない。けれども、どの本も文字の量が多く、ただただ辛い。
もし仕事の内容を変えられるなら、接客業の方がまだやりがいがある。
「ちょっと待て、休憩だ。トイレ休憩!」
啓太はトイレに逃げ込むために立ち上がる。ただ立ち上がる際、積んである本に体重をかけたのがまずかった。
「おっ!?」
本が滑り、啓太はバランスを崩す。そして、勢いあまって机にぶつかり。上にあった本が、倒れた啓太の上に雪崩れ落ちてきた。
「うおおおおおっ!」
啓太の頭に次々と本の角が落下してくる。あまりの多さに啓太は回避することもできず、顔を両腕で庇った。
「啓太さん、大丈夫っすか!」
「もう。本が崩れちゃったじゃない。全部直しなさいよ」
安否を気遣う声と、お叱りの声を浴びせられながらも、啓太は本の海から顔を覗かせた。
「泣き面に蜂とはこのことか。ったく、手間ばかりかかりやがる――うん?」
啓太は何気なく地面に広がる本の中から、一冊の本を手に取る。それは新興宗教を紹介する薄い冊子であった。
何故か中身が気になり、啓太は本の中で本を読む。その呆れた行動に、千夜子は小さく舌打ちをした。
「笑いの法、か」
啓太の手に取った本の、新興宗教の名は<笑いの法>。まさか、それが探していた叔父の手掛かりであるとは、その時誰も気づいていなかった。
<笑いの法>の案内書が叔父の手掛かりと判明したのは、ある一文からだった。
「釈迦の生まれ変わり?」
「ああ、ここに書いてある。しかも下線が引いてあるから。たぶん、千夜子の叔父の筆跡じゃないのか? よほど強調したかった一文なんだよ」
「でも釈迦の生まれ変わりって、関係ある? 私は叔父が妻の蘇生を目的にしていたと思っていたのだけど」
「俺に訊かれても知らないって。そもそも、釈迦に生まれ変わりの話があるのか? キリストの話はたまに聞くけどよ」
「ええ、あるわよ。ネパールの村ではいつかお釈迦様が生まれ変わるという伝説があるし、実際に釈迦の生まれ変わりだと言われた人物もいるわ。ただし、それ以前にお釈迦様は悟りを開いて六道輪廻を離れ、極楽浄土に行ったとされている。どちらが正しいかは、人によるわね」
「へー。そうなのか。じゃあ、この宗教は前者の方を信じているのか」
「笑いの法、ねえ。聞いたことのない宗教法人だけど、仏教系なのかしら」
啓太から冊子を受け取った千夜子は、内容を拝読する。千夜子の目がするりするりと、滑るように文字列を流し読み。最後はあるページで止まった。
「笑いの法は今から五十年前に発足した宗教法人らしいわ。紹介文によれば、三十五年前に代表が息子に移り変わり。そして重要なのは三十年前、当時の代表の娘が受胎したそうなの」
「結婚してたのか。なら普通だな。その子供が釈迦の生まれ変わりなのか?」
「そうらしいけど、大事なのは娘が誰とも結婚していなかったという点よ。それも両親以外との接触も無しにね」
「両親以外って、ひどい話だな。しかし、両親しか接触していなかった、ってことは――」
「その可能性もあるわね。ただ笑いの法の中では、娘は処女懐胎したことになっているわ」
「処女懐胎。確か、キリストを産んだ聖母マリアの受胎の仕方だったか?」
「その通り。これじゃあ、仏教とキリスト教のミックスね。新興宗教では珍しくないのかしら」
「処女懐胎ってのわ。文字通りの意味だよな」
「ええ、処女を喪失していない受胎の仕方。もしくは未婚の女性の妊娠のことね。この場合、前者の方よ」
啓太と千夜子が会話をする最中、亜子が質問した。
「処女ってなんすか?」
「はっ?」
流石に亜子とはいえども、その知識の無さはやばい。高校生レベルの保健体育の情報がないのは、本当にやばい。
「まず聞きたいのだけど、セックス、って知ってるわよね」
「それは大丈夫っす」
「それでね。女性は男性とセックスする前の状態を、処女、って言うの」
「なるほど。つまりコウノトリが子供を運んでくる前のことっすね」
「ええ、そうよ。――えっ?」
「……えっ?」
千夜子も亜子もIQが溶けたような顔をしている。これは後で、千夜子の徹底的な教育が必要そうだ。
だが先に、こちらの話を終えなければならない。
「ところで、釈迦の生まれ変わりの話はどこいった?」
「……あ、それね。代表の娘の出産は上手くいったそうなの。でも、それだけじゃあ、釈迦の生まれ変わりなんて分からない。証拠は別にあるの」
「別。っていうと?」
「処女懐胎した娘に六神通の一つ、他心通の能力が開眼したそうなの」
「六神通? 他心通?」
「ああ、そこからよね。六神通とは、仏教における仏や菩薩が持っている六種類の超人的能力のことよ。これは仏だけじゃなく、沙門果経という経典によれば修行者が修行の果てに得る能力でもあるの。
そしてこの沙門果経の中で、六神通について説いているのは釈迦本人というわけ」
「へー、じゃあ他心通はその六神通の一つか」
「その者の心がそうであるか否かを知ることができる。サクッと言えば他人の心を自分の心として洞察する力。それが他心通よ」
「心を読むのか。怪しい宗教ではよくありそうな話だな」
「笑いの法では、他心通は六神通をもつ胎児。つまり釈迦と繋がっているから、母親が六神通の一つが使えると解釈したそうなの。ちょっと無理のある考え方だけど、産まれた子供は本当に六神通を持っていたそうなの。案内書によれば数日後には生まれ変わり本人を公開する予定だったそうよ」
「そんな話があるなら、もっと笑いの法の話を聞きそうなものだけどな」
「そうよね。噂の一つもないなんて、変だわ。これは更に調べる必要がありそうよ」
叔父の手掛かりを見つけた千夜子は、意気揚々と動き出す。まだ釈迦の生まれ変わりが叔父の探している生まれ変わりとは限らないのに、期待するのはやや早いのではないだろうか。
それでも、この本探しと言う徒労が終わるのなら、啓太にとって何でも良かった。
「次は市の図書館に行って、笑いの法に関する本と新聞を探すわよ。借りたら全部私の家に持ち運んで、三人でオールナイトの調べもの。行くわよ!」
啓太は千夜子の言葉を聞き、悔しそうに低く唸った。
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