17カオス 何に惹かれたのか見極めよう
前回の続きのような話です。
前回は、東京藝大の話でした。藝大の学生はすごい。たとえ世間の常識や当たり前とは違っていても、自分たちの感じるままに表現している。――というような話を書いたように思います。
それと少し関連する話。
子どもの頃の私(幼稚園や小学校低学年くらい私)は、絵を描く人になりたかった。なんでかは分かりません。無性にそう思っていました。絵はさして上手ではなかったけれど。
なので、絵を描くのは好きです。
中学生の頃のことです。
美術の授業で写生の課題が出ました。「いただき!」と思いました。教室で受ける授業と違って、屋外での写生は自由です。先生も校内のあちこちに散らばったすべての生徒をチェッするわけにはいきません。繰り返します、写生の授業は自由なのです。
私はことさら人目につかぬよう、慎重に写生する場所と写生の対象を選びました。学校の敷地内のはずれにあるプール。そのプールと学校を取り巻くフェンスの間のわずかな隙間に私は潜り込みました。私はそこで見つけた木の切り株を写生することにしたのです。
先生の目は届かない。春の陽気は気持ちいい。一時限まるまる写生に当てていい美術の時間は自由でした。私は勇んで、切り株の写生取り組んだのですが……。
その写生の授業は、一時限で終わるものではなく、二、三週間にわたって下書き、彩色を重ねていく課題でした。1日だけでなく、日をおいて何度も対象を描いていくのです。私は困りました。
季節は五月。切り株から芽吹いた木の芽は、日をおうごとに長く伸び、葉を広げ茂らせ、数週間のうちにどんどん姿を変えていってしまったのです。先週描いた下書きが、今週はまったく違う姿を見せていて書い直し、全然、彩色へ進めないのです。
絵の上手な同級生は、日を追う毎に成長する植物などではなく、コンクリートで出来た色彩もおおむね一様で、変わりようのない校舎なんかを描いていて、それは上手に描いていました。
結局私は何度も下書きを描き直した挙句、中途半端に彩色した写生画を提出することになりました。
――おれも校舎を描けばよかった。
しかし、いまにして思えば、もっと自分がなぜ切り株をえがこうとしたのかを、もっとよく考えればよかったなと思います。
校舎の写生のは、なるほど上手に描いたように見えます。でも、上手に描くということに、どれほどの意味があるというのでしょう。
いくらそれらしく、上手に描けたとしても、何のために校舎を描いたのか、その部分が抜け落ちているのだとすれば、ただ単にきれいな絵を描いたのにすぎません。なぜ描きたかったのか、見る人に何を伝えたいのか、その肝心なことが抜け落ちた絵になっていはしないでしょうか。
切り株を写生した私は、その切り株から新たに伸びはじめた芽の鮮やかな黄緑色に木の生命力を感じ、強く惹きつけられたから――これを描いてみたい――と思ったはずなのです。私が描くべきは、単に切り株ではなく、春を迎え今まさに枝葉を伸ばそうとしている木の生命力に出会った感動だったのです。
中学生が絵のモチーフにするには、難しいすぎたかもしれません(笑)
あのときの私は「本当ならもっと上手に描けるのに。描きやすいものを写生すればよかった」と残念に思いました。でも、本当は切り株でよかったんだと今更ながら思います。
――やりたいことをやる。
――おもしろそうだから描いてみる。
芸術をはじめるのに、これ以上正しい姿勢があるでしょうか。
絵は、上手に描けることにこしたことはありません。下手すぎると何を描いているかわかりませんから。でも「描きやすい対象を選んで描く」というのが、どれほど芸術にとって無意味なのか、『最後の秘境 東京藝大』を読んで気づかされました。
これは小説でも一緒ですよね。
――書きやすそうな小説を書く。
いかにもおもしろくない小説になりそうです。
でも、小説を書く辛さがわかってくると、ついつい「これでいいかな」と考えがち。Web作家あるあるじゃないですかね。
いつまでも「こりゃ、おもしろそうだ!」という熱を持って小説を書き続けたいものです。
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