7-9

 自分の心臓の音が聞こえる気がする。

 壁に背を預け投げ出した手を足を動かす音すらあたり一面に響き渡る。

 暑いなと、フカミは何度目とも知れずに思う。ひっきりなしに流れ続けていた汗は、止まって乾いて体中の肌をピリピリさせる。

 フカミと同じように座り込んだシノは、足を抱いたままの姿勢で静かな寝息を立てている。シノの長い髪は腕に足にところ構わず張り付いて、張り付いたままで乾いていた。

 死ぬのかな。フカミはぼんやりぼんやり思う。

 食事と水はニ、三度差し入れられていた。少なくともジョアンナは殺すつもりはないらしい。死にたくなければ扉を開けて。そう言いおいたこともある。そのたびにシノはフカミを抱き寄せ首を横に振り続けた。カンリシャは島と神様に殉じるのだ、と。

 そしてフカミは抱き寄せられながら思うのだ。ここで神様が暴れたとしても。島とみんなが無事ならば。

 遥か天井近くから、幾度か聞いた音が降ってきた。音は硬く高く神殿の内を響き渡る。階段を降りてくる音だ。

 フカミはぼんやり顔を上げる。目のかすみか熱気のせいか、ぼんやりと歪んで見える階段の先の音を聞く――音は重なって聞こえていた。

「二人?」

 シノは身動ぎすると顔を上げた。ぼんやりと階段を見上げる。耳を澄ます。カンコンタントン。音は確かに近づいて来る。

「――ちゃん!」

 フカミは思わず目を瞬く。腰を浮かせる。

「……え……?」

 音は幾重にも重なり合って底まで届いた。だから、よく聞き取れなかった。あるはずがない、聞き間違いだ。思いつつも声を待った。

 足音はどんどん降りて近づいてくる。転げるように駆け足で。

「フカミちゃん! お母さん!」

「ミソラ」

 フカミのように高い位置で一つに括った髪を弾ませ、ミソラはパタパタと階段を降りてくる。完全に降りきると、汗を滴らせたままの中腰のフカミヘと被さるように抱きついてきた。

「やっと会えた……!」

「ミソラ、どうして」

 ミソラの後を追う気もなく置いてきた足音から呆れたような声がした。

「言っとくけど、その娘から言い出したんだからね。ジョアンナは喜んでいたけど」

 フカミはミソラを引き剥がす。真っ直ぐに立てばフカミと同じ位置、同じ形の目をフカミは正面から見返した。

 ミソラはくしゃりと顔を歪める。泣いているような、笑おうとしているような。

 その頬を汗がひっきりなしに流れ続ける。

「曽田さんたちに伝えたよ。それに今、省吾お兄ちゃんが調べて伝えてる。明日には国の船がきっと来る」

「本当なのね?」

 ミソラはシノの手を取った。シノを引くように立ち上がらせると大きく大きく首を上下に振り動かした。

「船がジョアンナさん達の国の船なら、いけないことをしているの。それだけでも来る理由になるって。島まで連れてきてくれた人も、違う方法で人を呼んだの」

 ミソラは肩で大きく息をしている。走り降りるのに乱れた息は戻る様子を見せなかった。。

 カンカンからコツコツへ。ヨツバの足音が変わって止まった。少しばかり離れた場所で、呆れたようにけれどほんの少しだけ微笑んで、こちらを見ていた。

 馬鹿な娘だね――そんな言葉が聞こえてくるようにフカミには思えた。

「国の船が着いたら、医療棟を見張っていた人とか、船とか、みんな捕まるの。そうしたら」

 ミソラは息を荒げたまま、シノを見上げる。フカミを見る。

 ふとフカミは美空の目を見返した。フカミを確かに見ているはずなのに。

「島は、全部きっと、元通りになる」

 ミソラは一体、どこを見ている?

「だけど、神様に、また、眠りに付いて、もらわないと」

 ミソラは柱へと向き直る。立ち並ぶ神様を数えるように見回して。

 そしてシノへと振り返った。

「お母さん。扉を開けて。神様を、なだめる方法を知ってるなら、使って、欲しいの。このままじゃ、暴走しちゃう。島が、壊れる」

 息を呑む音が聞こえてくる。興味深いものを見るように、ヨツバはわずかに姿勢を正した。

 ――暴走。

 フカミは口の中で繰り返す。とても怖いもの。人が扱ってはいけないもの。触ってはいけない、起こしてはいけないもの。未来永劫、眠っているはずの。

 起きかけているとは思っていた。それでもなお、護らなくてはいけないものだと、シノに抱きしめられて謝られて、フカミはそう考えていた。

 ――暴走したら。

 フカミは焼け石を想像する。このまま熱くなり続けたら、何ものをも燃やして溶かしてしまうだろうと。しかし、その先をフカミは想像することが出来ない。

「神様は、たくさんの人を、殺してきた。とても広い土地を、人が住めない、場所にした。この島を、そんな場所に、したくない」

 ――人。

 ショウゴが浮かんだ。カタセが浮かんだ。農舎の人々、子供たち、賄い担当、漁舎の人々。

 ――島の、みんな。

「ジョアンナたちは、確かに神様を欲しがってる。でもこうなったら、暴走が先か、あんたが折れるのが先か。やきもきしてるね」

 ヨツバは階段の手すりに持たれかかり他人事のように淡々と言う。

「死にぞこないをあっさり案内してあげたのもそのためよ」

 その声は笑みさえ含んでいるようだった。

「あの扉の向こうでは、エリックが必死に開けようとしてるのよ。なんでも、合言葉がすごくすごく数が多いんですって。大きな船の力を借りても、探し出せないくらいに」

 視線は、坂の上の色の違う壁へと注がれている。倉庫の奥の。ミソラは呟く。海沿いの崖下の巨大な扉の、その奥の。

 ヨツバは楽しげに言葉を続ける。

「本当なら、船の力を借りてとっとと合言葉を探し当てて、神様を手に入れようと考えていたらしいわ。島長を押さえればみんな何も言わない。食事を助けてもらう算段もつく。ホマレを取り込んで、島長を追い出した。あんたを脅して、神殿を開けた。そこまでは順調だった」

 かさりと微かに衣擦れがする。

「初代か、本土の人たちか知らないけど、一枚も二枚も上手だったということね」

 シノは拳を握りこんだ。まるで何かに耐えるように。

「あなたは、それでいいの」

 ヨツバは。常に怒りを湛えた目を今は穏やかに笑ませてシノを見やる。口元は少し歪んで、笑みの形を取っていた。フカミを見る。ミソラを、見る。笑む。

「わたしの願いはもう叶った。もう、どうでもいい」

 ヨツバは視線を柱へ向ける。音もなく目覚めていく柱を見つめ、微笑みを深めさえ、した。

「好きにすればいい。島ごと心中するのも、神様をなだめるのも、扉を開けるのも」

 シノは柱に目をやると、ミソラへ目を留め、フカミを見つめる。床のあらぬところをじっと見つめ、目を伏せた。

 タカハシカズミ、イスルギマサノリ、ミタムラカナエ、セキモトミツロウ。シノは聞かせるためでなく呟き続ける。それは、昔話に聞かされた初代たちの名前だ。

「フカミ」

 そして、フカミを見、おもむろに口を開いた。

 フカミはシノを見返した。目を上げたシノは強い強い目をしていた。

「みんなに伝えて。山から離れるようにって」

 それはつまり。出かけた言葉をフカミは飲み込む。言うべきことはそんなことではきっとない。

「わかった」

 シノはミソラへと微笑んだ。フカミはつい、見ていられずに目を逸らした。寂しいとも悲しいとも辛いとも言えない、そんな笑顔で。

「ミソラ」

「お母さん、私」

 ミソラが伸ばした手をシノはやわりと拒絶した。行き場を失ったミソラの手へとフカミは自分の手を重ねた。

「ミソラ、お父さんと仲良くしてね。みんなをこれからをよろしくね」

「え、うん、でも、」

「ミソラ」

 遮るとミソラは息を飲んだ。ミソラの手が、つないだ手がビクリと震えた。フカミはゆっくりしっかり力を入れる。

「ヨツバは、」

「わたしは好きにする。あんたの指示も希望も聞かない。今は」

 ヨツバはふらりと手すりを離れた。フカミの手を掴み、引く。階段へと押しやるように。

 早く行け。そう言っているように、フカミには聞こえた気がした。

「あんたといてもいいかと思ってる。島長の陰気な顔を見るよりずっとマシ。……姉さん」

 ヨツバはシノの背を押し坂を上る。シノは最後にフカミに頷いてみせた。

「お母さん!」

 ミソラの手を引く。フカミは階段へと足をかける。

「わたしたちは集会場へ戻る。ジョアンナに開くことを言って、みんな逃がす」

「それはもう、シガラキさんが」

 フカミは頷く。誰かがすでにやっているとか、そういうことでは、多分、ないのだ。

 長い長い階段を一歩一歩登っていく。一歩、一歩、踏み出すごとに、迷いながら、歯を食いしばりながら、決して泣いたりしないように、前を見て。

 躊躇いながらもそれでもミソラはついて来た。

 時間をかけて階段を登り切る。ミソラの荒い息が肩口から聞こえてくる。熱くなった黒い板にわずかに触れてみただけで、音もなく扉は開いた。

 熱い風が動いた気がして。

 幾分か涼しいカンリシツへと入り込み、神殿へと振り返ったその瞬間、扉が閉まる隙間から、遥か下方で漏れ入る光を確かに見た。

 ミソラはフカミに縋り大きく荒く息をする。集会場へと続く扉が不意に開いて、開けたジョアンナが目を見開く。

 フカミは精一杯に睨みつけた。

「下の扉は開いた。それであなた達は満足なの?」

 ジョアンナはフカミを押しのけ神殿への扉に取り付く。もう、フカミもミソラも、誰にも興味は無いのだと、その態度が示していた。

 フカミはカンリシツを出る。困惑顔のホマレを無視してミソラとともに集会場の外へ出た。

 眩しすぎて目を細めた。太陽は中天に昇る途中にあり、常と何も変わることなく海を島を照らしている。虫の声が草木の音が鼓膜へと押し寄せてくる。聞き慣れた音のはずであるに、煩くそして、心地よかった。海を渡り木々を撫でたそよ風が腕をくすぐり過ぎていく。汐と土と草の香りが二人をいつまでも取り巻いた。

 フカミは一つ大きく息を吸う。出られただけで満足しているわけにはいかなかった。

 海岸の方を見下ろした。農舎の人々と思しき姿が浜辺の方に集まっている。人々の中には動き回る小さな姿も見受けられた。念の為と駆け寄った子供舎はすでに無人で、農舎もすでに空なのだろうと足を医療棟の方に向けた。

 医療棟もまた静かだった。見張りはどこへ行ってしまったのか、近づいても出てくる気配も感じられない。フカミの後ろにピタリとついていたミソラは、小さく疑問の声を上げる。

「いないね。気絶していたはずなんだけど」

「いないならいないでいい」

 ミツも海岸へ向かっただろうか。思ったけれど、医療棟から見下ろす限り、ミツのようなそんな姿は見えなかった。

 フカミはそろりと扉を引き開ける。首を突っ込み中を伺う。奥の部屋だとフカミの上から覗き込んだミソラの声に、覗くのは止め二人で中に入り込んだ。

「お祖母ちゃん、足をひねって動けないんだって」

 奥の扉を引き開ける。扉から始まる廊下には個室が四つ並んでいる。手前はシガラキの寝室だった。隣はデニス。最奥はカタセのものだ。扉は全部中途半端に開いていた。フカミが違和感に目を眇めている間に、先に立った美空は奥から二番目の扉を迷いもなく引き開けた。

「お祖母ちゃん!?」

 呻くようなが聞こえた。ミソラが部屋へと入り込む。慌ててフカミは後を追う。ミソラは床に屈んでいる。ミソラの陰からベッドを背にして足を投げ出し床に座っているミツの小柄な姿が見えた。

「ばあちゃん!」

 シャツの胸元辺りに酷い皺が刻まれていた。喉元が赤くなっていた。覗き込んで肩を揺すればうっすらと目を開けて、苦しげにしかしきっぱり、首を横に振ってみせた。

「儂はいい。行きなさい」

 ミツは荒い息を繰り返す。どうしよう、ミソラはフカミに目で訴える。

「お母さんが、下の扉を開けたんだ。下に行けって」

 とにかく立たせて。思って背中に回した手は、ミツにやんわり止められた。再びミツは首を確かに横に振ってみせる。

「儂は、行かん」

「お祖母ちゃん!」

「儂はこの島の管理者だ。最後まで見届けるのが筋というものさ」

 ミツは自ら片足を引きつつベッドに縋り立ち上がる。そしてそのまま、ベッドの上に腰掛けた。

「外にいた若いのに少し首を締められたがね、もう大丈夫だ」

 ミソラがわずかに息を飲んだ。

 ミツは口元だけで笑んでみせる。

「なにやら慌てて出ていって、そのまま戻って来ないからね。もう儂の事など、どうでもいいんだろうよ」

 フカミはミツに合わせて腰を浮かせる。

 突き上げるような揺れが来たのは、その時だった。

 フカミは思わず尻もちを着いた。ミソラは床へ座り込んだ。ミツはベッドの上で手を付いている。

 同時に聞こえた大きな音はどこからと言えるようなものではなく、反射的に見た窓の外を海鳥が群れを成して過ぎて行った。

 揺れはその大きな一度だけのようだった。フカミは瞬きを繰り返した後、窓へと慌てて駆け寄った。

 傾いだ船が目に入った。ミシミシと堂の方から音がした。海から吹き上げ抜ける風は人の悲鳴まで乗せていた。

 一体何が起きたのか。

「シノはお役目を果たしたようだね」

 ミツは片足を引きずりながら、フカミの横へと並び立った。窓の外、青々と広がる大海原とどこまでも高い空の間では船の辺りばかりが騒がしい。

「お前たちは行きなさい」

 フカミはミツを見返した。ミツはフカミをじっと見ていた。そして、振り返るとミソラの方を。

「ばあちゃん」

 ミツの手がそっと伸ばされる。いつの間にか追い越していた孫の頭に届くように。

 軽い重さをフカミは感じる。撫でられる。

「新しい時代は若いもんが作るべきだ」

 フカミの肩へ手をかけて、そしてそっと背中を押した。

「フカミ。ミソラ。お前たちは私の孫だ。その意味が分かるね?」

「もちろんだよ、お祖母ちゃん!」

 フカミは一歩、押されるままに歩を進めた。ミソラの声を聞きながら、その意味を思い、察する。

 ――あたしは島長の、孫なんだから!

 子供たちを相手にするとき、農舎の漁舎の手伝いをするとき。幾度思ったことだろう。

 フカミは歯を食いしばる。ゆっくりと頷いた。

「行きなさい」

 一歩進む。二歩進む。ミソラの手を取る。連れて出る。

「フカミちゃん?」

 ミソラは。戸惑うように連れられながら、それでも外まで着いてきた。

 医療舎を出る。フカミはミソラの手を引いたまま海岸へ向かう方へと足を向けた。

「屋根が」

 ミソラの声が異常を告げた。食堂の屋根が捲れ上がっていた。振り返れば堂の屋根も崩れている。ミソラの腕は重くなった。フカミは構わず歩を進め。

「フカミちゃん待って!」

 ついにその手は振り払われた。

「お祖母ちゃんを一人にするの?」

 鼻をすする音が聞こえた。フカミは目を瞬き、海の方を桟橋を白い大きな鳥のようなものを見る。目を瞬く。振り返らない。振り返れない。

「するよ」

 振り払われた手で頬を強く強く拭った。

「置いていくの?」

 頷けばいいのか、そうじゃないと言えばいいのか。

「あんな所に一人ぼっちで、置いていくの!?」

「島長は!」

 怒鳴り声になってしまった。息を呑む音が聞こえてきた。

 フカミは歯を食いしばる。二度三度と深い呼吸を繰り返す。絞り出すように言葉を続けた。

「残るって決めたから」

「わかってるよ。私たちはその孫、でしょう? お母さんだって助けなきゃ。あんな音がして下は一体どうなってるのか――」

「助けない!」

 フカミは目を力を入れて必死で閉じる。零れてしまう。必死で耐える。

「わたしたちは島を出るの! 神様から、島から、島長を置いて、お母さんを置いて、みんなで新しい場所に行くの!」

 目元が熱い。しゃくり上げるのを止められない。薄めを開ければ『鳥』が歪んだ。こちらを見上げているらしい海岸の人たちの姿が滲んで歪んだ向こうに見える。

「わたしは孫だ。みんなを、みんなを安全な場所まで連れて行く。最後の長の直系としてそれを見届ける」

 フカミはミソラへ振り返った。涙はあとからあとから溢れてくる。息をするたびに肩が揺れ、幾度も幾度もしゃくりあげた。止めようとしても、止まらない。

 再び突き上げるような揺れが起きた。ミソラは大きくたたらを踏む。フカミはその場にしゃがみこんだ。

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