7-7

「あなたヲ迎エに行こうか悩ンデいたノだケド、手間ガ省けタ」

 黒い板が音を立てて落ちていった。表面に放射状に無数の筋が生まれていた。

 黒い板を叩き落としたしなやかな手は今、フカミの腕をひねり上げている。試しに抵抗してみても腕に痛みが走るだけで、女性のわりに大ぶりな手は全く揺らぐことはなかった。

「放して」

「放したくナイから押サエテるノ。これでイヨイヨ時間が無くなってシマッタ。あまり変わらナイかも知レないケド」

 頭の上から降ってくる低い女性の知った声は、さぁ、とフカミを促した。

「神殿ヘ行きマショウか」

 ジョアンナはフカミの腕を左右まとめて背中で掴むと、遠慮も無しに腰を押す。フカミはたまらず蹈鞴を踏んだ。

 屋内へ続く階段を掴まれたまま歩かされた。集会場まで下ろされて、真っ青な険しい顔のホマレの前で神の扉の横に手を置く。

「なんで」

 何でも無いことのように扉は開いた。どんと、腰が押されて手が放される。押されるままにフカミは管理室へと転がり込む。

「しばラク待っていテちょうダイ。出来ればシノを説得シテくれるト嬉シイわ」

 恩情とばかりに明かりをつけて、ジョアンナは一歩集会場へと足を引いた。扉は音も立てずにしまっていく。

「ちょっと、待って、ジョアンナ、ホマレ!」

 扉の横、黒い部分に手のひらを置いても扉が動く気配はない。外へ向かう扉に取っ手はなく、押しても引いても滑らそうとしてみても、扉はびくとも動かなかった。


 そしてフカミは、閉じ込められた。


 扉を背にしてフカミは深く座り込んだ。大きく大きく息を吐く。吐いた音が部屋中に響くようで、やがてきぃんと耳の内側が鳴り始めた。そろりと膝を引き寄せ抱える。衣擦れの音すら大きな音に感じられた。

 風はなかった。空気は重みを持つかのように凝っていた。膝を抱えた腕の内にじわりと汗が浮かんでいく。髪が頬にうなじに張り付いた。

 フカミはふと顔を上げた。まだ耳はきぃんきぃんとなんとも言えない音を拾ってはいたけれど。カンリシャになったというあの日、響いていた低い音も、鳥肌が立つかと思えた凍えた空気も、ここにはなかった。

 汗が肌の上を伝い始める。伝い滑ってポトリと落ちる。

 このままにここにいるのだろうか。どうしよう。どうすれば。思い見回した部屋の中、もう一つの扉にフカミは気づく。延々と続く階段の始まり。神殿へと続く扉だ。

 扉の横の黒い板にそっと手のひらを合わせてみる。赤いランプは待つこともなく緑に変わり扉は静かに口を開けた。

 階段へと一歩踏み出す。足音が響き虚空へ消える。呼吸の音が聞こえてくる。汗ばんだ手が手すりを掴むペタペタという音まで聞こえてくるような気がしてくる。一歩進む。足下を照らす光が無音で灯る。カンコンとペタペタと僅かな吐息を聞きながら、ただ階段を降りていく。

 足下から響く音がカンコンからぺたりに変わって、大きく吐いた息もまた辺りにやたらと響いて聞こえた。

 フカミはシノがしたように壁沿いを手で探る。突起を見つけて押し込んだ。

 薄明かりに慣れた目に唐突な明かりは眩しくて。閉じてそろりと開いた先に、あの日見たままの数多の柱が何も変わらず立っている。

 ふとフカミは降りてきた階段を辿るように見上げていく。光の届かない天井は、薄暗く見通せない。腕を伸ばして手で摩る。今は上着を羽織っておらずあの日の冷気はどこにもない。手のひらで汗の湿りも感じてはいたが、管理室ほどは暑くもなかった。

 フカミは柱へ近寄ってみる。表面へと手を翳し、触る前に引っ込めた。あの日感じたぬくもりは暴力的な熱さに変わった。冷やされることなく冷えることなく、熱をその内に溜め込んで。

 ――このまま熱くなり続けたら?

 後ずさり、フカミは想像する。

 石を熱し続けると赤く輝き始めることは知っている。

 赤くなるまで十分熱せられた石は僅かな時間で水を湯にまで変えてしまう。触れた草木を一瞬で燃え上がらせて、魚を焼くことすら造作も無い。熱い熱い塊だ。

 例えば柱が、そんなものになるとしたら。

 ここにある全ての柱が、熱い石になったとしたら――神様が、目覚めたとしたら。

 ――決して目覚めさせてはいけない、祟り神。

 どうしたらいい。どうすれば。

 フカミは階段の下から始まる坂を登っていく。他と色の違う壁の脇には黒い板が嵌まっていた。触れば文字が現れたが、どうすれば良いのかフカミは知らない。

 他の場所は。

 坂の上からは長い回廊が延びている柱の上部を横から眺めるような高さで、延々と続いている。フカミは回廊を辿ってみる。回廊は広い空間を半周ほどした辺りで、下りの階段で終わっていた。降り口には同じような黒い板がはまっていた。回すらしい取っ手もあったが、引いても押してもぴくりとも動かなかった。降りた先には異なる色の壁があったが、どれもどうにもならなかった。

 そしてそこには、それしかなかった。

 フカミは階段の下へと壁を辿るように戻ってくる。どれくらい時間が経っただろうか。日射しもなく風もなく、時間感覚などとうに消え失せている。耳が痛い。きぃんと高い音が聞こえ続け、自分で立てる足音と衣擦れと呼吸の音ばかりが聞こえてくる。

 フカミは階段の下で壁に背をつけ座り込む。膝を抱き、自分で自分を精一杯に感じながら。

 漏れ出る嗚咽を必死の思いで飲み込んだ。


 堅く重く甲高い音がどこからともなく響き渡って目を開けた。目の周りはぴしぴし音がするようで、触ればざらりと粉が落ちた。涙を湛えたままで眠ってしまっていたのだろう。

 フカミのものではない音は階段を伝って聞こえてきた。カントンタンと階段は規則的な音を立て続ける。知っている音だとフカミは思い顔を上げた。

「おかあさん」

 シノだった。一人で階段を降りてくる。走り出しそうな、そんな音を立てながら。

 最下段まで降りたシノは、ゆっくりフカミを抱き寄せた。フカミはされるがままに胸に埋まる。やがて、ぽつりと確かに滴を頭に感じ、フカミもまた、目元が再び熱くなる。

 ごめんなさい。シノの声が吐息のように降ってきた。

 神殿が開いた。――シノが開けることに同意した。

 カタセが伝言と共に黒い板を持ってきた。――美空へと連絡し、そして今フカミはここにいる。

 ジョアンナは『説得』と確かに言った。――この状況を変えることがシノには出来るはずであっても。

 ごめんなさい。シノは言葉少なに、謝罪の言葉を繰り返す。ごめんなさい。――それをすることは出来ないのだと。

 お父さんが、きっと。だから。――願うための独り言だとフカミには思えた。

 フカミは、回した手に力を込めた。鼻をすする。大きく息を吸い込んだ。

 ――わかったから。わたしは、きっと大丈夫だから。

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