3-2
防護服に袖を通す。袖口の締まりの具合を見て裾の緩みを調整する。去年から大人向けのSサイズを支給されてはいたけれど、まだ少し美空には大きい。
フードを深くしっかり被り鼻まで覆うマスクを着ける。最後に厳ついゴーグルを被ればできあがり。嫌で嫌で仕方の無かったこの支度も、理由は知れたわけだけれど。
ゴーグルの向こう、鏡の中。個性を無くした白い影が、じっとこちらを見返してくる。
ふと背後に映った白影は孝志だった。ぽんぽんと軽く頭を叩かれて。……ちゃんと着れているのだと、言葉の代わりと美空は思う。
階段を下り船倉へ。孝志に曽田に谷村に松木、省吾に美空。集会場へと向かう面々が診察車へと揃って乗り込む。医療舎までの急な坂道、ほんの少しだけ楽をする。
エンジン音が響き渡り、僅かな揺れとタラップを踏む音がそれに続く。島へ降りれば窓から見える向こう側、内海、港、傾斜を拓いた畑の中に島人達の姿が見える。
半袖シャツにパンツやスカート、むき出しの腕に素足にサンダル。南国らしい軽装がまぶしいほどの日差しの中で日々の営みを続けている。少々すぎた健康的な小麦色で怒って拗ねて呆れて笑う、生き生きとした表情が見て取れた。
ふと美空は目を瞬いた。砂浜の向こう、港の手前を二度見する。網を抱えて談笑する上背のある男性に見覚えがない気がして。
小石にタイヤを弾ませながら、検診車はハンドルを切る。のんびりゆるりと坂を上りはじめれば、男の姿はすぐに樹木の向こうに隠れて消えた。
数分で坂を登り切る。いつもの位置で車を停め、一人二人と降りていく。医療舎住まいのカタセが誰彼構わず声をかけ、次いで島医者が姿を見せた。
美空はぐるりと辺りを見回す。慣れた様子の島人達は視線を寄越してすぐに逸らす。遠く窺う子供達も、顔を向ければ慌てたように散っていった。
ムツミのあの件から、少しばかり倦厭が強くなった。美空でさえそう思う。元々『ホシンと話してはイケマセン』の通りに、手放しで歓迎された風ではなかったけれど。
それでも。少し離れた子供舎の脇、よく知る姿に思わず手を振る。気付いた少女は小さいながらも確かに手を振り返してくれた。
促されて歩き始める。かちゃりと手元の鞄が鳴る。子供舎前を通る頃、少女……フカミの背後の影に気付いた。
すらりとした長身の女性だった。島人には珍しいメリハリのある体型が目を惹く。少しばかり目鼻の大きな顔立ちは日本人風ではなく。
こんな人、いたっけ……?
「美空ちゃん?」
「はいっ」
呼ばれて小走りに追いついた。松木に並び、美空には少しばかり早いペースに合わせて歩く。
もう一度とちらりと視線を向けてはみたが。
もう、フカミも女性も、そこには誰もいなかった。
*
「あれ、ナニ」
空の籠を片手に持って、ジョアンナはフカミの横に並んだ。
フカミはうん、と頬を緩める。白い船が、船から下りてゆるりゆるりと坂を登るケンシン車が、晴れ渡る空の下で眩しく光を返している。
「ホシンの船」
「ホシン?」
フカミはジョアンナを見上げる。きょとんとした目が籠を抱きつつ、フカミの方を見返してきた。
「ホンドの神様のお遣い」
……というものとされている。言った後で口の中だけで転がした。
「かみさま? ホンド、いる?」
子供のような危なっかしい口調のジョアンナにフカミはゆるりと頷いた。
「島、いない?」
ジョアンナはゆるりと首を傾げてみせた。──島に神様はいないのか、と。
フカミは真っ直ぐ視線を向ける。
「島にもいるわ」
集会場の奥。堂の中、さよならの扉の向こうに。
「かみさま、どう?」
「どう?」
ジョアンナは再び首を傾げている。どう……どんな?
「どんな神様かって、こと?」
ゆっくりはっきり言葉にすると、ジョアンナは首を今度は大きく縦に振る。高く結われた長くつややかな黒髪が大きく揺れた。
フカミは何気なくケンシン車へと目を向ける。坂をのんびり登ってくるのが木々の向こうにちらりちらりと見えていた。
──祟り神なの。
思い出すのはシノの言葉。幼年組を集めて開かれる学校で、シノは幾度も口にした。
「島の神様は祟り神なの。決して目覚めさせてはいけない神様だって言われてる」
──初代は神様を鎮めるために島に渡ったのです。
誇らしそうな、もしくは、何かを諦めたような。神様を語るときシノは何時も淡く笑んでいた。その意味をフカミは知らない。
「タタリガミ?」
うん。フカミは頷く。……祟りにあったことはないけれど。
「恐い神様なんですって。沢山の人をあっという間に殺してしまうの」
怒れる神の話は、島が始まるよりずっと前の、とてもとても古い話だ。神の一睨みで何千人も一瞬で燃えて消えたという。
ケンシン車が医療舎前へと辿り着く。定位置で止まり、ぶるりと震えて動きを止めた。
「かみさま、コワイ」
「恐くないわ。私達がいて、ホシンがいるもの」
──ホシンはホンドの神様のお遣いなのです。島が正しく在るかを見張っているの。だから、失礼をしてはいけませんよ。
見ている間に一人二人と白い姿が現れる。音にカタセが現れて、恐い物など知らないように、一人一人に何事かを言い回る。そして。
確かに振られた小さな手に、フカミは思わず笑みを零す。小さく小さく振り替えして、ふと黙り込んだジョアンナを見上げた。
空籠を持ったまま、食い入るようにホシン達を見つめる様を。
「ジョアンナ?」
はっと目を僅かに見開いたジョアンナは、籠を抱え直してフカミへ問いかける顔をする。
「ホシン?」
頷けば、そうかと頷き返された。最後にホシンを一瞥すると、ジョアンナは畑に向かって歩き始める。
「アリガト。戻る」
「待って、私も!」
言いつかっていた仕事があった。途中までは一緒だからと、フカミはジョアンナを小走りで追った。
*
仕事を終えて船に戻ると、その話題で持ちきりだった。
「男だろ、漁師の」
「畑の女も。色っぽい」
「医療舎にもいましたね」
カタコトの言葉で。こちらをじっと。すっかり島人に馴染んで。作業を見られた。
何処の。大陸じゃない。黄色系。南国だな。東南アジア? あの辺で。
「医療を知っている人でしたね」
ドイツ語は綺麗でしたとは、医療用語を繰る孝志の言だ。
食堂の片隅でメモ帳片手に保守員達が推理する。そろそろ良い匂いも漂っては来ていたが、開始の号令はかからない。
暇なら咲くのが雑談の花。ネタはその日のトピックス。
人数は三。東南アジア系。学歴の在るのが混じっているから、ならず者ってワケでもあるまい。
結構美人。漁師もなかなか。乗ってきた船は? そういや港の端っこに。
ねーちゃん胸がでかかったな。尻もいいぜ。うでの細さが。エキゾチックとか言うのかね?
小柄を活かして輪の中心に潜り込んだ美空は、メモを引き受け飛び交う言葉を書き留める。容姿、特徴、目撃場所。推測、憶測。これはきっとセクハラだと思う言葉はさすがに無視をしたけれど。
書くだけ書いて、最初に書いた言葉は手つかず。……彼らは何物なのだろう?
……島人、なの?
立ち入ってはならないという掟があるはずではなかったか。
「おまえら何やっとんだ」
曽田だった。容赦なく人垣をかき分けテーブルを覗き込んでくる。曽田の髭面の向こうには、谷村の細い顔も見えていた。
「団長は見ました?」
飛んだ声はどこからか。見上げても曽田の髭ばかりが目に入る。
「何をだ」
「外国人ですよ。三人目撃されてます」
馴染みの技術要員がメモ帳をつまんで見せた。
「なんだ、そりゃ」
曽田はメモを一瞥する。見上げる美空と目が合うと、美空の目の前に置き直した。
「漁師に一人、畑に一人、医者が一人」
「密入国?」
訝しむ声は谷村だ。盛上の代わりだと初めての時に名乗っていた。つまりお役人様だねと皮肉っていたのは曽田である。国土交通省と聞いた気もするが、何をする役所なのか、美空は知らない。
密入国。こっそり国に入ること。……それくらいなら知っている。
「さぁて、どうですかねぇ」
そうカリカリしなさんな。曽田は続ける。一人険しい顔をする谷村の肩をバシバシ叩く。
「明日みっちゃんに聞いてみましょう」
みっちゃんとは、島長であるミツのことだ。
そしてぽんとまるで置物であるかのように、美空の頭に手が置かれる。二度三度と極々軽く、ついでのように叩かれた。
「で」
曽田は集まった連中をぐるりと見渡す。厨房から漂う香りが一層強くなり始め。
「飯だぞー!」
ざわめきの方向が変わる。集団がゆるりと流れ始める。
美空のお腹も盛大に鳴った。
*
船が着いたその日の夜。陽が落ち残滓も消える頃、船の側、幾つも置かれた大きな箱の横で待つ。
さほど待たずにタンタンと軽い足音が聞こえてくる。ホシンの白服も着ておらずフードもマスクもしていない美空が、笑顔を乗せて勢いのままに飛びついてくる。それをフカミは両手を広げて待っている。
いつの間にやらそんな習慣になっていた。
「フカミちゃん」
「ミソラ!」
「半年ぶり」
あのねあのねと美空は堰を切ったように話し出す。双子だけれど、きっと妹は美空の方に違いない。そんなことを思いながら、人気のない港の端まで移動するのだ。……いつもなら。
フカミの腕の中で身じろぎした美空は、解かれて顔を見合わせて。ためらうように口を開いて、何も言わずに結局閉じた。
「ミソラ?」
どうしたの。フカミは覗き込むようにして美空へ向けて首を傾げる。ずいぶんと今日は大人しい。
美空は慌てたように頭を振った。淡い月明かりの下で、綺麗に揃った髪が舞う。そしてふいと目を反らした。一人先に立ち、港のほうへと足を向ける。一歩、二歩。
かと思えば。あ、あのねっ。思いついたように突然に声をあげた。
「おじいちゃんがね。外国人のこと聞いて来いって」
くるんと回る。すぐに破けてしまいそうな生地の薄いスカートがひらりと綺麗に裾を広げた。
「それって」
フカミは小走りで後を追う。美空に並び首を傾げた。
「ジョアンナたちのこと?」
がいこくじん。聞き慣れない言葉だった。けれど、思い当たる事は他になく。
「ジョアンナって言うの」
ふぅんと美空は頷いた。
デニス、ジョアンナ、エリックの三人についてフカミが知っていることなど、それほど多いわけではなかった。嵐が去った日。三人が島人となると宣言する前日に、集会場に籠もって話をしていた島長とシノならば、もっと知っているのだろうが。
インドネシアという所から来たらしいということ。海の東のずっと向こうに行くはずだったということ。嵐で船が沈み、三人だけが助かったこと。……たまたまヨツバがヨットで通りかかり、島へと誘ったのだということ。
「どんな人たち?」
フカミはクスリと思わず笑んだ。淡い光の下でも判る。美空の目は言葉よりもずっと確かに、興味津々と言っている。……いつもの、美空だ。
「いい人達だよ。小さい子みたいな話し方だし、わからなくて聞いてくることもあるけど」
ジョアンナは真面目だと農舎では有名だった。仕事は何時も率先してやる、知らない料理を作ってみせる、きついことでも音を上げず、常に笑顔を絶やさない。
デニスには、島医者、シガラキも一目置いているようだった。漢方薬の知識も確かで、脱臼、ねんざ、打ち身に切り傷、怪我への対処も間違いない。出産時の知識もあり、時々抜けていることのあるシガラキより、デニスに看てもらいたいという者もいるくらいだ。
エリックは、体格の良さを裏切る事のない力持ちで、釣りの腕前も良いという。もとより彼らの受け入れを真っ先に決めた漁師たちである。馴染むのも早かった。ショウゴなど、心酔の域と言って良いほど完全にエリックに懐いていた。
「天気がね、当たるんだって」
「……天気?」
うん、フカミは頷く。見上げる空には穏やかに星が輝いている。今日も随分暑かった。……暑い日が続くとやがて嵐がやってくる。
ヨツバも天気を読むのが上手いという。幾日もヨットで出かけて何時も無事に戻ってくるのは、それ故だといつか、聞いた。
「嵐になるとか、暑くなるとか」
波の高さに、風の向きに。漁に必要なあらゆることを。
──なーなー、聞いてよ! エリックがさー!
興奮気味に話し始めるショウゴの声がすっかり耳から離れなくなった。毎日毎日、エリックの武勇伝を聞かされていた。
ふぅと美空は波音の合間に溜息をつく。すごいなと、呟くような言葉が届く。
何がと目線で問いかければ、美空は目を瞬いて返した。
「……ちょっと不思議だなって」
「不思議?」
うん、と美空は頷いた。
「島の人になりに来たみたい」
目を瞬くのは、フカミの番だった。
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