島歴97年9月

3-1

 三人は嵐を連れてやって来た。


 荒れ狂う雨風の音が集会場の中まで聞こえてくる。その音に負けないようにと、漁舎の長は声を張る。

 彼らの母船が沈没したこと。命からがらボートで逃げ出したこと。たった三人だけになってしまったということ。こんな嵐の最中では、ボートまでもが沈んでしまうだろうこと。

「島なら安全だ。見殺しにするのも後味が悪いと思い、俺達は彼らを迎え入れた」

 掟が。島外の。ホシンでは。違う国の? 神罰が。

 ざわつく一堂を静めるように、男は雄弁に語り続ける。島人となってもいいと言っている。三人には漁業の、農業の、医療の心得があるという。掟は教えるだけのこと。働かざる者喰うべからずに触れることもない。それどころかこの体格だ、立派な働き手になるだろう。

「救える者をみすみす殺すことはない。そうでしたよね、島長?」

 三人の後方で腕を組みその顔に笑みを貼り付けたヨツバは、島長へ、島長近くで控えるシノへと挑発的に問いかける。

 島長は黙したままだ。シノは口を幾度か開きかけ、遠慮したように再び閉じるを繰り返す。

 広くもない集会場を島人達のざわめきばかりが埋めていく。

「違う国って、ホンドじゃないんだよな?」

 好奇心をむき出しにしたざわめきの一つに、フカミは曖昧に頷いて返した。……いつか美空がニホンとかガイコクとか話していたような気もしないでもない。

「背ぇ高いよな。父ちゃんより力あるかな。あのねーちゃん、おっぱいでかいな。小さいのはおっかなそうだよな」

 ショウゴはこそこそ無邪気に評する。

 フカミはショウゴほど気楽にはいられなかった。ざわめきの向こう側で薄笑いを浮かべたまま、ヨツバは島長を見下ろす態度を崩そうとしない。

 漁舎の長の言うことはもっともで、ヨツバの言葉も頷けないわけではない。嵐は時を追うごとに酷くなり、今年の祭を終えて以降、三度目の台風になりそうな気配だった。内海の波は比較的優しいが、それでもこんな日は漁も農も休むのが通例である。……島を出て行けなど、死ねと言うのに等しかった。

 けれど。

 ヨツバを見上げる。ヨツバはフカミの視線など気にもせず、島人達を見下ろし続けている。……ずっと。

 何を考えているの?

 ムツミのさよならが決まった日、省吾と美空が生きていると知れたあの日から、ヨツバの『掟破り』は顕著になった。

 ヨットを繰り、天気を見ては島を出る。いつからか離島の期間は長くなり、十日も帰らないなど良くある事になっていた。ホシンの船が来る頃には島にいないことも多く。つまりケンシンも受けていない。

 そして、神罰は下らない。

「もうすでに上陸もしてしまったし。これは単なる人助け。神様もきっと見逃してくださる。そうは思わない?」

 ヨツバの通る声が島人へと問いかける。ざわめきが一層大きくなる。

 島人達のあからさまな、遠慮がちな、盗み見るような視線のただ中で。少しばかり目鼻立ちのはっきりした三人は、審判を待つように目を閉じ、天井を睨み、ただ成り行きを見守っている。

 やがてざわめきが密やかさを失う頃に、しゃがれた声が響いた。

「嵐の間の滞在を認めよう。嵐が止んだ後に、改めて希望を聞く」

 国へ帰るか、島に残るか。

 島に残るのであれば、掟は守られねばならない。……島人として。

「解散」

 三々五々嵐の中へ島人達が散っていく。あらかた島人が去った後で、ヨツバはようやく壁から背を離す。吹き込む風雨に苦笑交じりの軽口を叩き、漁舎の長、そして三人と共に、屋外へ足を踏み出す。その、刹那。

 何気なく目で追っていたフカミへ。冷たい笑みを残した。


「この島、トドまる。チカいマス」

「シマヒトとして、暮らしマス」

「オキテ、守りマス」

 三日の後、好天の下。三人の言葉の後で島長が重々しく頷くと、見守る人々の間から歓声のようなものがあがった。

 解散の声の後、唯一の女性であるジョアンナは農舎の女性たちにあっという間に囲まれた。小男デニスはカタセに腕を掴まれて。上背もあり力もありそうなエリックの元へは、ショウゴが素早く寄っていく。

「網の投げ方、教えてよ!」

 声が大きいだけが取り柄のショウゴの甲高い声が響く。

「デニ、痛い、なくす、うまい」

 たどたどしい言葉遣いはカタセのもの。

「カテージチーズって言うんですって。レモンと乳で」

 他にはどんな料理があるの? 群がる女性たちは姦しい。

 そしてやがて、声はそれぞれの舎へと向かう。

「フカミ、あの三人に掟を」

 シノは淡々と言いつけた。去って行くヨツバの背を一度だけ見て、目を伏せる。

 シノの後で島長は深く深く溜息をついた。徐に立ち上がるとそれ以上の言葉もなく、奥の部屋へと入って行った。

 フカミはシノへ頷いてみせ、足早に扉へ向かう。床を踏むたび、きゅるりきゅるりと人気の消えた集会場に鳴り響いた。

 重々しい扉を開け放つと熱風が押し寄せた。陽向に出れば短い影が足下に落ちた。むき出しの二の腕はじりじりと鋭い陽射しに焼かれ、目を細めて顔を上げれば何処までも青い空が広がっていた。

 知らず息が漏れた。

 纏わり付いた少しばかり冷えた空気があっという間に焼かれていく。熱風が吹いて巻いて抜けるたび、腕がじわりと熱を持つ。きゃらきゃらと風に紛れて子供の声が届くたび、頬が少しずつ緩んでいく。

 一度俯き、フカミは一歩を踏み出した。ようやく緩んだ頬をほんの少しだけ引き締め直す。凝った空気がまだ背中にくっついて来ている気がする。

 三人は農舎と医療舎と漁舎だろう。手間だが集まって貰うのが良いか。農舎の女たちは面倒くさいと言うだろうか。漁舎の男たちは不要な物だと笑い飛ばすか。

 それでもフカミは足を向ける。シノに任されたのは島長の代理とも言える用事であり。彼らを迎え入れるための手順でもあり。

 十二となったフカミの、仕事でもあったから。


 *


 なぜという思いを頭の中でぐるりぐるりと回しながら、美空は重たいカバンを引きずるように図書館のガラス戸を潜った。

 電話がかかってきたからと一人外に出ていた省吾は、入り口のすぐ脇でまだなにやら話している。美空へごめんと目だけで謝り、また電話に向き直った。

 溜息を落とすようにすっかり重くなった鞄を下す。植え込みを囲う煉瓦に腰掛けぼんやりと通りを見渡せば、穏やかな午後の陽射しの中でまばらにゆるりと流れる人波が目に入った。

 デモかなにかの残滓だろうか。ぼんやりと美空は思う。上げ疲れたらしい腕が抱えるのは、逆さまになった『軍拡反対』の四文字だ。軍備拡張、南の緊張、そういえばニュースでそんな話題を聞いたような。

 風がさややと木立を抜けて、子供たちが賑やかに横を過ぎていく。薄い鞄を揺らした学生風の若者が、憂鬱そうに図書館の戸をくぐって行った。通りではプラカードの合間にベビーカーを押した父親母親の姿が見え、学生服の集団がじゃれ合いながら通り過ぎる。時折緩やかな日常を裂くように、拡声器の割れた声音が聞こえて来た。

「お待たせ」

 くっきり地面に描かれたような影が美空の足下に現れた。

 美空はふいと影の主に目を合わせ、溜息と共に通りへと視線を戻した。まばらになった行列の中で、女性がぐずる子供を急かしながら通り過ぎる。腕章をしてプラカードを抱えた職員らしき数人を最後に、ついに列は終わりを迎えたようだった。

「お兄ちゃんは、知ってたよね」

 図書館を囲う塀の上を、いくつかの頭が過ぎて行く。美空はぼんやりそれを目で追う。……彼らが手に持つ『原発反対』の赤い文字を追うかのように。

「昔、調べたからね」

 美空ちゃんと同じように。

 見上げれば省吾は消えた列をちらりと見やり、すぐに美空へ戻してきた。

「ショックだった……?」

 見上げれば、ほんのりと笑みが返って来た。

「そりゃぁね」

 でも、と省吾は独り言のように続けた。──僕たちは今、ここにいる。

「美空ちゃんは?」

 返され思わず瞬いた。視線をそらし、少しばかり明後日の方を見る。

 ……ショックと言えば、ショックだった。けれどちゃんと言うとするならば、多分、ほんの少し違っていた。省吾に教えて貰った通り、松木に鍛えられた通り、単なる事実はインターネットに落ちていた。ショックを受けたと言うのなら、多分その時だったろう。

 北緯二十度二五分、東経一三六度四分。東京都小笠原村に所属する、東京から一七〇〇キロメートルの絶海の孤島。

 事実は事実でしかない。百年の昔から何一つ変わらず、そこにある。

 今と昔。時間の隙間を埋めたくて。中学最初の連休にお世辞のようなクラスメイトの誘いも断り、省吾にねだって、県で一番大きな図書館までようやく来てはみたけれど。難しい言葉も漢字も辞書を片手にどうにか読んで、禁帯出本の許されたコピーの紙束が鞄の中に詰め込まれていたけれど。

 わからなくて、調べて、知って、驚いて。振り返って腑に落ちて、そして最後に零れて凝った言葉は。

「なんで……?」

「なんだ、ここにいたか!」

 静寂を破るかのような声だった。

 図書館の門を潜り男がこちらへと歩いてくる。手に大型のカメラを持ち、カメラから伸びるストラップがあちらこちらに飛び回る。提げる鞄の蓋は閉じられておらず、歩みに合わせてカチャカチャ鳴った。美空から見てもどちらかというと野暮ったい見た目だったが、ぱっと見も事実も歩き方すら賑やかだった。

「……お前、なんで」

 省吾だった。心底驚いたと一時絶句した様から知れた。

 男はやあやあと親しげに手を上げた。省吾へ目配せし、美空にもどうもと軽く頭を下げてみせる。

「声のうしろにシュプレヒコール聞こえたからもしかしたらーと思ったら案の定ってあぁオレ今日はデモの取材なんだ偶然偶然。でこの子が例の。可愛い子だねー! どもっ新戸裕太郎っていいます。はいこれ名詞」

 ここまで一息に言い切って、男は縒れた名詞を差し出してきた。

 美空は勢いのままに受け取った。……大手新聞社の名前と、新戸裕太郎という名が確かにそこには記されている。

「電話じゃ埒があかないと思ってさ」

 新戸は省吾へ向き直る。省吾は困ったような迷惑そうな嫌そうな……苦々しい顔を見せた。

 珍しい。美空は思う。省吾がそんな顔をするなんて。

「なんなら、この子でも」

 この子?

 顔を上げれば、新戸と目が合う。新戸は口の端だけで笑んでみせると、すぐに省吾へ向き直った。

 ……私?

「それはダメだ!」

 美空の視界いっぱいにシャツの白が広がって、新戸はその向こう側へと消えた。だーかーらー。どこかのんびりと、けれど、全くのんびりする気のなさそうな新戸の声だけが聞こえてくる。

「お前が来てくれれば話が早いんだって」

「僕がして欲しいのはそう言う事じゃない」

 何が? 何を?

 美空は省吾の背から顔を出し、おそるおそる新戸の顔をのぞき見る。目が合うとにっこり笑んで小さく手を振ってみせた新戸だが。

 こわい、かも。

 美空は慌てて省吾の陰へと隠れ直す。

「ギブアンドテイクってやつでしょ?」

 ぷるると携帯電話が鳴り出して、あーあと新戸は手を上げる。またねと足早に去っていった。

「お兄ちゃん……」

 裾を引っぱり見上げれば、大きな手が言葉もないまま降ってきた。ぽんぽんと頭が優しく叩かれる。

 あの人は何。ギブアンドテイクって? ……美空にだって意味くらいわかる。口を開こうとして、さて、と省吾は美空の鞄に手をのばした。

「そろそろ行こうか」

 ……話す気がないのだと美空にも、知れた。

 もらった名刺をなくさないよう、胸のポケットにそっとしまう。歩き出した省吾の影を追うように、美空はあわてて腰を上げる。


 思えば、美空を巻き込んだのは省吾だ。

 島のこと。鞄の中のかつての事実。父、孝志が説明を渋った理由。

 

 ……お兄ちゃんは、何をしたいの?


 *


 島歴九七年五月。約束の百年まで、あと──二年と十ヶ月。

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