第516話 幸福なる砂城の陰にてうつむく



 今日もよく晴れた、良い天気。

 もっともこのスルナ・フィ・アイアの町においては、日中暑くなりやすいゆえ、必ずしも晴天が良い天気と形容すべきかは迷いどころだろう。



「……」

 事実、ルシュティースはガラヴェーヤ緩着のワンピースの袖布でつい頬を拭ってしまうほどに、本日の気温は高かった。


「奥様、冷たいものをお持ちいたしますゆえ、もう少し日陰にお入りください」

 護衛の私兵がそう促すと、ルシュティースは顔布を軽くめくりあげながら応じる。


「はい、ありがとうございます。では少しばかり屋内へと下がりましょう」

 日に当たることを憚られるほどに病弱なルシュティースだが、日向ぼっこは大好きだった。それゆえにほぼ毎日、昼下がりには庭に座り、直射日光が当たらない場所でのんびりと静かに暮らす。

 それだけで、彼女は幸せにほほ笑む。

 故郷ヴァヴロナでは、深窓の病弱なるご令嬢として日の光の遮られた私室で、大事に大事に育てられてきたがゆえに、何をするでもなくこうして外気に触れて過ごすというだけでたまらなく幸せだった。


「(こんなにも私は、幸せであって良いのでしょうか? とても恐れ多くも嬉しいことですが……)」

 正直、ルシュティースは不安を感じ始めていた。

 稀にある夫婦の夜にしても、病弱な自分を気づかってくれるし、日々の生活の中にあって心身になんら辛苦しんくはない。


 だが彼女も嫁ぐにあたり、夫婦にも衝突することや耐え忍ばなければならないような事が起こるであることは覚悟していた。

 ところが拍子抜けするほど安楽であり、これまで幸せな日々を送れていることが最近では逆に恐ろしく思えてきはじめたのだ。


「(……。……ヴァヴロナより、義弟シャイトが訪ねてくる予定となっておりますが、祖国の皆さまはお元気でしょうか?)」

 ルシュティースは湧き立つ不安感を忘れようとするかのように、先日届いた親戚の来訪予定を告げる手紙を思い返す。

 安穏とはしていたが、この地での暮らしに馴染みきるまでは何だかんだで余裕がなかったように思う。むしろ気づけばもう数か月も経過していた、という感覚だ。


 我が身の弱々しさが恨めしくはあるが、こうして人並みの幸せを得られたことは素直に嬉しい。

 おそらくは妻の務めを果たせはしないであろう事だけは残念だが、それは望み過ぎだろうと彼女は思った―――本来なら、ヴァヴロナの実家奥深くで一生を過ごしていたであろう身であると考えた時、現状はこの上なく幸せに過ぎるのだから。



  ・


  ・


  ・


「……」

 ディレイは、深く沈んだ表情で自分の兜に視線を落とす。

 その頭の中では、まるで兜を自分自身に見立てて対話するかのように思考を巡らせていた。


「(なぁディレイよ。このままでいいのか? いつか、取返しのつかない事になる前に……)」

「(だがディレイよ。お前は責任が取れるのか? あの奥様を泣かせる覚悟はあるのか?)」

「(そしてディレイよ。いつまでも苦悩し、悩み続けても時間が過ぎてゆくだけだぞ?)」

 その自問自答はまるで己に罪を詰問しているかのようでもあり、懺悔のようでもある。

 しかしいずれにしろ、ディレイ自身が愚かだという前提が根っこにある葛藤である事に違いはない。


 苦悩の理由は至極簡単だ。結局は己が保身ゆえである。


「(ディレイよ。そんなに職を失うのが怖いのか?)」

「(ディレイよ。そんなに収入を得られなくなるのが恐ろしいのか?)」

「(ディレイよ。そんなに今を捨てた先に生きゆく自信がないというのか?)」

 所詮、ディレイは私兵だ。

 金をもらってボディーガードまがいの仕事をするだけであり、

 その腕前は世に出せば下の下でしかないだろう。

 それでいて、何らかの手に職つく特技も技術も知識も経験も持ち合わせてなどいない。


 当然だ。実質、安穏とした家の敷地内にて鎧兜を着用し、槍の柄を下につけてボーっとしているだけで高給を得る仕事という理由で、ディレイはこの私兵という現職に至った。今思えば、自分でもなんと愚かな動機だったかと、私兵になろうと思った頃の自分を殴りつけてやりたい。


「……」

 それから鍛えはしてきた。正直、雇われている私兵たちの中でも一番の腕を持っているという自信もあるし、イザという時にはこの身を盾にしてあのか弱い奥様を守ろうという覚悟もできている。


 しかしそれだけだ。私兵としては合格でも、ディレイには “ 他 ” がない。

 それは、他人が思う以上に強く深く、精神にむしばんで離れることのない、恐怖と不安の心であった。



―――男とは、割り切れない生き物である。そして男とは、己の領分を超える事を恐れる生き物である。


 失敗は許されない。間違いは許されない。逃げることは許されない。

 ゆえに、自分の手に負える範囲から外に出ることを恐れる。挑戦することを恐れる。今が崩れ去ることを恐れる。


 勇気? そんなもの、大多数の人間は持ち合わせてなどいやしない。この世の99%の人間は、作り話の主人公のような精神力などありはしないのが当たり前であり、ディレイの苦悩をちっぽけだと笑う事の出来る人間など存在しえない。


 それが人間。それこそが人間。抗えず、苦しみ、誰も救えないちっぽけな存在。


 言葉を尽くそうが大儀を掲げようが、そんなものはすべてが虚構。

 すべての人間は、今日を生きる事に苦労し、明日を生きられるかで苦悩するので精一杯な生き物でしかありえない。


 ……ディレイの苦しみは、誰にも救えない。そして誰にも彼を笑う資格はない。



「……」

 ディレイは沈黙したまま兜を手にする。そしてかぶる。弱い己を責められる強い自分をそこに見出していた兜を被ることで、自分が強くなったような気休めを得る。


 なんと情けないことか。なんと不甲斐ない男か。なんと弱々しい生物か。


 ディレイは静かに歩き出した。今日も仕事の時間だ。代わり映えのない、安穏無事な高給の、それでいてクソ野郎に仕え、か弱い女性を見守っているだけの楽な仕事だ。



 彼の心は、日に日に影がさすように薄暗いもので覆われつつあった……



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