第92話 悪夢は朝焼けにかき消して
早朝の光が、まだ真新しいころ。目を覚ましたリュッグは一人、背伸びをしながら宿から外に出た。
「(昨日は随分とハメを外させられたが、何とか酒に飲まれずに済んだな……)」
宿1階のレストランで知り合った、隣国ワダンからの旅人だという二人の女性。
彼女らに半ば強引に宴会に持ち込まれ、しきりに酒を勧められるのを回避しきった安堵感。自身を照らす低い位置の太陽光と爽やかな朝の空気が混ざり合って何とも心地良い。
「(? 音がする。これは、……誰か朝の鍛錬でもしているのか)」
何かを規則正しく振るう風切り音。
緊急性や危険性は感じられず、リュッグはのんびりとした足取りで音のする方へと向かってみる。
宿の建物が面している大通りから小さな路地を曲がったところ、ちょうど宿のレストランの裏口付近の、井戸がある小さな広場に、音を立てている者の姿があった。
ブンッ、ブンッ、シュヒンッ!
「こりゃ驚いた、あれだけ泥酔していたのがウソのようなキレだな、ナーダ殿」
2度軽く振るい、感触を確かめてからの本気の1閃―――壁に立てかけてあったのだろう木製のモップの柄が、まるで鋭い刃物のような音を発する。
「ああ、リュッグかい、随分と朝早いんだねぇ。そういうアンタこそ、昨日は酔った方が良かったんじゃあないか? であれば、こんな朝早くに目覚めずにもっとゆっくりと夢見てられたろうに」
リュッグとしては、かつてやらかしてしまった失敗が相当なトラウマになっている。なので女性が近くにいる場では、たとえどんなに好きな銘柄の酒であっても、我慢するようにしていた。
(※「第02話 救い手と迎える朝」参照)
「……以前、失敗しているんでね。悪い夢に悩まされるよりは早起きの方が良いさ」
「悪い夢、か……。確かにそれは一理ある」
昨夜は泥酔して意識を落としたナーダだが、幼い時のことを夢に見て起きた。
勝気で何者にも怖じない性格の彼女が、唯一今でも悩まされるのが、目の前で母を失ったあの日の記憶だ。
既に、あの時の母をも越えた剣の腕―――それでも自分の強さに自信を持ちきれない。
それは、単純な武術の腕前では測れない強さを、あの時の母に感じたからだ。そして自分にはまだ
「(あの母の強さ―――あれは心の……魂の強さだ、私ではまだ及ばぬ。あの時の母の、魂から沸き立つような強さには、まだ)」
あの時の戦いを振り返った時、あの異形の化け物を倒す方法を、母は確かに持ち得てはいなかった。それでも倒せたのは、母が理屈では及ばない力を発揮したからだとナーダは考える。
火事場の馬鹿力に似た、類すれどまるで別の、魂の底からの強さ……それを持ってしても、あの化け者を倒せたのはギリギリのところだった、しかも母自身の命と引き換えにして、ようやくの勝利だった。
「(もし、もしもあのような化け物が他にいて、我がワダンを再び脅かすようなことあらばそのとき私は……私は……母のように戦う事ができるのか……?)」
ナーダという人間個人にとって抱える不安とは、その一点に尽きる。それ以外のことなど、深く悩むに値しないことばかりだ。
勝気な性格ゆえにクヨクヨしない。母が亡くなったあの日に、弱い涙はすべて流してしまったのだから。
「……。リュッグもどうだ、早朝の素振りは思惑、気が晴れるものだぞ」
ナーダはモップの柄を差し出しながら、自分でもらしくない誤魔化しをしたと思った。
素振りを勧めるのは今の自分の精神にモヤがあるからだ。
夢見が悪かったことが、自分という存在の根幹そのものを揺らしていて、そんな自分を自分自身に誤魔化すために、リュッグという他人との会話に物を添えて
実にらしくないと、自らに嫌悪すら覚える。
「ふむ、では一つ……、………」
リュッグが構える。何かの剣術の型ではなく、ありふれた素人のしそうな構えだ。しかし……
「(ほう、練り上げられている。我流で鍛え上げたか)」
ナーダは素直に賞賛した。構えそのものの型は素人のもの。
しかしそれを、実戦で通用するレベルまで洗練している。達人級の腕を持つ彼女だからこそ、一目でリュッグが歩んできた武術の道を
「(おそらくは師事も何も受けておらん。しかし脅威は容赦なく襲い来るような環境で生き抜く中、少しずつ研磨されていったのだろう。我が国の精鋭でもここまで洗練されている者が、果たして数えるほどいるかどうか……)」
ナーダが目を見張っていると、リュッグの身体がユラリと
フッ、……フォッ……ォ!!
「!」
ナーダは驚き、目を見開く。
スピードは速い。ゆらっと滑らかに動いた、遅いとすら形容できる身体の動きからの、一転しての速さは熟練兵士に匹敵する。
それは彼女にしてみれば簡単に見切れる速度。だが世間一般でいえば十分な攻撃スピードである事もよく知っている。
しかしナーダが驚いたのは繰り出された一撃の精度の方だ。最低限まで空気抵抗を削ぎ落して振るわれたモップの柄は、まさに無駄というものが砂の1粒ほども感じられない動きだった。
実戦でコレと同じレベルの攻撃を繰り出し続けることは難しいだろう。だからといって単なる素振りでも、ここまで無駄なき動きが出来る人間は、そうはいない。
「……ふぅっ、久しぶりに集中の乗った振りが出来た。ここまで手応えよく振れたのは若い頃以来だな」
自分の素振りに、納得がいった様子で
まさに会心のひと振りだったと満足そうなその横顔は、どことなく幼い日に見た母の、集中して訓練を終えた直後の雰囲気と似ている気がした――――――ナーダは1秒にも満たない時間ながら、思わず呆然としてしまう。
「……リュッグ。しつこいようで悪いが、もう一度聞く。“ 御守り ” について、何か知らないか?」
それは嫉妬による軽い憤り。
自分よりも母のあの強さに近いものを、この男が持っているように思った。そんな小さくて不確かな理由で怒りを覚えている自分自身が、未熟に思えてまた腹立たしい。
そんな気分を誤魔化し、霧散させるための問いだ。
「昨日も話したが、思い当たることはないな。確かにこのファルマズィ王国にはそういうモノがあるとウワサで聞いたことくらいはある。だがそれだけだ。本当にそんなモノが存在するかも、どういうったモノなのかも誰も知らない……そんな感じだな」
言いながら何度か振るった後、リュッグはモップをナーダに返した。
「そうか……いや、知らぬなら仕方あるまい」
ナーダは、深く溜め息をつく。
八つ当たり気味な心持ちになってしまった己を反省し、自分はまだまだだなと自嘲しながら、のぼる朝日に向かって真っすぐにモップの柄を突き出した。
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