第29話 美香の計画。

 遠くから声…


 ぼやけた視界。


 なんだか遠く…懐かしい…。


 ママ…


「奈美さん。奈美さん。」


 あぁ、そうだった…。赤野さんか。


「ここは、夢の中…。」


「そうですよ。」


「診療所…違う感じ…。」


 白い霞の中に、二人は浮遊していた。


「ごめんなさい。私のプログラムが上手くいかなくて、美香先生が使ってたフォーマットを利用したんだけど。こんな曖昧な感じになってしまって。でも奈美さんに実際に話しかけている声が夢に中に連動しているのは、成功したみたい。」


「すごいですね…。」


 奈美は、そう言ったあと、夢の中でまた目を閉じた。



「奈美さん、奈美さん…。どうしよう、まだ、不完全なのかしら…。」



「まだまだ、のようね。」


 あ、美香先生…。影が薄い…。

 

「私の姿、消えそうなんだけど。」


「すみません。大丈夫だと思ったんですが。」


「この子、このままだと、どっちにも存在しない事になるわね。夢と現実の間から抜け出せない。金縛りのような状態にずっと身を置くことになって、苦しいかもね。」


「そんな…。どうすれば。」


「ねぇ、久住先生は?」


「先生は、もう体力的に限界かと。」


「やっぱり、そうだったの。でも、このプログラムは、久住先生ありきなのよ。先生のプログラムを挿入しないと成り立たないわよ。」


「そんな、久住先生に、このプログラムをかけるのは危険すぎる。美香先生、久住先生ありきなんて、そんな事言ってなかったじゃない。」


「やだ、そう簡単に教えれないわよ。」


 そんな…。


 血相を変えた赤野が、作業部屋から出てきた。


「どうなっているんだ。奈美さんは、また眠っているんじゃないか。この影も美香なのか、画が消えそうだ。」


「浜本先生、すみません、美香先生と話が出来たんですが、久住先生を入れないと、このプログラムは成り立たないんだそうです。ですから、まだスタートしてないんです。」


「でも、先生はもう無理だぞ。奈美さんはこのままだとどうなるんだ。」


「奈美さんは、夢と現実の狭間でずっと金縛りのような状態が続くんだそうです。」


「プログラムは中止だ。」


「いえ、それも出来ないんです。久住先生をセッティングして、スタートさせてから出ないと、何も出来ない。」


「何が何だか。よく、母に、寝言に答えてはいけないと言われました。でも、今、夢の中の人と会話しているんですね。自分が夢を見ているようです。どう、理解していいのか。自分の範疇を完全に超えてます。」


「加藤さん、そうですね。これは研究に携わっている私たちでも、信じられない状況です。でも、どうすればいいんだ…。」


「プログラムかけてくれ…。」


 賢は、久住の声にならない微かに聴こえた声を聞き逃さなかった。



「先生、意識回復したんだ。あぁ、良かった。でも、この状態で、プログラムをかけたらどうなるか…。」


「覚悟は…出来ている。何もしなくても…お迎えが、もう、そこまで来ているから…。」


 久住は、浮腫んだ瞼を閉じたまま、死相を漂わせた顔貌で伝えた。


「でも…。」


 赤野は、決心がつかないまま、作業部屋に戻り、美香に伝えた。


「そう、じゃ、問題ないじゃない。」


「先生、ちょっと…。それじゃ。」


「冷酷非道って言いたいんでしょ。そんなこと今さらでもないわ。」


「でも…。」


「久住先生が私の父親だってことを言いたいんでしょ。知ってるわよ。研究でDNAだって材料になるもの。」


「知ってたんだ。分かってても研究を優先するのね。」


「そうよ、血のつながりが何だって言うの。理由がわかったところで、研究を止める理由にはならないわ。」


「でも先生のこと好きだったんでしょ。まして父親ってわかったら、余計に愛しいとか、助けてあげたいとかならないの?」


「残念ながら、他人とは、違う思考なのよ、私。確かに、愛していたわ。頭が良くて、何でも知っている。でも、よく泣くの。メンタルも弱い。そんな先生が好きだった。守ってあげなきゃって。久住先生の言う事なら何だってしてきたのに。先生の罪を消す処置をどれだけ手伝ったか。そう、久住先生が、患者にしてきたことの記憶を消す事。それなのに、こんなに尽くしたのに、私には指一本も触れずに、里香を選んだ。そして先生は、いつでも私に対して覚めた目で私を見てた。私が近づこうとすればするほど、距離を置かれた。だから、許せなかったのよ。憎いくらい。なんで、私ではダメなのって。でもね、私を頼ってきたのよ。やっと、この人を私のものに出来ると思った。好きな人を自分の思うように、コントロールできるのよ。父親と分かったからと言って、急に気持ちは変えられない。愛してたが故の憎さからの復讐かもしれないわね。」


「意味がわからない。あなたは、久住先生を愛してたんじゃないわ。先生が里香さんを選んだ事が屈辱だったんでしょ。そんな自分が可哀そうなのよ。だから許せなかった。DVとかストーカーって、好きだから裏切りが許せないってよく言うけど、自分を惨めな目に合わせた相手が許せないってことと同じ。自分が優先なのよ。だから美香先生も、愛していたのは久住先生じゃない。自分を愛していたのよ。」


「何言っても、あなたには分からないわ。ほら、早くしないと、私、消えるわよ。この子も危険よ。この状態、呼吸止まることもあるから。」


「えっ、そんな…。先生、あなた、こうなる事分かってたんでしょ。どうしてなのよ!なんでなの!」


「あなたが、どこまでできるか試すことも必要だと思ってね。ま、たいしたことなかったわね。期待してたのに。」


「ふざけないで!すべてが計画通りなのね。邪魔なものは排除するってことね。こんなやり方しなくっても。ほんとにあなたは鬼よ。」


「ありがとう。私には誉め言葉ね。私は、この研究にかけてきたのよ。この子の行動がうるさくてね。久住先生も、最近、私を諭そうとするようになって。今頃、神様、仏様になろうたって遅いわよ。私は私のやり方で行くわ。それに、中途半端な知識で頑張ってくれたあなたが、思い通りの仕事してくれたのよ。」


「私も利用したのね。」


「そうよ、あなたは、母親のことで、私に近づいたことくらい分かってるわ。」


「ひどい、あなたのせいで、母は、母は…。」


 赤野の涙声と感情には釣り合わない、美香の明るいとも思える声が答えた。


「あんなに、きれいに記憶がすり替わったなんて、症例だったわ。もっと私を責めてもいいわよ。夢の中で、どんなに私を傷つけても、痛くもかゆくもないけどね。さあ、どうする。久住先生の死を早めますか?あなたにできるかしら?」


「ひどい、あんまりだわ!」


 赤野の興奮した声で、賢らが慌てて作業部屋へ入って来た。


「何があった!映像では、音声も映像も不明瞭で何も分からない!」


「美香先生は、久住先生の事より、他人の命より、自分が大事だってことがハッキリしたわ。あの人は、私たちが、このプログラムが失敗すると思っている。すべてが美香先生の計画通りなの。弱った久住先生を参加させることをしない事もね。でも、奈美さんも助けないと。悔しいけど、久住先生…お願いします。」


 赤野の涙交じりの押し殺した声に、しばらく沈黙が流れた。


「分かった。久住先生も了承しているしな。」


「何か、複雑です。正直なところ、こんなやつ早く死んでしまえばいい。奈美さんを救うのに躊躇なんて要らないと思ってた。だけど、どんな悪事を働いたやつでも、その人の死ぬ事を早めることの判断をするのは、やはり戸惑います。」


「そうだよね、普通は。でも、高野さんだけでないから。ここにいる、みんな同じ気持ちだよ。」


「ありがとうございます。マスター、でなくて、慎さん。」


「高野さん、マスターでいいよ。」


「すまない…。自分みたいなものに。そう思ってくれているだけでも…救われる。赤野さん…遠慮はいらない。美香がああなったのは私のせいでもあるんだ…始めてくれ。あの子も早く救わないと…。」


 この震える消えそうな声が、久住の最後の言葉となった。


「久住先生…分かりました。先生のプログラム開始します。」


 赤野は準備に取り掛かった。


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