第37話 すくみあがった

 女が持った笛の尖ったガラスの先から血が一粒落ちて、コンクリートの上でまだ小さな血の海になる――


「私ルナよ……逃げないで」


 衝撃の先へ倒れ腰を付けて閉まったナオキは震えるまぶたを一瞬だけ下ろした。涙腺からも恐怖が一粒溢れて、頬を伝う――そして、歯を食いしばり、ガラスが散らばったコンクリートを踏み込みすくみあがった体を起こす。


 死にたくない――その思いがまだ諦めの気持ちよりも強かった。


 もう後ろを見る勇気もなくて、ただ今出せる全力で走る。左手で懐中電灯を持ちながら雑に押さえつける右腕からは肌から確かに感じられるほど血が溢れていて、鼓動が打つたびに嫌な感触と共に勢いを増す。


 こんなところで――こんなところで死ねば――俺の人生寂しすぎるぞ――


 神様がいるなら助けてほしい、そんなことも頭をちらつくほど追い込まれているナオキに敵は容赦なかった。勢いを落としたナオキに無数の足音は近づいてきている。もう止まれば数秒と持たず追いつかれる距離だろうか。


 突き当りに見える他のドアとは少し違うドア。この空間の出口ではないが周りの金属のドアよりもより硬そうな構造で色も汚い。もうここに追手を凌げる何かが無ければ終わりという思いで飛び込んだ――


 広がる黒色――その先には空間の終わりがあった。


 錆びた柵の前で急停止して、開いたドアを閉める。どうやら施設の外、非常階段に繋がるドアだったらしい。外側に窓が無いコンクリートの施設の中に居たので時間の感覚はなかったが今は夜のようだ。


 例にもれず、空間の境界線の向こうには果てしない黒があって、見たくない光景にめまいがしそうになる。


 けど、これは運が良い。階段に辿り着けた。このまま一気に8階にだって行ける――


 崩れないか心配になるボロの非常階段の上、金属と靴がぶつかる音が上へと進む。階段の隙間から見た下では、開いたドアから出てきたクロビト達が狭い通路で詰まっていた。


 よし。いける。逃げきれる。ルナ……彼女は嘘をついていたのだろうか。それとも正常な思考と異常な思考が混ざり合った二重人格の霊だったのか。真相は分からないがルナが消えて攻撃してきた女がルナと名乗ったのならこのまま1人で出るしかない――


 今の状態で消えたルナを探す余裕がナオキにはなかった。ひたすら危険から遠ざかりたかった。


 釘を打たれているようにズキズキと痛む二の腕から流れる血は指先から流れ落ちる中、3階、檻があった4階を越えて5階まで上りきる。息切れして、もう体力もかなり消耗した――


 次の瞬間、5階の非常口のドアが開く――


「こっちに入って!」


 現れたのは金色の髪の女だった。しかし、その表情は地下で一緒にいた頃に戻っていた。


「早く!来てる!」


 ルナはそう言って戸惑うナオキの服を引っ張って5階の廊下に連れ込んだ。同時に頭のすぐ後ろで風を切る音がする。


 どこから出てきたのかすぐ後ろに黒い服のルナがいた。白いルナが引っ張ってくれなければ頭に鋭いガラスが刺さっていた――


「急いで!」


 ナオキは訳が分からないままルナについて行って一つの部屋に二人で逃げ込んだ。

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