・八の部屋

第21話 始点

 始まりの場所は何も変わっていなかった。奇妙な空間ではあるが、今まで自分が置かれていた状況と比べると何も襲ってこないだけ落ち着くことができる。


 自分が出てきたドアにもたれて一息つく。油汚れのように脳裏に焼き付く血の色と化け物の姿を早く忘れたい。すぐに切り替えなければ。先はまだまだ続くのだから――


 この場所でずっと座っている謎の老人の前を通り過ぎる時、老人がなにか言いたげにこちらをじーっと見ているのに気づいていたが前だけを見てユミコがいるであろう部屋に向かった。


 ユミコの存在を確認してからイスに力を抜いた体を預ける。ユミコは心配そうな面持ちでその様子を見ていた。


「大丈夫でしたか」


「うん」


「……良かった…………本当に」


 できれば笑顔でただいまと言ってあげたいがその余裕はなかった。けど、それは恐怖にうろたえているからではない。


「……お腹は空いてませんか?……空いてないですよね。さっきも聞いたし。あんまり時間たってないし……一応あるものでさっきサンドウィッチ作ったんでお腹が空いたらどうぞ」


「……もらうよ」


「あ、本当ですか」


 返事を聞いて声が高くなったユミコは急いで立ち上がり、冷蔵庫を開けて中から取り出したものをテーブルの上に置く。ナオキはそういえばここと部屋の中では時間の流れが違うということを思い出してハッとしていた。


「どうぞ」


 白い食パンに具材を挟んだスタンダードなサンドウィッチ。中にはハムとチーズが挟まれていた。そして横には350mlサイズの牛乳。


「ありがと」


 それほど腹は空いてないがしっかり食べておきたかった。エネルギーをできるだけ補給してから次の部屋に臨みたい。


 無言でサンドウィッチを頬張る。時折パンが口内の天井に貼りつき、牛乳でそれを押し流す。集中、それが今この場所でのナオキのすべてだった。


「……聞くべきではないと思うんですが、おじさんはどうでしたか」


 ナオキはそれについてすぐに答えられなかった。


「やっぱり……ごめんなさい変なこと聞いて」


「いなかったよ」


「え」


「誰も見なかった」


「……そうですか」


 ナオキにとって今一番聞いてほしくなかった質問だった。自分の行動が違っていたら、カズオはまだ生きていただろうか。未知の敵に予想外の連続だった、そんなことは誰も分からない。カズオが生き延びていたら自分が死んでいたかもしれない。考えるだけ無駄だと分かっているがカズオが無残に殺される様子を忘れられる気がしない。


 それを吹き飛ばすためにも次の部屋へ入ろう――。

 用意された4切れのサンドウィッチの最後の一つを手に取った時、ユミコが声色を変えて思いがけないことを言った。


「あの……本当にナオキさんですよね……?」


 言っている意味が分からず、浮かんだのは前に会ったときと比べて態度が冷たすぎたかということだけだった。


「部屋から出てくるとき、少しだけ嫌な感じがしたんです。私には分かるんですからね」


 ユミコは怯えている様子で目を合わせず首を引いて、遠ざけるように少し声を荒げた。


「いや。本当の俺だよ。大丈夫。落ち着いて……ごめんね。集中したくて」


 笑顔を作って、危険がないのを示すため両手を挙げて見せてあげた。


「え!……ごめんなさい!ごめんなさい。ごめんなさい」


 最後のサンドウィッチを食べる間、ユミコにずっと謝られた。顔を赤らめていて間違ったのが恥ずかしそうでもあった。この子を助けるためにも……。


 話の分かる人がいてくれるというのは落ち着く。ナオキは束の間の休息を味わった。


「集中するから静かにしてて」


 食べ終えるとナオキはユミコにそう頼んでから。座ったまま目を閉じた。心の中で大丈夫だと繰り返し念じる。それと今度部屋の中で人間に出くわしたらなるべく助けることも決めた。自分が見捨てると決めていたことだが苦しかった。人間が死ぬところをもう見たくない。


 こんなもんじゃダメだ――もっと研ぎ澄まさないとここから出られない。


 心を強く持ち直して、ゆっくり目を開くと廊下へ向かった。また何か言いたげな様子の老人をまた見向きもせず通り過ぎて、1……2……3番目のドア。それも通り過ぎて奥へ――奥へ――。




 手前から順に入って行かないといけないなんてルールはないだろう。嫌なことは先に済ませたい。先に上を見ておけば他の部屋が楽かもしれないし。


 9……いや、8番目にしよう。明かりが遠くて周りの暗い廊下の奥、ナオキは手前から八番目の部屋のドアノブに手を伸ばした。

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