第二巻 乖離アフター
いずれの朝も、彼の姿はない
アイビー・フォセットが迎える朝は、いつだってひとりだ。
目が覚めたら、そのまましばらく真っ白な天井を眺めることからはじまる。
お腹が減ったら起きて、適当に料理をしてごはんを食べ、ごろごろして、お腹が減ったら、またごはんを食べる。その繰り返し。
どこへ行っても話し相手はいない。基本的には本を読んだりして過ごすことが多い。晴れた日は空に浮かんだ動かない雲を眺め、そのまま一日が終わることもある。
周りはあまりにも静かだ。静かすぎて、そのうち自分の呼吸や心臓の音が聞こえはじめる。
それをうるさいと感じはじめたら、疲れてへとへとになるまで外を走りまわった。
そうして疲れ切ったところで、ふわふわのベッドで大の字になって眠る。
それがわたしの、不死身の体との向き合い方ってやつだった。
人によっては、楽しそうに見えるのだろうか。
まあ実際は、首を吊っても、崖から飛び降りても、この生活からは逃れられないので、辛いこと全部、そうやって受け入れるしかなかっただけなのだが……。
彼に出会ってからの朝は、少しだけ変わった。
まず彼について考えることからはじまる。
生意気な態度とか、乱暴な話し方とか――
彼のことを考えれば、へとへとになるまで走らなくても不思議と心が落ち着いた。
ごはんを食べたら、今度は手紙を書いた。
彼に宛てた手紙だ。
彼は、わたしにとって特別な人だった。
わたしのいる世界では、時間はとてもゆるやかに進んでいる。
どれくらいゆるやかかというと、わたしは一秒に一回ジャンプできるのに、他のみんなは跳んで降りてくるまで一〇〇秒かかる。フライパンで目玉焼きを焼くのに六時間くらいかかる。寝癖を直すのに一〇時間、着替えに八時間。
いつからか、そんなことを意識するのもやめた。
ほとんど動かないそれらが何をしようが、わたしにはどうでもいいことだと気づいたからだ。
音はなく、風も吹かず、誰かの胸に耳をあてても心音すら聞こえない。
人はもちろん、虫や鳥まで静止し、すぐそばを横切っているわたしには気づかない。
何もない。どこにいても、静かな個室で一人きりでいるのと変わりなかった。
そんな独りぼっちのわたしのもとに、彼はおおよそ一〇〇日に一度だけ会いに来てくれる。
彼だけは、わたしと同じ時間を共有することができるようだった。
一緒に過ごせて、話をすることができた。久しく忘れていた、人間らしさってものを思い出させてくれた。
いつしか、彼との時間を大切にすることが、わたしの生きがいみたいなものになっていた。
手紙……手紙についても書いておこう。
手紙には、わたしがどれだけ彼に言いたいことがあるのかを、滔々と書き連ねている。
どれだけわたしが寂しい思いをしているか。どれだけわたしが君のことを考えているか。
少しでも良心があるのならここにいる時間を増やせとか。
もう少し優しく接しろとか。
書いて、書いて、
でも、書くだけだ。
彼に渡したことは無い。
書いて満足するというより、手紙を見た彼の反応が怖くて、渡せないでいる。
彼が引いてしまうんじゃないかと心配になる。
もしかしたら、彼がここに来てくれなくなってしまうかもしれない。
だから手紙を書くのは、ただ彼が来るまでの時間つぶしだった。
朝、彼のことを考えていた。
最近姿を見せてくれない。何をしてるんだろう。
ある日の朝、彼のことを考えていた。
今日も彼は現れない。どうしたら、彼がわたしを必要としてくれるだろうか……。
ある朝、彼のことを考えていた。
どうしたら、彼にとって頼れる人がわたしだけになるだろうか……。
ある日、思いついた。
彼の周囲にいる人間をすべて消してしまえば、私だけになるんじゃないか……。
少女の手には、何も残らない
巣から落ちたひな鳥を拾って育てたことがある。
わたしが五つか六つの頃だ。
庭先でぼーっとしていると、ピイピイと悲しげな鳥の鳴き声を聞いた。
声に導かれるようにそちらに向かうと、木から落ちたひな鳥を見つけた。わたしに助けを乞うように、翼を必死に動かして、声を上げ続けていた。
それを両手で包み込むようにして拾い上げた。
母はあまり、わたしとの交流に熱心ではなかった。娘のわたしよりも、シガレットやアルコールの方が好きな人だった。
父親の顔は知らない。母がわたしを生んですぐ、どこかに行ったきり戻ってこないらしい。母は夜な夜なそのことについて泣きながら愚痴をこぼしていた。
だから母と二人暮らしだった。母が家にいることはほとんどなくて、わたしはいつも家で留守番をしていた。
一言もしゃべることなく一日が終わることも少なくなかった。そのせいか、言葉を覚えるのも遅かった。
言葉が上手く扱えず、同年代の子供との会話もままならなかった。
わたしにはろくに話し相手がいなかった。
いつも空を見て、ぼーっとしていた。
そんな環境だったからだろうか、巣から落ちて独りぼっちになってしまったひな鳥のことが、とても他人事とは思えなかった。
持ち帰ったひな鳥を母に見せると、嫌そうに顔をしかめた。
「世話してもいいけど、家の中には入れないでね」
でも、飼うことに反対したりはしなかった。
わたしがすることに対して興味がなかったからだと思う。
庭に小さな木箱を置いて、そこでひな鳥を育てることにした。
生まれてはじめてできた友達を、何かの本で目にした『愛』という意味を持つアモルと名付けた。
「あんたは、そいつの方が好きなんだね」
アモルの世話をするわたしを、母はすごくつまらなそうに見ていた。ぶつぶつと呟きながら求人の案内書に目を通していた。不貞腐れているようにも見えた。
楽しそうにしているわたしのことが気に入らなかったのかもしれない。当時はその程度にしか考えなかった。
貧しい生活だった。母も器用な人間ではなく、仕事もあまり長続きはしなかったみたいだ。
よく怒鳴られたり、叩かれたりもした。
そのたびに、わたしは人懐っこいアモルに癒しを求めた。
アモルもわたしが指を近づけると、喙をパクパクさせて餌をねだった。可愛いやつだった。
それから数か月後。
ある日、木箱からアモルの姿がなくなっていた。
突然の別れだった。
あちこち探したけど、結局見つからなかった。
それまで毎日、アモルが好む穀物をえさ場に置いて、遊び相手にもなってあげていたのに、あっけなくいなくなってしまった。
愛情を持って育てていたつもりだったのに、裏切られたようで、すごく落胆した。
アモルのことは、すっぱり忘れることにした。
裏切者なんかのために、いつまでも悲しんでたって仕方ない。そう思うことにした。
アモルがいなくなったその日、一際母にへばりついて甘えてみた。
でも母は、鬱陶しそうな顔をするだけで、ろくな反応を示してはくれなかった。
「あんた、王都の魔法学校ってところに預けるから」
一〇歳になる直前に、母はわたしにそう切り出した。
「もう手付金は受け取ってるの。あんたの子守はもうこりごりだったし、あんたもその方がいい暮らしができる。それに清々するでしょ?」
そのときの母は、以前のように拗ねた子供のような顔をしていた。
今度は、母までわたしを裏切るらしい。
みんな裏切る。
裏切者は、嫌いだった。
どいつも、こいつも、死ねよって思う。
「それでもなんも言わないんだ」
母は、そう言って力なく笑った。
先に裏切ったのはあんただろ、と心の中で毒づいた。
全部お前が悪い、とも……。
でも、直接伝えたりはしなかった。伝えたところで、何も変わりはしないんだから。
母は結局、娘をないがしろにして、子供みたいに拗ねて、母親らしいことなんて何一つしてくれなかった。
「……あんたっていつもそんな感じ」
それが母との最後の会話だった。
結局わたしの手には、なにも残らなかった。
この話で言いたいことって、なんだと思う?
わたしを愛してくれないなら、死ねってことだ。
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