第2話 バスの運転手の同棲相手の場合

「まったく、本当に不意打ちだからね。今でもカーブとか曲がるときは本当に冷や冷やするよ」

「でも今日は見なかったんでしょ」




 私が彼と同棲して九ヶ月あまりが経つ。三週間後に結婚する事が決まっているけれど、そんな本来ならばほどなく愛の巣になるであろう家に帰って来る彼は、最近正直疲れている。


 この仕事を始めてから七年、一日一日の勤務にもすでに慣れてるはずなのに、最近は毎日の仕事がしんどくて仕方がないらしい。

 初めてそのニュースを聞いた時はやはり信じず、四日後に同僚が出くわしてただ単にねぎらいの言葉を投げつけ、そしてさらに三日後に実物を見て尊敬していた上司にその恐ろしさをとくと説教されて以来、七年間のキャリアから来る自信は消え去っていたらしい。



 運転手になるのは子どもの時からの夢、まあ正確に言えば電車の運転手だったけど、少なくとも現在バスの運転手と言う職業に就いている事に対して何かの不満がある訳でもないと言っている。

 しかしこうなって思うと電車の方がいくらか気楽だったかもしれないし、さらに言えば飛行機のパイロットの方がもっと楽だろう。


「中学高校時代に英語の勉強に真摯に取り組んでいればと一瞬悔やんだ事もあるよ、そしてその時間を今の職業になる為の独自勉強に注ぎ込んでいたことを思い出してすぐにあきらめの笑いが浮かんでさ……」


 そう聞かされた時は思わず笑ってしまった。

 日本じゃこの突然発生した「事件」により今まで人が死ぬような事はなかったけれど、それでも負傷者はいたしその影響で急ブレーキをかけざるを得ないケースが増え交通や運輸に支障を来す事が増え始めている。


 目に入れないようにといくら言われた所で、インパクトがありすぎる。あれを見慣れるようになってしまったらある意味でバスの運転手としては終わりかもしれない、そう思いながら集中力を振り絞って運転に集中するのだろうけど、もちろんそんな事をすれば疲労は大きくなる。ちょうどいい具合の力の抜き方を覚えようとしていた矢先の時期でしょうから、疲労も半端じゃないはず。







「まあそうなんだけどね」

「じゃあ今日もお預け?」


 ずいぶんと派手な下着を見せつけたけど、かえって裸の人間たちを連想させるせいか性欲がイマイチ沸き上がって来ないらしい。ああ、恨めしい。

「いや、幸い若い女には当たらなかったから」

「じゃあ行きましょうよ、明日は休みなんでしょ」

「ああ」

 それでも彼が最低限のやる気を見せてくれた事で少しだけ安心し、彼をベッドに押し倒した。今日は自分がリードする事になるんだろうなと思いながら、私は彼の服を剥いでいく。


「で、どんなのがいたわけ」

「おっさんなんだけどね、昼間にさあ」


 睦事の始まりまでそんな話をしてしまうほどに、あの裸の人間たちはこの世界を覆っていた。

 黄色人種的な肌色をした中年男性。顔は四十代半ばと言った感じではあるけど中年太りと言う風情はなく、筋骨隆々と言う訳ではないがそれなりには腹筋が引き締まっている。顔はと言うと年齢を鑑みれば平均以上と言って良い物であり、いわゆるバーコードヘアの頭がいかにも年齢を感じさせる物ではあったけど、それを除けばそれなりには格好のいい男性。

 そしてその男性には、鼻から下の体毛がまるでなかった。鼻毛にひげ、脇毛から陰部を覆うはずの毛。そして手足に生えている毛もない。まるで小学生がそのまま大きくなったようにすべすべした肉体をしてた。この日は梅雨の直前らしく降水確率10%ながら薄曇りの続いた日であったが、もし太陽が照っていればその肉体を照らし輝かせていたかもしれない――そうだ。


 たった数秒の事だったはずなのに、克明に記憶していたって言う。その男よりたぶんずっと毛深く、たぶん同じぐらい筋肉の引き締まった肉体を私の前にさらした私の未来の夫の顔は、いつもよりずっとブサイクだった。


「いったいその前はいつ見たってのよ」

「十日前。バスを動かしてる時じゃなかったのが幸いとは言え、これからって時に車庫にやって来るのには参ったよ。そう言えばお前は」

「五月の十六日。あなたから散々聞いてたけれどふーんとしか思ってなかったんだけど、いつものように派遣先に行ってる途中に出くわしちゃってさ、柄にもなくキャーって大声上げちゃって。同僚の幸恵からあらやだ初めてなのと言われちゃったわよ」

「でもその幸恵さんって人って」

「そう、私がその事言ったらもう人目はばからずゲラゲラ笑われちゃって。こんなんじゃこれからの時代ついていけないわよ、情報つかむの遅すぎって。まあね、話によればあなたが出くわしたのって初報から八日後だったんでしょ?」

「そうだけどな」


 私が見たのは少女だった。よちよち歩きがようやくできそうなほどの、二歳ぐらいの背丈の少女。その少女と呼ぶにも幼いホモ・サピエンスの♀は、その姿形とまったく不釣り合いなスピードで街中を走り抜けた。同僚の幸恵さんが一歳半の娘を持つ存在であるのを知っていたから慣れてるんでしょと言った結果の反応に、彼女はそりゃ全然違うわよと苦笑いしながらも少し傷ついたらしい。

 そして言うまでもなく、その二歳ぐらいの少女は一糸まとわぬ姿だった。


「運転手ってひとつ間違うと何百人単位の人間の運命を左右しちゃうから怖いよね、辛い時は何でも私に言ってね」

「ありがとう……」


 彼は疲れた肉体を、妻となる人間の肉体に埋めた。あと二ヶ月で三十歳になるこの男の全てを受け止める事こそ私に課せられた運命なのかもしれないと言うずいぶんと御大層なセリフを内心で吐きながら、しばらく少子化対策に勤める事にした。







※※※※※※※※※※※※※※※※








「いえいえ、こちらこそ唐突なお話をしてしまい申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いいたします」

 翌日、いつものように派遣先の企業に通った私は、ここ数日と同じ内容の声を聴いていた。まったく責任もないのにひたすら頭を下げる正社員の男性を見ながら、私はマイペースにキーボードを叩いた。


「またあの裸の話ですか」

「ああ、人間なかなか自分の目で見ないと信じられないもんだ。この三週間ほど、まずそれからすべての話題が始まっている。始めたくないんだけどな」


 この日はこちらが頭を下げられていたが、昨日はこちらが下げていた。お互いに頭を下げあうのが大人の世間とは言え、こうもあっさりと立場が変わってしまうとなかなか落ち着かない。さすがにこれで終わりではないかとなんとなく思いたかったけど、今の様子を見る限りまだ収まりそうにない。


「うちの会社だけでもぜんぜん噛み合わないもんな、世界的に統計を取ってほしいもんだよ、どうなるか面白そうじゃん」

「私は幼い女の子とおじいさんと、黒人の男の子、まあ男の子と言っても中学生ぐらいのですけど」


 年齢層も、性別も、社会的身分も、人種さえも何も関係なく目の当たりにさせられる。そして遭遇した回数も違えば、中身も違う。一回しか見ていない人間もいたし、十回以上見た人間もいた。直接見たと言う条件を取っ払えば、三ケタは下らない数を見ている人間もいた。

 そして、ゼロ回もいた。


 ゼロ回の人間にとっては、その存在ははなはだ信じにくい物であったみたいだ。今回問題となった取引先の営業課長とて、もちろんビジネスマンとしてそれ相応に情報には敏感なつもりであり裸の男女についても存在する事は把握していた、しかしそれらの実存をどうしても受け入れる事が出来ていなかった。



 昨日、外回りをしていた営業課長の乗っていたタクシーが突如金髪で青い目をしたの裸の少年に気を取られて急ブレーキをかけて事故を起こしてしまい、その結果取引に遅れてしまった事があった。

 その際にありのままの状況をはっきりと説明にしたにも拘わらず、相手先の課長からつまらない言い訳などやめてもらいたい、もう二度と取引などしないと断罪された。

 だがその課長が帰り際に嘘吐き呼ばわりした人が見たのとまったく同じ姿の裸の少年が現われ、無視を決め込んだが家までたどりつく間際に今度は全裸の老人が自分に向かって走り込んでくるのを見せられていよいよ信じずにいられなくなったと言う訳だ。

「人間なんて無責任なもんですよね、自分がまさか出くわすだなんてびた一文考えないで」

「向こうの課長さん大丈夫かな、ニュースとかでもガンガンやってるのに」

 を無視した、罪と言うより愚にも付かぬ行い。確かにその知識がなければ、裸の人間が走り回ったせいでなどと言う言葉を信じるのは無理があったかもしんないけどね。


 でもこの五月をきっかけに、その一つの常識があまりにもあっけなく崩されちゃった。年を取れば取るほど新しい物に適応するのは難しいというけど、この常識は一歳どころか生後一ヶ月、いや一時間の単位で身に付けられる物のはず。

 人間が猿から進化して体毛の大半を失い裸虫となってから、着る物の獲得は絶対的な生存条件だった。羞恥心とか体面とかはおそらくそれよりずっと後の話であり、遺伝子的に人間はそうしなければ生きていけないように生まれている。誰も逆らいようがない真理のはず。もし犬や猫であったらなんか変だなでしか終わらない問題のはずが、人間の姿をしている事により問題が大きくなっていた気もする。



「ああ書類出来ましたよ」

「部長のとこに頼む」

 まあそんな風に駄弁りながらもきちんと仕事をこなした私が書類を部長のPCに送ると、すぐさま部長からのメールが私のPCに飛び込んで来た。

「とりあえず明日の資料はこれでOKだね。まああせっちゃダメだよ。大欲は無欲に似たりとか言うけどね、無欲は大欲に似ないもんだよ。近ごろ話題のあれ、ほらストリートキングとかって奴あるだろ?あれぼく一度も見た事ないんだよ、カミさんはもう四回もあるらしいんだけどさ」

 見よう見ようとすると見られない。どこの誰が言い出したのかわからないその説もまた、謎の集団と同じように同時多発的に発生してやはりあっという間に世界中に伝播していた。

 ストリーキングなどと言う言葉を知らなかった私は苦笑いを浮かべながらメールを閉じ、次の仕事へと取り掛かった。還暦を過ぎた男性と思しき顔をした一人の男性が、まるで二十歳のような肉体を見せつつ走っていた事を気にする事もなく。

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