添削の時間

「せんせー、さようなら」

「ばいばい、巴ねーちゃん」

 今日の勉強を終えて子供たちは口々に挨拶をして散っていった。鞄を抱えてまっすぐ帰ろうとする子、寄り道をするのか何人か集って帰る子らもいる。

 すべての子供が出ていったのを確認して金香は部屋の中へ戻る。

 きっと皆そこにいらっしゃるだろうと教師の集まる教員室へまず向かったのだが、いらしたのは校長先生とほか何名かであった。

「巴さん、子供たちは皆帰りましたか。お疲れ様でした」

 金香が入ってきたことを見てとって校長が声をかけてくれた。金香は「先生こそ、お疲れ様でした」と返事をする。

 しかし不思議に思う。

 客人である、源清先生の姿が見えない。

 出張授業が終わったのだ。ねぎらいの茶などを出されてもてなされていると思ったのだが。

「巴さん。源清先生が呼んでおられましたよ。先生ときたら子供らの文を、書いてすぐのうちに詳しく添削してくださると、教室に残ってしまわれて」

「そうなのですね」

 源清先生を探してしまったのを気づかれてしまったことに恥ずかしくなりながら答える。

 添削は本日求められていた『出張教師』以上の仕事であろうに、そんなことまで進んでしてくださるのか。

 金香は先生の熱心さに心打たれた。

「子らの添削が終わったら、巴さんの文も見てくださるとおっしゃっていましたよ。それにせっかくですから、子らの文の添削の様子も勉強させていただいたらいかがです」

「そ、そうですね。有難く勉強させていただきます」

 校長の言葉は金香にとって嬉しいものだった。

「巴さんからも、よくお礼を申し上げてくださいね」

「勿論です」

 金香は今日の勉強がおこなわれた教室へ向かった。

 口ぶりでは『教室におられるのは源清先生お一人である』というものであったので、緊張を誘ったのだが。



 「失礼します」と、ノックをして引き戸を開ける。

「ああ、……巴さん」

 足を踏み入れる前に金香はどきりとしてしまった。

 やわらかなその声で名前を呼ばれてしまったので。

 子供たちの勉強を見ていたときと少し違う色を帯びているように感じた。それはとても優し気な。

 いえいえ、そんなのは勘ぐりだから。元々優しいお声でいらしたじゃない。

 金香は自分に言い聞かせ、少し躊躇ったものの先生の文机に近付いた。

「もうすぐ終わるよ。皆、よく書けている」

 先生の前には半紙がたくさん散らばっていた。子供たちの書いた作文。

 赤で書き込みがたくさん。これほどしっかり見てくださっている。

 勉強が終わり、子供たちが帰り支度をして解散してからそれほど時間は経っていないのに、なんと筆がお早いことか。

「お、お邪魔してもよろしいですか」

「はい、勿論」

 隣に腰を下ろしても良いか。

 またしても躊躇ったものの、立ったままのほうが失礼だろう。金香は思い切って問う。

 源清先生は当たり前のように答えてくれた。

「普段は巴さんが見ているのかな」

 一枚の半紙にさらさらと赤鉛筆を走らせながら源清先生に問われる。

 訊きながらも書けるとは。

 複数のことを同時におこなえることに感心しながら金香は頷く。

「はい。未熟ではありますが」

「そのようなことはないよ。少なくとも、本日拝見した限りでは」

「勿体ないお言葉です」

 ぽつぽつとやりとりをしながら源清先生は赤鉛筆を動かしていった。

 金香はその様子をじっと見つめる。

 自分もそこから勉強させていただくつもりだった。

 源清先生の文字は非常に整っていた。

 字はしっかり力を持っていて、男性的である。しかし雑なところはなく、とても読みやすい。

 そして漢字をあまり使っていなかった。

 子供にも読みやすいようにかしら。

 思った金香だったが、半紙が取り換えられていくうちに、そうではないことに気が付いた。

 先生は、使い分けているのだ。半紙に書かれている文の、熟成具合で。

 幼い、まだ漢字もあまり知らぬ子の半紙には平仮名で。

 逆にだいぶ漢字を覚えてきた子の半紙には少し難しい漢字も入れて。

 一読しただけでそれに合わせておられる。感嘆した。

 自分とて合わせることはできるだろう。

 しかしそれは一読しただけではできない、と思う。毎日子供たちと接しているからできることだ。

 この子は幾つくらいだからこのくらいの漢字を知っているとか。

 この子は文を書くのが苦手だから難しい漢字はあまり使わないようにするとか。

 日々の経験からきているものなのである。

 源清先生はそれがほぼ無いというのに金香以上に的確な使い分けであった。金香は見事な添削の様子に見入ってしまう。

「さて。これですべてだ。明日は勉強があるのかな」

「あ、は、はい!」

 最後の半紙を積んだ紙の上に置いて。

 源清先生は金香を振り向いた。

 見入っていた金香は、急に視線を向けられて驚いてしまう。

「……はい。文の時間もあります。そのときに子供たちに配って、もう一度繰り返してみようと思います」

「それが良いね。書き込みを読むだけではあまり進歩にならないから。自分の手で、もう一度書いてみるのが良いと思うよ」

 自分の指導方針を述べた金香に、源清先生はにこりと笑ってくれた。

 肯定されたことで金香はほっとした。小説家の先生に、指導を『良い』と言われたことに嬉しくなる。

 そして思った。

 この人は他人の言うことを否定しない。

 どんなことでも一度受け止めてくれる。

 自分の意見を言うのはそのあとだ。

 それはとても容量の大きいことだ、と金香は感じた。

「先生にまた見ていただければ、どんなに子供たちの勉強が進むでしょう」

「そう言っていただけると嬉しいな」

 そのあと先生は手を伸ばして。文机に残っていた一枚を手元に置いた。それは勿論、金香の書いたもの。

 見ていただける。

 緊張に金香の背筋が、ここまで以上に伸びた。

「これは、子供たちにも伝わるように平易に書いたのかな」

 源清先生の指が文字をなぞる。

 白くて長い指だった。指の先まで綺麗だ、この人は。

 問いかけに金香はどぎまぎしながら答える。

「は、はい。きっと読むことになると思いましたから」

「素晴らしいね。読む、というか、聞く人のことまで考えて書けるというのは、誰にでもできることではないよ」

「……余るお言葉です」

 受ける言葉は弾んでしまった。

 それはこのひとが優しいからだけではなく、勿論小説家だからだけではなく、本心からそう言っているのが伝わってきて嬉しいから。

「直すところがあるとしたら、そうだね……。もう少し改行を少なくしても良いかもしれない。すかすかして見えると、見た目として少々読みづらくなることもある」

 金香の書いた文に改行の印が幾つか入れられていく。そのあとも幾つか改善点を挙げてくださり金香の半紙にも赤がたくさん入った。

 自分では精一杯書いたつもりであったが、まだまだ精進の余地はこれほどあるのだ。

 思い知らされたことにちょっと情けなく思ったが、すぐに思った。

 伸びしろがあるというのは、そしてそれを指摘していただけるというのは、素晴らしいことではないか。今回の『出張教師』として来ていただいたのは、なんという貴重な機会だっただろう。

「思ったのはこのくらいかな」

 記入と解説を終えた半紙を差し出されて金香はそれを受け取る。嬉しさのあまりにうっかり半紙を抱きしめるところだった。気持ちだけにしておいたが。

「ありがとうございます。精進いたします」

 にこっと笑って「うん」と頷いた源清先生であったが、そのあと意外なことを言われた。

「文の勉強の教材は、きみが作っていると聞いたのだけど」

 そんなこと、知られてしまっていたのか。

 金香は急速に恥ずかしくなってしまう。このような若輩者が教材を作っているなどと。

 きっと校長に聞いたのだろう。まさか読まれたのだろうか。羞恥に死んでしまいそうだと思う。

 手を抜いて作ったとは思わないのだけど見ていただいたものにもこれほど手が入ったのだ。先生からしたら稚拙極まりないだろう。

「ええと、小説などをお借りしているものもあるのですけど、一部は一応、私が……」

「そうか。読ませていただいたのだけど、そちらもわかりやすかったよ」

 やはり読まれていたが、褒められて嬉しさに顔が熱くなった。

 ……頑張って作ったのだ。

「今度、新しい教材ができると校長先生に伺ったのだけどね」

 そこまで聞かれていたとは思わなかった。そして言われた言葉は更に意外だったのだ。

「もし良かったら、書き上げたら見せて貰えないだろうか」

「……え?」

 書き上げたら?

 金香にとっては教材として作っている文は『作品』として意識はしていなかった。

 が、先生のその言い方は『作品』として扱ってくれているくちぶりで。

「ほかのものが面白かったからね、ちょっとした興味なのだけど」

 断るという選択肢はやはり無い。恐れ多い以上に、自分の作った、書いたものを評価していただけるなどなんという好機だろう。

「み、見ていただけるのでしたら、……是非お願いします」

 頬はきっと桃色に染まっただろう。そんな金香を見て先生も嬉しそうな顔をしてくれた。

「うん、有難う」

「いえ!私こそ」

 そのあとは「では、そろそろ私は行くね。今日は有難う」と源清先生は鉛筆などをまとめて、立ち上がった。

「私どもこそ、お世話になりました!」

 ばっと、大袈裟なまでに頭を下げてしまった金香。そんな金香にかけられたのは、「私こそ、良い経験だったよ」という優しい言葉だったのである。



 源清先生の添削してくださった子供たちの文をまとめ、明日の支度を軽く整えれば、今日の金香の仕事は終わりだ。

「では、わたくしはこれで失礼いたします」

「はい。巴さん、お疲れ様。お気をつけて帰るのですよ」

「ありがとうございます」

 挨拶をするために教員室へ一度寄り、中へ礼をして金香は退室した。

 このあと校長や教師らで、源清先生を労うための酒の席かなにかがおこなわれるのであろう。

 しかし、同じ教師の領域で働いていようとも、女性であり、また若くもある金香はそこへ入ることはないのだ。まだまだ世は男性が中心で回っている。今日ばかりはそれを残念に思ってしまう。

 教員室の奥。

 客用の長椅子で源清先生が茶を出されて、ほかの教師たちと会話しているのがちらりと見えた。

 帰り際にお姿を見られたことを嬉しく思う。

 今日はとても愉しかった。勉強の時間も書いた文も、添削していただいたことも褒めていただいたことも、全部だけれども一番はやはり『新しいものを書き上げたら見せてほしい』と言っていただけたこと。

一層頑張って書かなければ。帰ったら早速取り組もうと思った。

 そこでやっと、金香は噛みしめる。

 ……つまり、またお会いできるのだ。

 このうえない喜びだと思ってしまい、今日何度目かもわからぬ熱を頬に感じたのであった。

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