シモーヌ編 良き隣人としての記憶

『いくら<同じ人格>と<同じ性格>と<同じ記憶>を持っているとはいえ、必ずしも同じ判断をするとは限らない』


これは事実だと思う。人間は、同じ選択を突き付けられてもその時の状況によって別の判断をする場合があるだろう? 久利生くりうが、


『同じ雄を複数の雌が共有することもある』


というここの感覚を受け入れてくれたのは、きたるに熱烈に迫られたからというのもあるだろうしな。きたるには、地球人の感覚など理解できない。地球人の理屈で彼女を説得するなんてことはできるはずもなかった。だから彼女を納得させるには、受け入れるしかなかったんだよな。


もちろん、頑として拒むこともできないわけじゃなかった。けれど久利生くりう自身、ここで生きていくには、


『郷に入っては郷に従え』


って部分もあることを承諾してくれたというのもあるんだろう。が、きたるの存在がなければそのままビアンカだけをパートナーにしていた可能性も十分にあると思う。


元々は生真面目な人間だしな。


生真面目だからこそ、『ここの<常識>には従った方がいいのかもしれない』とも思ってくれたってのもそうだろうし。


そうだ。同じ<生真面目>でも、どこに基準を置くかで判断が変わることもあるはずなんだ。


となれば、新しく<久利生くりうのコピー>が現れたとしても、


『ビアンカが今の久利生くりうを選んでいるのなら潔く身を引いて別の集落に腰を落ち着ける』


かもしれないわけで。つまり、あかりを受け入れてはくれないと。


あかり自身、相手に脈がないと察するとあっさりと諦めるところがあるみたいだしな。


なにより、あかりは、


きたるのことも大切にしてくれた今の久利生くりうが好き』


なんだよ。それは確かにある。


だからこそ、今度の<秋嶋あきしまシモーヌのコピー>がどういう振る舞いをするのかなんてのは、分からない。俺のパートナーになってくれたシモーヌと同じ判断をするとは限らない。


と言うか、今のシモーヌだって俺とパートナーになるまでには二十年ばかりの期間を要したわけで。そういうものだと思う。


そして俺も、今のシモーヌだから愛せている。いくら彼女と同じ姿や人格や性格や記憶を持っているからといって、俺にとっての<良き隣人>として暮らした記憶までは持ってるわけじゃない。良き隣人として過ごした時間があるわけじゃない<新しい秋嶋シモーヌのコピー>を愛せるわけじゃないんだよ。大前提が違うんだ。


だからといって蔑ろにするつもりもない。たとえ<コピー>であっても、今度のシモーヌもやっぱり<人間>だ。人間として敬うし労うさ。


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