08 約束
「本当に……何やってるんですか、貴方は……」
「ああ、悪いな。クリスティーナ」
あの紫色の物体を食べたヴィンセントは、謎の胃もたれを起こして倒れてしまい、ソファで横になっていた。
私は彼の目に冷やしたタオルを置き、すぐ横で腹を抱えてうずくまり、大爆笑している悪魔を見やる。
「あははははっ! クリス、睨まないでよ! ふふっ、別にっ……ふふっ、ボクは、悪くないもーん。勝手に食べたのはアイツだし……あははっ!」
ジェットが床をバンバンと叩きながら笑い転げる姿に私はため息をついた。
「ヴィンセント様、なんで食べたんですか……」
どう見ても、あれは食べられるようなものではなかった。いくらクッキーの香りがしても、あの毒々しい色と漂う黒い瘴気を見れば、本能的に危険を感じるだろう。
彼はまだ胃が苦しいのか、少しかすれた声で答える。
「単なるお前の強がりだと思ってな……」
(一体何の強がりだと思ったのよ……)
きっと彼特有の分かりにくい優しさ故の空回りだったのだろう。もしかしたら、失敗したお菓子を1人で食べるのが可哀そうと思ったのかもしれない。
「もう、貴方は優しいのに空回ってばかりで昔と変わりませんね……」
根が優しい事は私も分かっている。しかし、どうも彼は人の気持ちを汲もうとして空回ってしまう。おまけに本心を隠してしまうので厄介だ。
(でも、これでもかなり成長したのよね……)
あの紫色の物体を目にして笑わず、さらには励ましてくれる。初めて会った時の彼と比べたら大きな成長だ。
彼は目の上に乗せていたタオルを取り、私を見上げた。海を閉じ込めたような青い瞳が私をじっと見つめてくる。私はまた彼に変なことでも言ってしまったのだろうかと首を傾げる。
「何ですか?」
「まぁ……なんというか、お前もあんなに取り乱したり叫んだりするんだな……知らなかった……」
それを聞いて私は呆れてしまう。
「何を言うんですか。私だって人間ですよ? 人が目の前で倒れたり、劇物を食べたりしたら叫びますよ」
「普通自分で作った菓子を劇物って呼ぶか?」
「劇物は劇物でしょう?」
「味はクッキーそのものだったぞ?」
「まったく口が減らないですね……」
私は思わず笑ってしまう。本当に彼は昔から変わらない。背もぐんと伸びて、声変わりもしたというのに、可愛らしいと思ってしまう。ジェットに続いて手のかかる弟を得た気分だ。
「ところで、今日はどうされたんですか?」
「オレと婚約しろ」
本気には聞こえないほど簡単に言われた婚約の申し出に、笑っていたジェットがピタリと笑うのをやめる。
赤い瞳で私を見上げており、私はいつもの返事をする。
「バカの1つ覚えみたいに言わないでください」
「あのなぁ……オレは……」
「それに私、シヴァルラス様の婚約者候補になったんですよ」
私の言葉を聞いた途端、ヴィンセントは、がばっと勢いよく起き上がり目を大きく見開いて私を凝視する。
「は……?」
「婚約者候補です。今日言い渡されました」
そんなに意外だっただろうか。彼は何度か口を開閉させた後、頭を抱えて大きなため息をつきだした。なんて失礼な奴だ。
「何ですか?」
「……昨日、はいと言わせるまで屋敷に返さなければ良かったと後悔してるところだ」
「物騒なことを言わないでください」
彼の背後で天使のような笑みを浮かべた悪魔が、大きなピクルス瓶を構えているので本当にやめて欲しい。
彼は再びため息をつき、拗ねた子どものように唇を尖らせた。
「お前はシヴァ兄にずっと憧れていたもんな……シヴァ兄が相手なら仕方がない。……まあ、候補だし……お前、ボロを出して候補から外れないといいな」
「素直におめでとうって言えないんですか?」
「ハイハイ、おめでとう」
なんて適当な。私は苦笑すると、不貞腐れた顔をしたヴィンセントが私をじっと見つめる。
「来週の社交界のお披露目……」
「ああ、あれですか?」
この国では貴族の子どもは14歳になると王族に挨拶をする儀式がある。それに参加して社交界デビューとなるのだ。
彼は恥ずかしいのか少し言いづらそうにしており、とうとう私から視線を逸らした。
「ダンスがあるだろう? シヴァ兄の次はオレと踊れ」
ぶっきらぼうに伝えられた誘いに私はまた苦笑する。
「はい、もちろんです」
ヴィンセントの体調が戻り、屋敷に帰る彼を見送っていると、ジェットがぽそりと呟いた。
「そっか……クリスも社交界デビューか……」
その声はどこか哀愁があり、寂し気に赤い瞳を煌めかせた。
「つまんないな~、またクリスと遊ぶ時間が減っちゃう」
彼はそう言うと、のしかかる様に後ろから私に抱き着いた。
「クリスが大人になっちゃうの……やだな…………大人になんてならないでよ、クリス」
懇願するような言葉を口にし、ぎゅっと腕に力を込めて全身で寂しさを訴える。
彼を私は宥めるように柔らかな髪を撫でた。
「大人にって……成人するのはまだまだ先よ?」
「そうだけどさ……なんていうか……その……」
彼は少しだけ言い淀むと、私の肩に顔を埋めた。
「ヴィンセントが羨ましい……」
消えそうな声で彼はそう言った。
羨ましいなんて言葉がジェットの口から出るなんて思わなかった。それもヴィンセントを羨ましがるなんて。
なぜ彼がそう思ったのか、私には分からなかった。しかし、感傷的な彼が見ていられなくて、私はわざと声を明るくした。
「ねぇ、ジェット! 私、来週のお披露目の日、一緒に踊らない?」
「え?」
彼はきょとんとした顔でこちらを見つめ、私はにっこり笑った。
「私、いーっぱいおめかしして、華やかな社交界デビューを飾るつもりなの。貴方にもドレスを見てもらいたいし、久しぶりに貴方とも踊りたいわ」
来週のお披露目は私だけでなく、父や兄、母も気合を入れて準備してくれている。完璧な淑女として、どこの令嬢にも負けるわけにはいかない。
何より、私は社交界デビューをしたら、綺麗に着飾った私と一緒に踊ってもらいたかったのだ。
「経験豊富で女性のエスコートも誰よりも上手なんでしょ?」
私が茶化すように言うと、暗かった彼の表情が徐々に柔らかくなっていく。
「任せてよ。どこぞのヴィンセントより上手くリードしてあげるから」
「ふふっ……楽しみにしてるわね!」
「うん……絶対に会いに行くから……」
ジェットは「絶対に……」と私を再び抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます