b ニシノにまとわりつく毛玉
久々の実況撮影から数日経ったある日、巽がおもむろに綾人の肩を叩いた。
梅雨の明けきらぬ七月上旬、じめじめとした曇天の日のことだ。
「なあ、秋津あれ視えるか」
夏に向けて気温が上がりはじめ、高い湿度と相まって不快指数は上昇の一途を辿るばかり。綾人たちは除湿機が導入された師匠の家もといお化け屋敷に入り浸っては、ごろごろしたりゲームをしたりだらだらしたりしていた。
もちろん心霊スポット巡礼も、師匠の気まぐれで行われている。
先日師匠に嵌められるかたちで突撃した幸丸大学本部キャンパスの十一号館については、後日、顔の広い千鳥からも情報がもたらされた。
曰く、六階で集団自殺があったという噂があり、度胸試しに訪れる学生が後を絶たない。呼んでもいないエレベーターの扉が開く、誰もいないはずの教室の電気が明滅する、六月の梅雨時期にはなぜか必ず新一年生が飛び降りを目撃する。堂々たる心霊スポットっぷりである。
だが誰も、綾人と巽が迷い込んだ『幻の七階』のことは知らなかった。
おかげで二人はいまもエレベーターにちょっぴりトラウマを抱えている。友人たちは首を傾げつつも、「ダイエットか」「おれも付き合うぞ」と階段の上り下りを快く了解してくれた。
そんなことがあって、その日も綾人たちは階段を使用し、次の講義が行われる五階の教室を目指していたのだ。
「あれって……どれ」
次の講義が行われる教室へ向かいながら巽の指さす先を見たものの、そこにいるのは千鳥を含めた学科の友人たちで、特におかしなところはない。いつも通り昨日見たテレビや読んだ漫画の話をしてはけらけら笑っている。
その姿を見ながら今日も平和だなと呑気に構えていると、巽はそのなかのニシノという男の足元を指さしていた。
「そっちじゃなくて、ニシノの足元」
ニシノは貧乏学生ながらたいそうお洒落な奴で、一緒に講義を受けているグループの中では頭一つ飛び抜けて顔と愛想がいい。
中学や高校ではクラスをまとめるリーダー格だったのだろうと思われたし実際そうだったらしく、知り合った当初はその目映いばかりのスクールカースト最上位オーラに若干恐れをなしていたが、慣れてみると意外とただのおばかさんであった。
先日千鳥が気にかけていたのはこのニシノである。綾人にはやはり、いつも通りにこにこしているように見えた。
「ん?……んん?」
そのニシノの、黒いスニーカーの周りに、何やら大きな――毛玉がまとわりついている。
「毛玉……」
「秋津なんか言ったかー?」
「いやなんも」
しらばっくれつつも、綾人の視線はニシノの足元から離れなかった。
大体サッカーボール大くらいだろうか、ふわふわの白いそれは廊下を歩くニシノの右足に飛びついたり、並んで歩いたり、たまに蹴られたり、左足に掴まったりしている。頭も手足もない。
綾人には毛玉に視えているだけで、巽の目にはまた別のものが映っているのかと一瞥すると、「毛玉だよな」という呟きが返ってきた。やはり毛玉らしい。
特大サイズの、タンポポの綿毛のような毛玉。
「……いつからあんなの憑けてんだ、ニシノのやつ」
白い毛玉は階段を転がり落ちた。
ニシノの後ろを歩く綾人たちの横をころころと転がっていくと、また階段を上がっていっては足にまとわりつく。
「わからん、俺もさっき気づいた。……害はなさそうだが」
「ニシノも気づいてないもんな」
綾人たちに視えているああいうものは、たいていの人には視えていない。
そういういわゆる幽霊や妖怪や何やかんやより後、神霊に至るまで全てのものをひっくるめて、師匠は『彼岸のもの』と呼んだ。
世界には層がある。
綾人たち人間の住む層の他に、何十、何百、それこそ八百万の層が重なって、全ての世界ができている。そして人間が物理的に関与できる層の他は、総じてヒトでないものの棲家なのだそうだ。
そしてそれぞれの層を生きるものは、同じ層のものしか五感として認知できないのが一般的である。
その例外が巷にいう『霊感のある人』で、師匠はそれを『見鬼』と称した。
人間以外のものが生きている層の波長に、自分の生きている波長を近づけることが、無意識本能的に得意な人だそうだ。
普通の人たちよりもほんの少し、そうでないものに近いということ。
とはいえ、ヒトでないものには謎が多い。
綾人は見鬼が特別強い方ではないし、巽の方は視える体質になってからまだ二年しか経っていない。
つまり、ニシノにまとわりつく毛玉が何だか、弟子たちには皆目見当もつかないのだった。
「ニシノに悪い影響があるようなら師匠に相談するか」
巽の言葉にうなずきながら、といっても、と師匠の顔を思い浮かべる。
「相談したところで物理以外の解決法がなさそうだけどなぁ、あの人」
「あの毛玉は物理で解決できるもんか……?」
「巽がメンチ切って脅せばびっくりして逃げていくかも」
師匠に師事してわかったことだが、強い気持ちや確固たる意志をもってすれば、意外と幽霊には物理攻撃が効く。
巽が金属バットで殴ったり、師匠が凄まじい迫力で怒鳴ったりすると、驚いたり衝撃を受けたりして霧散していくことが多かった。綾人もいつかはそうして気迫だけで退散させることができるようになりたいのだが、いまのビビリ気質のままでは難しいだろう。
むむむと悩む二人の視線の先で、毛玉は再び歩くニシノの足に蹴っ飛ばされてころころと転がった。
なんだか本当にサッカーボールみたいだ。自分から望んで蹴られにくるサッカーボールなんて、聞いたことないけど。
「まあ、お互いにニシノの様子はよく見ていよう」
「そうだな」
ああいうものは害意があると厄介だ。
だが、そうではなくて何も考えていないものとか、何が何だかよくわからないものは、雨の日に地面を跳ねる蛙と同じようなものだ。
毛玉は結局ニシノから離れることなく、一日中、足にまとわりつき続けた。
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