辞書と少女と挨拶と

 私がいつから「私」だったのか、正確に答えることはできない。


 逆にあなたはいつからあなただったのか、それを答えられるのか、と尋ねたい。

 心、意識の最初の一握りを思い出そうと記憶を辿れば、断片的なイメージの散らばりに行き当たって曖昧にぼやけてしまって、そこからは遡れない。その断片的なイメージは果たして「私」か?


 とにかく私は、「本」と呼ばれる存在で、いわゆる「辞書」という種類のそれらしい。


 ここは人間と呼ばれる記述有機体が支配する学校という場所の図書準備室と称された小部屋で、私はその棚に納まった一冊の辞書だ。

 気の遠くなるような月日をここで過ごすうち、私は「私」を手に入れ、徐々にそれ以外をも手に入れた。

 「体」だ。

 いや、これを体と呼べるのか。

 始めは「手」だった。

 人間が私と関わるに当たり繰り返し繰り返し触れた「手」。

 ある日、私が人間の手のことを考えていると、音もなく私の表紙からうっすらと透けた白い手が伸びた。それは、人間が私に向けた手の、その意図の反射のように私には感じられた。

 それから眼。そして足。背中。後ろ姿の頭と、四肢を繋ぐ胴体。私は、辞書と人間の境目をうろうろとする曖昧な存在となって、人間が支配する学校の小さな図書準備室を支配していた。

 部分的にでも人間の体を得て、改めて人間を意識すれば、私の人間の体が再現する部分は増え、またその作りは次第に正確になっていった。


 ある夜、私は全裸の少女だった。


 とは言え、その体の再現は部分部分がぼやけてモヤのようになっていた。何せこの部屋で人間の少女はよく見かけるが、その裸の姿を見たのは長い私の暮らしの中でも、たった一度切りだったから。


 この頃になると、私は人間がどういうものかにも、かなり詳しくなっていた。そもそも私の体には、彼らが記述した様々な事物の意味や特徴が書かれていて、それらは私が人間を、世界を理解するのに大いに役立った。


 不思議なもので、私が少女の姿に変わるにつれて辞書としての体は宙に解けるように消え失せて、少女の姿と入れ替わる。辞書に戻る時はまたその逆の現象が起きる。この事は私の中にも記述がなく、私自身の理解をも越えていたが、とにかく私はそうできるのだという事は理解していた。


 教師の姿や少年の姿も試してみたがどうも収まりが悪く、姿を安定して保てなかった。

 黒髪の、セーラー服の少女の姿。

 それだけが、私という精神と言うか魂と言うか、私を私たらしめている霊的なものを定着させる依り代として都合がいいらしかった。


 人間の姿の私の有り様を夢中になって繰り返し探るうちに、その日は朝になってしまっていた。窓から朝日が差し込む。鳥の鳴き声。エンジンの音。いつもの朝だが、私はいつもと違うことを試みた。


 窓に近づいて、クレセント錠を解く。

 朝日を浴びながら、からからと窓を開けた。

 日の光が街の建物と空との間に強いコントラストを作っていた。

 眼下の校舎の前の坂道を、少年が走っていた。

 私は何故か姿を見られてはいけないような気がして、窓を閉じ、身を引いてそっと辞書に戻った。


 その日、眼鏡を掛けた若い女教師が図書準備室を訪れて、窓辺に白い一輪挿しを置き、白い水仙を飾っていった。

 生徒も殆ど訪れないこの図書準備室にそんなことをしてどれ程の意味があるかは分からないが、彼女にとっては大事な理由があるのか、それとも特に大した理由もなく気まぐれにそうしているのか、生真面目そうなその女教師は時々そうやってこの部屋の窓辺に花を飾るのだった。


 夕方に差し掛かり、生徒も帰り始めた時分。


 私はその花が気になって、また少女の姿をとり、一輪挿しに近付いた。

 仄かに独特の匂いが香った。

 私はもっと高い精度で花を確認しようと、その一輪挿しを手に取って間近に見ようとした。


 その時だ。

 図書準備室のドアがガタ、と鳴った。

 私の意識の集中は途切れ、途端に一輪挿しを持った手は実体を失ってそれを取り落とした。

 ドアは開くわけではなく、誰かが遠ざかっって行く気配がする。

 一輪挿しは数センチの距離を落ちて窓べりに跳ね、バランスを失って倒れて行く。

 私は慌てて意識を集中し直すと、実体を取り戻した手で斜めになったそれを、きゅ、と支え、ゆっくりと元の場所に置き直した。


 ほう、と息を吐いて、一輪挿しが無事である事を再度確認する。



 すると不思議な呼吸が喉の奥から漏れ始めた。


 短く刻むような、ふ、ふ、ふ、と込み上げるような呼吸である。


 これが「笑い」か。


 私は辞書のくせに笑っている私自身を意識して、また笑った。なるべく小さな声にしようと押し殺した笑いは、押し殺したことがまた面白く、長く尾を引いて途切れるところを知らなかった。



 人間のように笑って、大胆になったのだろうか。


 その夜、私は初めて少女の姿で図書準備室から一歩足を踏み出した。


 暗い廊下を、非常口の緑の案内灯と、消火栓パネルの赤いランプとが淡く照らしている。


 どこまでも広がる、誰もいない、私だけの空間。私の胸は高鳴り、心は踊った。狭い図書準備室を抜け出して、自分の足でどこまでも行ける。私は女王だった。暗闇の学校を治める人の姿を借りた書の女王。私は笑った。二回目となるとより少女らしさを意識することもできた。


 くすくすくす……。


 その笑いは大きくはなかったが、無人の学校の廊下に思いのほかはっきりと響き、かなり遠くの方にまで伝わって行ったようだった。


 その音を聞き付けたからか、単に巡回路だったからか、揺れる懐中電灯のライトと足音が近付いて来る。用務員か、警備員か、とにかく人間だ。私は踵を返すと二本の足で長い廊下を駆け抜けた。

 気持ちいい。

 世界は、気持ちいい。

 私は、決心を固めた。



 朝が来た。


 窓から朝日が差し込む。鳥の鳴き声。エンジンの音。いつもの朝だが、それは私の最初の朝であり、同時に最後の朝だった。


 窓に近づいて、クレセント錠を解く。

 朝日を浴びながら、からからと窓を開けた。

 日の光が街の建物と空との間に強いコントラストを作っていた。


 もうすぐ、沢山の生徒たちが登校して来る。夕方、生徒たちの下校とタイミングを合わせて、私もここを出て行こう。


 学校は、世界のほんの一部でしかないと、私は知識としては知っている。


 この朝は、私がこの学校から出て行く最初の朝だ。

 見に行こう。世界を。

 その大きさを。広さを。


 この朝は、私がこの学校で過ごす最後の朝だ。

 感じよう。その気持ち良さを。

 恐らく同時に、その醜さと痛みを。


 校舎の前の登り坂を、また少年が走っている。少年が私に気付いてこちらを見上げた。


 私は朝のひんやりとした空気を胸一杯に吸い込んで、その少年に向かって笑顔で挨拶した。


「おはよう!」


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